三島由紀夫と寺山修司2 「われら」から「わたし」の時代へ
それで、寺山さんはエロティシズムというものは、そうやって自在筋で、つまりあらゆるものを動かしていたもので、あるときできなくなってしまう。突然に自在筋が動かないというのがやってくるんだというわけです。エロティシズムはそのときに、その存在からあらわれるんだっていう考えたなのです。つまり、偶然性というものにエロティシズムがわられるとここで言っています。でも、三島さんは徹底してそんなことはないと言う。
三島さんがどう考えていたかというと、三島由紀夫に『剣』という中編小説があります。ぼくは三島由紀夫の作品の頂点だと思っているんですけど、そこに出てくる剣道をやっている若い人が、自分自身の意志的なところで追いつめた頂点において、いわば自分の完成点において自殺していくわけです。三島はそういう作品を書いていて、三島っていう人はそういうふうに考えていました。つまり、エロティシズムっていうのは随意筋のとことん身体のすべてを随意のものにすることによって、その頂点において死がおとずれる。そこに招き寄せる死が、もっともエロティックなものなんだと考えたわけです。
これがヨーロッパの思想家でいうと、ジョルジュ・バタイユという人がいますが、かなり近いと考えることができます。バタイユはエロティシズムを、死にいたるまでの生の昂揚という言い方をします。生というのはセックスではなくて生きる方ですけど、死にいたるまでの生の昂揚という言い方をするんですよ。で、その考え方に三島さんの、あらゆるものを偶然性を排除した、排除しつくしたときがその完成であって、その完成と同時に死がおとずれるんだ。そこにエロティシズムが見えてくるんだっていうのが、実はバタイユの考え方に非常に深く影響されている。
ただ、違うところもあります。それはどこかというと、これは先ほど村木さんの『あなたは…』という映像をみなさんご覧になったわけですが、そのなかで「祖国のために死ねますか?」「祖国のために戦えますか?」そういう問いかけをしているわけです。それに対してですね、インタビューされたかなりの人たちが「イエス」と答えていたわけです。これには大変驚きました。あの時代はそうだったのかもしれないな、と思ったわけです。
もうひとついえば、祖国という言葉が非常にリアルだったわけです。いま祖国という言葉はまず使われません。ほとんど死語なわけです。ところがあの当時、「祖国のために死ねますか?」「祖国のために戦えますか?」っていう質問がリアルだったというふうに思えるわけです。で、同時にそれがリアルである最後の時代っていうんですかね。
60年代の末というのは、そういう質問がリアリティを持った最後の時代だったと思います。それ以降、おそらく祖国という言葉自体が使われなくなっていきますし、まして「祖国のために死ねますか?」「祖国のために戦えますか?」という言葉がリアリティのない、いわば一種の臭みのおびた言葉になっていく。祖国のために死という言葉は、相当用心深く使わないと浮いてしまうという、その最後のあたりを実は『あなたは…』っていうドキュメンタリーの質問は、そこのところに触れていたと思います。
そういう意味で『あなたは…』っていうドキュメンタリー以前と以後ではですね、以後はわれわれの時代、わたしたちの90年代に連続性を持っちゃうわけですけど、それ以前とはもう連続性をもてないわけです。つまり、同じことを言いますと、祖国という言葉にいまぼくたちはリアリティを感じない。ましてや「祖国のために死ねますか?」と聞かれたら、笑うしかないわけです。ゲラゲラ笑うしかないわけで、それはなぜそうかというと、つまり非連続になってしまう、そこのところに断絶があるというふうに考えると、『あなたは…』っていうドキュメンタリーが持っていた位置が見えるんではないかと思います。
かろうじて、いわば70年代以降の手前、あるいは境界に立ち止まって作られた、そういう意味では、偶然と必然みたいなものがひとりの作家、あるいは何人かの鋭敏な時代的感性を持った人たちのなかに、偶然と必然が交差する、そういう地点があったんだというふうに考えることができます。
つまり、三島さんという存在にもう一回かりますと、そういう祖国とか国家という考え方が、ぎりぎり三島さんの死によって、その時点がぎりぎりだったな、もうそういう言葉が成り立たない、祖国という観念がリアリティを持たなくなった、祖国のために死ぬという観念がもうまるっきりリアリティを持たなくなっちゃったっていう。それはもう戻すことはできない。そういう一種のあきらかに70年代から90年代に入った時代の感受性がですね、圧倒的にそっちへむかった。そのなかで、それに抗するように、さっきの映像のなかでも「暴動ではなく叛乱」という言葉が使われていましたが、たった一人の叛乱という形で三島の割腹というのはおこなわれたわけですね。
