映画を撮ることは 本当に楽しい!
「Double Shadows/二重の影―映画が映画を映すとき」 土田環さんにきく
——まず、なぜ映画に関するドキュメンタリーの特集上映を企画されたのでしょうか。
土田 映画についてのドキュメンタリーをやったら面白いのではないか、という構想自体は昔からありましたが、シネフィル向けの企画とも言えるし、自閉的に思われがちなので、そうではないかたちの特集を組むことを、まず考えました。
もうひとつは、ここ数年、映画を扱ったドキュメンタリー作品が増えてきて、山形でも応募数が増えている、という問題があります。そうした作品は、現実にはなかなかコンペで選出されるのが難しい。作品としては面白くてもとりあげられない状況が溜まっていて、今回、改めて特集上映で実現した、という部分もあります。
——映画の歴史が積み重なってきた分、そのような映画の本数は増えていきますよね。では具体的に、「映画好きに自閉するプログラム」にならないように、どのような工夫を考えられたのですか。
土田 映画を扱ったドキュメンタリーはアメリカやフランスに多いのですが、どの国、どの地域でも映画に対するイメージはあるのだから、いろんな地域を見比べてみたいと考えました。
例えば、今回の審査員でもあるトム・アンダーセン監督は『ロサンゼルスによるロサンゼルス』でハリウッドを扱っていますが、そのハリウッドに嫌悪感を示したのが『我等の時代の映画作家シリーズ ― ジョン・カサヴェテス』(アンドレ・S・ラバルト、ユベール・クナップ監督)だし、それに対して『オリジナル/コピー』(フロリアン・ハインツェン=ツィオープ、ゲオルグ・ハインツェン監督)ではインド映画・すなわちボリウッドを扱っています。
そのような製作システムと少し意味合いは異なりますが、『すべては終わりから始まる』のルイス・オスピナ監督は、コロンビアのカリという街で上映運動を立ち上げ、彼らはそれを「カリウッド」と呼びました。『リメイク、リミックス、リップ・オフ』(ジェム・カヤ監督)は、1960年代のトルコで映画を大量生産されて、世界中の、特にアメリカ映画を喰った歴史を扱っています。“トルコの『スター・ウォーズ』”とか“トルコの『スーパーマン』”“トルコの『ロッキー』”など、なんでもあって、「イェシルチャム」という、通りの名前にちなんだ、トルコ映画のハリウッドが発展していたわけです。パクリかいただきなのか、という問題も出てきます。
こうしたハリウッドのようなものが世界各地にあることが分かると、さまざまな地域でどんな映画を作っているのか、そこに住む人がどんな映画を見ているのか。自ずと関心が広がっていきましたね。
——はじめて聞く映画がたくさん上映される一方で、有名な監督の作品もありますね。作品を選ぶうえでの鍵は、どのような考えですか。
土田 基本的には僕が観てみたいものを基準に選んでいきましたが、アーカイブにあるフッテージを使ってドキュメンタリーを作る人が増えており、そのような傾向は外せないと思いました。『フランスは我等が故国』のリティ・パン監督や、イェレヴァント・ジャニキアン、アンジェラ・リッチ・ルッキー監督の『東洋のイメージ ― 野蛮なるツーリズム』などが、その代表例です。
——アーカイブから自国の歴史を再検証するような映画にも触れる特集、ということですね。
土田 アーカイブの役割を考えるという意味でもやっておきたいと思うし、『オリジナル/コピー』では、映画の看板にも言及されていて、映画がオリジナルであるとすれば、看板やポスターはコピー、つまりは複製芸術ですよね。そもそも、映画は何かの似姿であると同時に本物でもあるから、そこをテーマに考えてもいいかな、と。本プログラムのひとつの柱ではありますね。
——リティ・パン監督の『フランスは我等が故国』は『消えた画』(2013)をはじめ、これまで日本やヤマガタで紹介されてきた作品とも異なる切り口なのでしょうか。
土田 テーマが変わっているとは思いませんね。彼が今まで取り組んできたカンボジアの歴史には、インドシナ半島が植民地であったことが大きな影を落としています。仏領インドシナというものを、アーカイブ・フッテージを繋ぎ合わせていくことで、その姿というかメカニズムを解明し、表現しています。アーカイブ・フッテージのインサートは、これまでの映画にもありましたが、ほぼすべてがアーカイブによって構築されているのは、本作ならではの特徴ですね。
そういうことを先駆的に・意識的にやってきたのが、ジャニキアン、アンジェラ・リッチ・ルッキ監督で、アーカイブにないものも含めて、たくさんのフッテージや資料を集めてきて、染色したり、スピードを変えたりして繋ぎ合わせていくのです。今回の『東洋のイメージ ― 野蛮なるツーリズム』は、インドでイギリス人たちが、現地民に無意識のうちに投げかける視線を、フッテージを操作することで浮かび上がらせている。手法は少し異なりますが、両者は同じようなことを考えている、と言えるかもしれません。
