【対談】佐々木誠×原一男 『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』に関する、極私的対談

僕であって僕じゃない虚構の人物がドキュメンタリーを撮る

 話は本質的なところから逸れるんだけど、生意気そうなディレクターが出てくるよね。あれは民放のディレクターなの?

佐々木 いや、あれ実は架空の人物なんです。

 あれ架空なの?作ったんか!?

佐々木 『今、僕は』(09)(※注8)という劇映画を撮った竹馬靖具という監督で、彼は役者もやっているんです。当時彼もかなり突っ張っていたので、その感じを強調してキャラクター化しました。

 あれ、作ったとしたら上手くできてるね。作ったとは思えなかったなぁ。

佐々木 ありがとうございます(笑)。あの役は、僕がいままで出会った嫌な人物をまとめて、さらにいわれて嫌だったこと、自分がいってしまって嫌だったことをセリフに集約しました。

 あれを入れた意図はなんなの?

佐々木 映像を作るということ、作っているひとを俯瞰して撮ることで、もう一度客観的に捉えたかったというのがあります。

 あ、そう。あれは良く出来てたよ。凄いリアリティがあったからさぁ。ああいうディレクターって現実にいるからさ、ムカムカするんだよな(笑)。

佐々木 でも、それがなんでムカつくのかって考えることも出来るんです。彼は面白い、視聴者が求めている番組を作るためにいっているだけなのに、見ている方がイライラするのはなんでなんだろうと。

 あの時に、ディレクターからいわれたあなたがオドオドしているのは、そういう演技をしたって訳だね。

佐々木 実際の関係性は、彼は僕の後輩なんです。そういうこともあって彼は撮影中楽しそうでした(笑)。

 他にあるの?そういう風に作ったシーン。

佐々木 あの……、ほとんどそうです。

 というのは?

佐々木 え~っとですね……、例えばChapter1の中島兄弟と僕が喧嘩するシーンやChapter2の車椅子がエレベーターに乗れる乗れないというのも作っています。

 本当は乗れるんだ。あの女性との関係性は現実なの?

佐々木 違います。

原 あれも作ったの!ということは、門間さんと性的関係がある女性のひとりという訳ではないんだ。

佐々木 そうです。ただ友人関係ではあるんです。ここでは門間さんのかつていた彼女を再現ドラマのように作っているんです。僕は原監督の作品の中でも特に『全身小説家』が好きで、「虚構」と「現実」というものを初めて意識したのがこの映画だったんです。それまでそんなことを考えずに映画を観ていたんですけど、井上光晴という人物が自分の生き方自体を「嘘」と「本当」を織り込んで創作してしまっている、それが凄く面白かったんです。でも、そういう人っていっぱいいるんじゃないかなと考えたんです。

 うん、いると思う。

佐々木 それを自分なりに映画にしたいと思ったんです。だから、僕であって僕じゃない虚構の人物がドキュメンタリーを撮るということがどう成立するのかということを試みているんですが、これは『全身小説家』の影響です。

 そうなんだ……、じゃあの女性は役者?

佐々木 はい、役者です。

 じゃアメリカ人の女性は?

佐々木 彼女は僕の友人です。

原 単なる友達?実際にあなたと性的関係がある恋人?

佐々木 ではないです。

 ないの!?あのように演じてもらったんだ。

佐々木 そうです。

『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』より

 なるほど……、ということはさ、あれが作ったシーンであると気が付かない人が圧倒的に多いんじゃないかと思うんだけど。

佐々木 そうですね。多いと思います。

 『全身小説家』はネタばらししてるでしょ?ネタばらししないと、井上さんが自分の人生自体を虚構として演じているということが観ている人にわからないよね。作ったってことはわからせたいとは思わないの?

佐々木 ちょこちょこヒントは出しているんです。

 いや~~、わからなかったぁ(笑)!どこがそうなのか教えて!

佐々木 主人公(佐々木本人)の演技でわざとらしいところを出したり、ディレクターの役もちょっとやり過ぎな感じを残していたりはするんです。あっ、原監督もよくいるっておっしゃってましたけど、ディレクターで普段ああいう感じに自分を演じている人っているんでしょうか?

