【対談】佐々木誠×原一男 『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』に関する、極私的対談

境界線というものは、実はそう簡単に浮き彫りにできない

 私ばっかりしゃべっていてなんですが、『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』で疑問があるので訊いてみたいんだけど。

佐々木 はい、お願いします。

 Chapter1の中で、何か事件があったというところから始まっているじゃない。あれは具体的な事件があるんですか?

佐々木 主人公の彼は本当に統合失調症を患っているんですが、いっていることは実際に自身が体験した事を語ってもらっています。ただ、こちらで作った架空の事件に繋がるように編集しています。

原 そうだよね、つまり「この場所で」っていうのがフィクションで、具体的にあそこで何かがあったというわけではないんだね。

佐々木 そこは映像リテラシーというか、見た映像をすぐ鵜呑みにしてしまうというのが怖いと思うんです。ニュースやドキュメンタリーの映像をそのまま受け取ってしまうということに対するアンチテーゼとして構成しています。

 3つ話があるんだけど、1番目は統合失調症なんだね。

佐々木 はい、そうです。

 2番目は門間さんっていう人が出てきて、彼は難しい名前の病気だよね?

佐々木 アルトログリポージス(先天性多発性関節拘縮症)という病気です。

 それで、最後にアメリカ人の女性とセックスするんだよね。

佐々木 Chapter2の中でもその娘とセックスできなかったという話が出てきます。

 そういう作り方、つまりその3つを貫通するものがあなたのやりたかったことだよね?我々が持っている社会のある種の閉鎖性や差別、そういうものが一枚めくれば歴然としてあるんじゃなかろうかというような問題提起、そこを明らかにするというような意図だよね?

佐々木 はい。

 ただね、良い悪いじゃなくて、そういうところをこの作品は明らかにしようとしていると受け止めて理解しているんだけど、一面でね、そうはいっても精神障害者をめぐる課題ってじゃあ何なのか。身体の障害者をめぐる課題は何なのか。そして性をめぐってのマイノリティとはどういうものなのかって、それぞれ個別に違う問題もあるでしょう?

佐々木 そうですね。

 私はそっちの方が気になるのね。それぞれを深く追求しようとすると、今後どうするのかなあという感じがあるわけ。それはどうなんですか?

佐々木 原監督がおっしゃったように、今回は個々の問題を追求していないので物足りないところはあると思うんです。

 (笑)。

佐々木 ただ、この作品では、たくさんの問題提起をすることに比重を置いています。こういう問題って、僕にはたまたま身体障害者や統合失調症の友達がいたので、それが普通だと思っていたんですけど、それを他の知人に話すと驚かれるわけです。なので、これはまずフローな感じで描いて興味を持ってもらうことが必要なんじゃないかと考えたんです。

原 聞いているとそうだろうなあとは思うんだけどね。いまアテネフランセで講座(※注3)をやっているんだけれども、セルフドキュメンタリーという、ジャンルがあるようでないような、でも紛れもなく日本のドキュメンタリーの中でスタイルが確実に根付いている方法があるじゃない。Chapter 3だけは自分が体験していることを描いているからセルフドキュメンタリーといえると思う。理屈でいうと前の2つの章も同じと言えなくもない。

にもかかわらず違うんだよね。なぜならば他者だからだよね。つまり『マイノリティとセックスの……』タイトルが長い(笑)、という映画のいわんとするところは分からなくも無いんだけれども、はてさて、1章2章と、3章は違うじゃんって。ひとりの映画作家がこれ1本しか作らないわけじゃなくて、この後1章2章で提示した問題を受けて、2作、3作と作ればいいだけの話だから、そういう意味でプロローグの位置づけとしてこちらも観るし、多分作り手もそのように考えているんだろうなあとは思うんだ。

精神障害の問題と身体の障害の問題をひとつひとつ考えていくと、みんな違う。同じ身体の障害でも、障害と言われている身体の部分によって捉え方が違う。いろいろな人が精神障害の映画を作っているのを観るとね、ああなかなか難しいもんだなあっていつも思うよね。結局、障害のことは我々には分からないじゃない?撮るのはこちらなんだから。それは身体障害者の人も同じだけどね。

だから、『さようならCP』は、身体の障害を持っていない私が、身体の障害を持っている人間を撮るということも含めてね、作品化するためにはどうしたらいいかって考えざるを得ないよね。その辺りをあなたがかなり意識しているのかしていないのか、しているようには見えるんだけど。

佐々木 ええ。意識はしています。

原 ただそれをどのように映像化していくかという手法に関しては、とても難しいと思うんだけど、まだなんかぶれてない?

佐々木 それをすごく考えた時に、出てくる人物たちは実在で、架空の事件を架空の制作者が撮るという設定によって無意識の境界線が浮き彫りになれば良いなあという、ある種実験だったんですけれども。それが上手くいっているかどうかは分からないですが……。

原 それを聞きたかったの。上手くいっていると本人は思っているのかしらねって。

佐々木 門間さんは友達なんですけど、たくさん話も聞いて試行錯誤しても、どうしても理解はできないんですね。理解したっていうほうが嘘くさい。

 それはねぇ、実はそう簡単に浮き彫りにできないんだよね。できたなんて言うとすぐ「どこが!」ってツッコミが入るってもんで。それは多分無理だと思うのね。繰り返しになるけれども、精神が統合失調だったら、じゃあ彼らには何がどうみえているのかなって考えてしまう。最近やたら病名が増えているでしょう?

佐々木 はい。

 どういえばいいんだろう。昔はそんなに複雑じゃなかったからね。我々が生きる上での価値がバラバラになったというか、何を信じていいのか分からないぐらいの混迷の時代に入っているという感覚だけはやたら強くなっている。そんな感じがあるんだけどね。

佐々木 だからこそ僕は、マイノリティとマジョリティというのを個人の焦点に合わせて捉えたかったんです。

 まあそれがいってみれば入り口。そこから一度まず総論を展開して、序論をやって、各論にはいっていくしかないという、今回はそういう事だよね。

▼Page3  自分が持っている価値観を変えないと、何も変わらない につづく

佐々木誠『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』(14)

注3:「new CINEMA塾」 原一男監督が塾長として、2014年4月より毎月1回1年間に渡って、ドキュメンタリー映画を観る、聞く、語る、講座。