そういう意味では、70年の3年前に書かれた「クール・トウキョウ」が非常に予言的な作品になってしまったと思います。もちろん予言的というと、外側からの視点になってしまいますが、ぼくらもあの時代を、ぼくは1942年生まれですから、25くらいの年齢で生きていたわけで、三島の切腹なんかにもやっぱりショックを受けたわけですから。その内側にいたわけですから、予言というと大分ひいた見方になってしまって、いやらしい言い方になるわけですけど、でもまあ、そういうふうに見えてしまう、そういう言葉を使いたくなるようなものを持っていたと思います。
で、やがてバラバラのトウキョウ、バラバラの希望というふうにいうわけで、あくまで「私の」という限定がつけられるわけですね。ここで、あと2本ほど村木さんの映像を見るわけですが、全部「私の」っていう限定がついています。あるいは、「われらの時代って限定がついてるんですけど、「われら」っていう言葉自体も実は危うくなっていたわけです。
「私の」と限定することによって、はじめてリアリティを持てる時代に入って来たわけですね。それに対して、三島はそういうのは嫌だ、許さないって言ったわけです。つまり、私がバラバラなかたちでどんどん露出してくるということに対して、我慢がならないと言ったわけです。私は公のもの、国家のもと、もっというと天皇という、そのもとに私というのは従属すべきだという、そういう考え方を三島は最後に示そうとしたわけですね。つまり、腹を切ってみせるという形でそういうことを示そうとしたわけです。
つまり、バラバラな形で国家、公、天皇というものの、そこに統括されていた私というものが、そのいわば重しみたいなものを失って、次々にあふれ出していくということに対して、まあ許せないというふうに考えたわけです。寺山修司はそれこそ新しい時代なんだと感受したわけで、だから、偶然的存在というふうにしてそっちへ加担していく。
村木さんのつくられた、ここで見ることのできる、ぼくはここで上映されるものはすべて見てきたわけですが、そこには全部「私」という限定がつけられるわけですね。あるいは、せいぜい「われら」というところまで限局されたもの。そのことによってはじめて、リアリティを持つことができる。「わたしのバラバラなトウキョウ」っていうですね、そういうことでしかリアリティを持てなくなっていた時代に、突入しつつあったと言う事ができます。ですから70年代というのは、そういう時代なんですね。限定された私というふうに言わないかぎりは、リアリティを持てない症候現象といいますか、世界のあり方というものが一気にあふれ出してきた時代だというふうに考えることができます。
三島さんはそれに嫌だといったんですね。自分の体から「私」というものが動きだすのが我慢ならない、というふうに言ったわけです。年をとっていけば、随意筋もおとろえてあらゆるところが不随意になっていくわけで、偶然性がさまざまな形で、つまり自分が「こんなことないのにな」と思ったものが出てくるわけです。もうぼくなんかは大分前から出て来ているわけですけども、距離感がとれなくなったり、いろんな運動感覚なんかが距離感がとれなくなってきて、年とったなっていうふうになるわけですけども。つまり身体的に、精神的に随意筋がいうことをきかなくなることが、一種の老化ということになります。
「私」ということが優位になってくる時代はどういうことかというと、そういうことなんですよね。つまり、自分の体を自分自身の意志でもって統括することができない。体のあちこちが勝手に動きだしてしまうっていう。これは、老化はそういうことと非常に同じなんだ、位相としては同じなんだけども、もちろん違うわけなんだけども、でも同じととらえてみると、原理的にとらえちゃうと老化ってことと同じことを意味するっていう。それが実は70年代以降の問題です。
つまり、やや一般的な社会学的な言い方を使うと、70年代以降というのは、つまり高齢化社会へ入っていくわけですね。高齢化社会に入ってくるわけですけども、そのことは実は随意筋が動かなくなってくる。随意筋が動かなくなって、体のなかのあちこちの私が勝手に動きだすという状況と同じだっていうことになります。で、三島流にいえば公的なもの、国家的なもの、あるいは天皇的なものの重し、あるいは重りを離れて、それぞれ私的なものがさまざまに糸が切れた風船のように、あるいは泡のようにあがってくる時代なんだっていうのが、三島のほうからとらえたときの70年代以降の問題ということになります。三島はそれに対して我慢ならんということでですね、それで腹を切って死んでしまう。もう爆発的な死に方なわけです。爆発的な死に方をそこでやったわけです。
▼Page4 三島由起夫と寺山修司3 それぞれの「死」と時代 につづく