 いますよ!生意気で頭に来る奴、いっぱいいる。

佐々木 (笑)。僕はデフォルメしてキャラクターを造形したつもりなんですが、ただわからなくてもいいと思っているんです。それは、井上光晴さんもそうだったと思うんです。

 井上さんは、ひとを楽しませる嘘はついていいんである、但しついた嘘は墓場まで持っていけというんだね。ネタばらししちゃいけないということなんだけど、ただそのことを表現しようとするとこちらがバラさないとそれが伝わらないというジレンマがある。

佐々木 そこは僕もまさにそうで、わかりやすくバラした方がいいのかどうかということは考えました。ただそうするとフェイクドキュメンタリーという体で見せることの面白くなさというか、僕も観る側になった時、最初からフェイクですよっていわれると冷めるんです。でも、今後この作品の最後に「フィクションです」とわざわざクレジットを入れたり、登場人物の顔にボカシをかけるようなことも考えたりするんです。

 そうか、楽しみは残してあるんだな(笑)。

佐々木 可能性としてそういう方法もあるのかなと。

 ああ、そこまで聴いてやっとわかった!あなたからもらった手紙の中に“ドキュメンタリーとフィクションの境界線はどこか?”と書いてあって、なんでわざわざこの言葉を入れなければいけないのかと考えていたんだ。わたしはこの映画を本当のことだと思って観てたからね。なるほど、そういうことだったんだ。テレビ(NONFIX)は本当の話?

佐々木 あれは本当です。テレビの企画ということもあって、それぞれのパートで細かく確認に確認を重ねて作っています。

 そうなんだ、あれ裏はないんだね。そうかそうか。だとするとこの映画は良くできてるね~

佐々木 テレビ番組のヤラセ問題というのが紛糾していた時期だったので、細心の注意はしました。逆に自分の映画ではそのことも含めて作り込んでみたいと考えたんです。

 テレビの作品は、撮影を山内大堂(※注9)がやっているね。『アヒルの子』(10)(※注10)では凄く腕がいいなぁと思って観ていたんだけど、あなたの作品でのカメラワークはあんまり良くなかった。

佐々木 (苦笑)。

 最後にクレジットで名前を見つけてね、なんでこんな下手なんだと思って。

佐々木 僕はまた是非組みたいと思っています。

 そうですか。もっと上手いはずなんだけどなぁ。

佐々木 伝えます(笑)。

 これは良くなかったなあ。ひとつひとつの画が丁寧で、尖鋭な画を撮ってたと思うんだけど、どうしちゃったのかな。調子が悪かったんかなぁ……。

佐々木 僕は『アヒルの子』を観て凄く良いなと思ったので、面識はなかったんですが声を掛けさせてもらったんです。普段どういう方法で撮影しているかはわからないんですが、最低限の意図を伝えたらあとは自由にやってもらいました。ただ完成したものを観てもらった時に、大堂くんから「ここを使われると思いませんでした」といわれるところが結構あったので、僕があえて良い画ばかりを使わないということが作用しているのかも知れません。

リリータクシー

NONFIX『バリアフリーコミュニケーション -ぼくたちはセックスしないの!?できないの!?-』(14)©フジテレビ

 監督とカメラマンの食い違いみたいなことは良くあるからね。

佐々木 『ゆきゆきて、神軍』で奥崎謙三さんが、最初は自分のプロモーションと考えていたというお話なんですが、

 最初から最後までそうだったね。あの人にとっては、所詮映画というのは自分のモニュメント、自分のPRだと。

佐々木 そのことを自分の映画に反映させて観てみると、僕が門間さんを撮り始める時にどんな話をしたのか記憶が定かではないんですが、最初にもお話しましたように、元々障害者を撮るということに関心があった訳ではないんです。友達を撮ることで関係が崩れるのが怖かったのかも知れません。それが『裸 over8』で企画を振られた時に、フィクションならできるんじゃないかと思いついたんです。

