【特集 山形国際ドキュメンタリー映画祭2015】「パトリシオ・グスマンとクリス・マルケル」text 金子遊 批評≒ドキュメンタリズム②

『チリの闘い』©Courtesy Icarus Films

グスマンの『チリの闘い』

クリス・マルケルは、パトリシオ・グスマンが撮った五時間におよぶ代表作『チリの闘い』(1975―79)では、製作と脚本協力で参加している。「アジェンデ大統領の社会主義政策の進行をイデオロギー的、政治的、経済的側面に分割し、その各側面を何十ものパートに分割して撮るという計画を立てたグスマンたちの撮影チームは、しかし、合衆国による経済封鎖でフィルムすらない状態から始めたという。公式なルートを頼っていたのでは、数年かかると見たグスマンが、自らマルケルに手紙を書き、計画を披瀝し、援助を求めた。すぐさまフィルムが、そして『君たちがやろうとしていることはまともではない。不可能だ。大きすぎる』との手紙が届いたとのこと。こうして協力することになったのだった。」(「祝祭と革命」柳原孝敦著)

パトリシオ・グスマンが『チリの闘い』を撮影するために使った、モノクロの16ミリフィルムは、クリス・マルケルが提供したものだった。それによって、撮影チームは計画を続行することができた。重要なことは、この映画が歴史的なアーカイヴ映像を使用して、1973年の「9・11」の軍事クーデターにまでいたる過程と、その前後の民衆の闘いを描いてるのではない、ということだ。チリの映画のつくり手たちがその場所にいて、目前で起きている歴史的なできごとをドキュメンタリーとして記録していった。そこにこそ、この映画の迫力と真価がある。ところが、ピノチェト将軍らによるクーデターになると、『チリの闘い』の製作はいくつかの暗礁に乗りあげることになる。

そのひとつは、1973年にパトリシオ・グスマン自身が逮捕されて、首都サンチャゴのナショナル・スタジアムに2週間監禁され、その年のうちにキューバへ亡命したことである。この映画の編集のクレジットがICAIC(キューバ映画芸術産業庁)になっているのは、グスマンが亡命先のキューバで編集しなくてはならなかった状況を物語っている。それから、察しのいい観客であれば『チリの闘い』のクレジットの最後に「ホルヘ・ミューラー・シルバの思い出にささげる」という献辞があることに気がつくであろう。もうひとつの大きなことは、1974年11月に『チリの闘い』のカメラマンであったホルヘ・ミューラー・シルバが、ピノチェト将軍の警察によって拉致されてしまったことである。その後、彼がどのような運命をたどったのか、いまだにわかっていない。シルバは現在も行方不明となった3000人のチリ人のひとりである。グスマンの映画が、1973年の「9・11」の軍事クーデターにこだわり、しばしば記憶と忘却の問題をあつかうのには、そのような『チリの闘い』の製作プロセスが大きく関係していると思われる。

パトリシオ・グスマンは、同じくドキュメンタリー映画作家のフレデリック・ワイズマンとの対談のなかで、ワイズマンに「なぜあなたはピノチェトの軍事クーデターの話にこだわっているのですか? このテーマに常に戻ることが重要だと、なぜお思いなんですか?」と訊ねられて、こんなふうに答えている。
 
時間の感覚というのは、人によって違う。チリで軍事クーデターのことを覚えているかと友人に聞くと、彼らの多くが遠い昔のことだと言うよ。遥か前に起こったことだとね。でも私にとっては、時が止まったままで、まるで去年か、先月か、先週起きたことのようだ。カプセルに包まれた琥珀の中にいるようなものだ。動けない状態で飾り玉の中に永遠に閉じ込められた古代の昆虫のようにね。(…)だから私はカプセルの中でも、ちゃんと生きているんだと納得しているよ。
(「対談:フレデリック・ワ
イズマン×パトリシオ・グスマン」『真珠のボタン』プレスリリースより)

パトリシオ・グスマンのインタビューのこの部分を読むと、『ピノチェト・ケース』や『光のノスタルジア』(10)に登場する、アタカマ砂漠でピノチェト将軍の時代に家族を処刑され、その遺骨をさがしている人たちを思い起こし、彼ら/彼女たちの姿がグスマン自身の姿と重なってみえてしまう。映画作品にあらわれた要素を、その作者個人のプライベートな体験によって理解することは、必ずしも的確ではない場合があるのだが、ここでは、わたしはそのように考える誘惑をぬぐい去ることができない。

『チリの闘い』の第一部は「ブルジョワジーの反乱」と名づけられている。1970年にチリの大統領に就任したサルバドール・アジェンデは、次々と政治的な改革を進めていく。チリのさまざまな職業や社会階級の人たちに、カメラとマイク1本でインタビューを進めていくこの映画のスタイルは、わたしたちにシネマ・ヴェリテやクリス・マルケルの『美しき五月』(62)を想起させる。そして、1973年3月の総選挙では、民衆や労働者から広い支持を集めた人民連合は43パーセントの支持を集めて、さらに得票率をのばしていった。首都サンティアゴの街頭は数十万人の群衆で埋めつくされて、彼らは「わたしたちはアジェンデを支持する」と口々にするが、ひるがえっていえば、軍部とのパイプが弱いアジェンデ政権と人民連合にとっては、まさに国民投票とマスとしての民衆が集まる力だけが頼りなのであった。

このように『チリの闘い』で描かれた内容を追っていくと、あまりに劇的すぎて、ほとんどスペースオペラのような筋書きになって、これが本当に現実的に起きたことなのだと信じがたくなってしまう。第二部「クーデター」における構図は、ますます活劇風になっていく。1973年9月になると、左派の人民連合と民衆、右派の国民党と軍部は議会で、大学で、裁判所で、工場で、そしてストリートで衝突するようになる。そんななか、冷戦構造下でチリの共産化を避けたいアメリカは経済封鎖を強化し、チリにCIAを送りこみ、トラック業界のストライキなどを組織して社会を混乱させる。アジェンデは中道左派のキリスト教民主党の支援を取りつけようとするが、うまくいかない。反アジェンデ派と軍部がヴァルパライソで陰謀を企て、ひたひたと軍事クーデターの気配が忍びよる。その背後には、ホワイトハウスの影が見え隠れする。そして、ついに9月11日がやってきて、ピノチェト将軍は大統領宮殿に空爆を仕かけるのだった…。

物語としては、悲劇をむかえる第二部がクライマックスである。だが、第三部「民衆の力」は、それまでの「何が起きたのか」をたどっていくストーリーラインとはちがい、いったん60年代に立ちもどって、アジェンデ政権を支えるために、どれだけのさまざまな社会階層の人たちが自発的に集団的なアクションを起こしてきたかを振りかえっていく。歴史的な結末では1973年の「9・11」において、ファシストが民主主義を破壊したのにもかかわらず、ここではドキュメンタリー映画にしかできない構成と編集の妙によって、次々と民衆の蜂起が起きていって観る者が勇気づけられるようになっている。現実のほうが映画によって覆されているのだ。そのような意味では、真に映画的であるのは、物語的な起伏に富んだ第一部と第二部ではなく、民衆が集団となったときの力と、その先に希望すら見えてくる感動的な作品に仕あげられている、この第三部のほうである。

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