——故・森田芳光監督の『映画』、これはどのような作品ですか。
土田 森田監督が20代の時に撮った、8ミリの初期作品ですが、この作品のように、映画自体を問うような映画がひとつでも入っていたら良いなと思いました。「映画内映画」というと、映画の中にもうひとつ映画の構造が入り込んでおり、本プログラムはそこにこだわるわけではありませんが、映画監督はそもそも「映画とは何か」という問いを自問自答するわけで、彼が直接映画に対する情熱を語りながら、そこに対する問いかけがある作品だと思います。
——有名な写真家、ロバート・フランクの『僕と兄』も気になります
土田 ロバート・フランクは映像作品をけっこう残しており、いつか特集したい気持ちがあったんです。映画についての映画というところで考えると、この『僕と兄』はちょっと異色ですが上映できるだろうと。心を病んだお兄さんと弟の話ですが、ストーリは多分つかめない(。僕と兄も分身だし、実際に演じる人もお兄さんが弟を演じたり、お兄さんが途中でいなくなって今度は弟が演じたり……「演じる」ということがテーマかもしれません。
——『ナイトレート・フレームス』(ミルコ・ストパー監督)、『赤い灰』(アドリアーノ・アプラ、アウグスト・コンテント監督)『エマク・バキアを探して』(オスカー・アレグリア監督)など、11日に上映される最近の作品群は、どのようなことに言及される作品ですか。
土田 古典映画に関するこれらのドキュメンタリーは、特におすすめですね。『ナイトレート・フレームス』はファルコネッティという、カール・ドライヤー監督の『裁かるるジャンヌ』(28)で誰もが記憶している役者ですが、彼女がその後南米にいって、アルゼンチンで孤独死したことは知られていません。『裁かるるジャンヌ』自体も、80年代に精神病院でみつかるまで、今とは全く異なるバージョンしか上映されていなかった。フィルムの流転の歴史と、主演のファルコネッティの人生が、どのように交差したのかを追っています。
『赤い灰』は、ロベルト・ロッセリーニ監督の『ストロンボリ 神の土地』(53)に言及された映画ですけど、作品そのものではなく、舞台であるイタリアの火山島・ストロンボリで、映画に関わった人や住人のインタビューや、主演であるイングリット・バーグマンの未公開映像、島で漁をしている素材などを組み合わせて、ストロンボリという場所がなぜロッセリーニをひきつけ、今も不思議な存在としてあるのかを考える映画です。
『エマク・バキアを探して』も、マン・レイ監督の有名な『エマク・バキア』(26)が題材ですが、そもそも「エマク・バキア」って何だろう?というのがテーマです。バスク語で「ほっといて」の意味なんですが、それはマン・レイが避暑地で過ごした家の名前なのだろうかとか、「エマク・バキア」の呪文を巡ってどんどん世界が広がっていくのです。
——筒井武史監督の大作『映像の発見―松本俊夫の時代』(全5部)も、今回初めて上映されますね。
土田 松本俊夫監督は、一般には理論家かつ実験映像作家、といったイメージが流通していますが、PR映画や劇映画のフィールドなども含めてやってきた事が多岐に渡っていて「やってみたい精神」の固まりのような監督なんですよ。もちろん「映像の発見」(63)という著作に影響を受けた方が多い、というイデオローグもありますが、筒井監督も、松本監督のそのような精神にひかれて、9時間の大作に仕上げたところがあると思います。全5部の、どの章から観てもらっても良い作品だと思います。
映像の発見ー松本俊夫の世界
——今回のように、映画を素材にしたドキュメンタリーを歴史的に観ていくと、ドキュメンタリーの新たな方法論を発見できそうな気がしますね。
土田 時代はそんなに関係ないんじゃないですかね。映画監督や映画についてのドキュメンタリーは昔からあって、対象の探求はしていても、手法自体はそんなにいじられていないんですよ。むしろ、フッテージの駆使や、映画に出てくる手法に対する言及が、作家の素朴な驚きみたいなところに導かれている、という視点が、これまで語られてこなかったのではないでしょうか。映画を撮る事自体の楽しさや、映画を撮ることでスリリングに伝わってくるものが、シンプルに見えてくる作品群だと思いますよ。
「楽しい」というのはつらい事含みで、お金がなくて大変な苦境、というのもあるけれど、映画監督たちがなぜ映画をやっているのかのエッセンスが、少しでも伝わるといいですね。映画をやっていて楽しい!という感じは、今回上映するどの作品にもありますから。
山形国際ドキュメンタリー映画祭2015
2015年10月8日[木]-15日[木] 山形市で開催中!