門間さんも、自分の生き様というか姿を残しておきたいという考えがあったと思います。そこで話し合ったのは、僕は門間さんの生き様を記録するだけのような映画を撮るつもりはない、といったんです。彼も、そんなことだけを記録することに興味はないと応えてくれました。だけど、いまこうして映画を観てみると、彼の生き様がしっかりと映っているんですよね。

 そういうことだと思うね。

佐々木 最初から意図したわけではないんですが、門間さんが亡くなってしまったいま、こうして残せたことを僕もうれしく思っています。

 奥崎さんが、『ゆきゆきて、神軍』を最初からそういう風にみているというのは聴いていたし、本人がそう思うならそれは構わない。大きくいえば、いかに奥崎さんを魅力的に描くか、描いてこそ奥崎さんがいうところの「これはわたくしのモニュメントであります」という奥崎さんにとってのPR映画に成り得るわけで、内容が濃くなければPR映画としてすら価値を持たない。だから、その言葉を否定的には捉えてないんだよね。

『極私的エロス』の武田美由紀もそう。武田さんってこういう人だったのねって、100%イコールとはいわないけど、映画ってどうしても+αのαの部分が大きいでしょ?ひとつ幻想をくっつけて提出していくから。撮る側は自分の表現として身体を張って撮るからね。そうやって+αがあってこそ、実体として成立すると思っていてね。だから、いまのあなたの話もあの手この手で仕掛けていって、何やってもいいんだけど、出来上がったものが門間さんにとっての生きた証としての記録であるというのは異論ない。そういうものだと思う。

佐々木 門間さんが亡くなったからかどうかわからないんですけど、自分が意図していたことなんて、たかが知れていると思いました。作品を観てくれたひとからの色々な意見からあらためて気づくこともありますし、作品がひとりで歩いていく感じがします。

 映画って観る方に教養があればその人が自由に観てくれる。そこが面白いともいえるんだけど。とはいえ作る側は一生懸命考えたはずなんだよね。目一杯自分が考えたことをぶち込みたいと思っているしね。そのうえで、観客がそれぞれ好きなように観ていく。そういう関係性が顕著にあらわれるのが映画じゃないかな。

佐々木 作っているときは、ワンカットをどうやって撮るか、カット繋ぎをそのままのテンポで行くのかズラすのか、意味や技術を色々と考えますね。受け取る側がそのまま受け取るのか、+αを取るのかで反応が違ってくる。そこが面白いなぁと感じます。

 うん、そうだね。

佐々木 原監督の『さようならCP』『極私的エロス・恋歌1974』2本と『ゆきゆきて、神軍』『全身小説家』2本では、対象者との距離というか向き合う意識があきらかに違うと思うんです。どちらの距離も好きなんですが、そこはあえて変えていったというものなんでしょうか。

 なんていうんだろ……、変えていくもんね。前と同じ方法を次の作品でもやってるなと思うと自分でげんなりしちゃうんだよ。だから自分がやったことを壊して違うことをやらないと面白くないという態度が基本的にある。あと映画ってね、1本やるごとに課題が深化していくんだよね。そうすると、方法論も変えないと深化した部分が表現できなくなるんだよね。変わらざるを得ないと思うんだ。どんどん変わっていくしかない。

▼page5  大前提としてルールはないと考えた方がいい につづく

『マイノリティとセックスに関する、極私的恋愛映画』より

注8:『今、僕は』―2009年公開 引きこもりの青年の混沌と再生を生々しく描写した竹馬監督のデビュー作。監督自身が主人公も演じている。
注9:山内大堂(やまうち・だいどう)―カメラマン 日本映画学校(現・日本映画大学)卒。主な撮影作品に『アヒルの子』『無常素描』『季節、めぐり それぞれの居場所』『ドコニモイケナイ』『祭の馬』などがある。
注10:『アヒルの子』―2010公開 小野さやか監督。小野さやか自身がメ¬ガホンを取り、自らの家族と対峙しながら長い間抱えてきた苦しみを赤裸々にあぶり出して¬いくドキュメンタリー。原一男が製作総指揮を務めている。