【Interview】映画が完成したからおしまい、というわけにはいかないんです~『放射線を浴びたX年後2』伊東英朗監督インタビュー

映画の中で起きていることはすべて必然です

若木 川口さんは行動力がある。それは大前提でしょう。東京で広告代理店を自ら経営って、少し考えただけでも凄いことだし。都会の空気を吸って、思ったことを自分の手足を使って行動に移す訓練がされている。カメラを向けられたら、ここからは被写体として話をする自分だ、と咄嗟に判断できる客観性も含めてね。そこはおそらく大きいと思うんだけど。

猿田 うん、川口さんは独り立ちしている感じがすごくする女性。

皆川 小学6年生からアルバイトを始めて、高校卒業後は漁協で働いて、26歳になってから上京したというプロフィールには、ふつうの行動力ではないだろうという驚きがありました。まだまだ、女は早く結婚して家庭に入るものだ、という空気が強かったと思いますから。
だから、現在の東京での暮らしや、室戸での調査についてご家族はどう思っているかなどは、彼女の人物像をより知る上でも見たかったです。

伊東 分かります。それはもちろん僕も見たいなと思う。ただ、プライベートの撮影は基本的に厳しいと言われていたんですよ。食事を作っている場面も、少しだけならば、ということで撮れたものです。
ここが今回の映画の特殊なところで、僕がさっき、川口さんが映画の中心になったのは狙いではなく必然だった、と話したことの理由にもつながります。


今までつくってきた番組のドキュメンタリーでは、ふつう、取材対象者と「極端に言えば、お風呂に入るところまで撮らせてください」と約束をしてからカメラをまわします。

でも今回の場合、川口さんは最初、取材の手伝いを申し出てくれている立場で、カメラの後ろにいる側だったんです。

若木 それが、どんな経緯でカメラの前に立ち、被写体になることになったんでしょう。

伊東 当初は、漁労長の山田さんがかつての漁師仲間を訪ね聞き取りをする、この姿を軸に撮影していたんです。山田さんもすごく饒舌にお話もされるし、いい方でした。その間、川口さんはカメラの、僕の後ろにいつもいました。でも、船員や遺族に連絡をとるのはすべて川口さんなんですよね。お母さんなど、いろいろなツテを使って。

「おんちゃん、今から行くけどいい?」と必ず彼女から電話で聞くから、訪ねた時に最初に声をかけるのも、やはり川口さんになります。「おんちゃん、美砂やけど来たでー」って。そうなるとまずカメラに入ってくるのは、山田さんではなく川口さんが先になる。川口さんがお膳立てしてから山田さんが話を始める状態だから、自然と川口さんが中心になるんですよね。

それに、もともと川口さんも個人で、おんちゃんたちから聞き取りをしようとしていた。川口さんが言うには、映画とお父さんのことが結びつく前から、命を懸けてマグロ漁船に乗っていた誇り高き海の男たちの証言を集めたかったらしい。それと、僕の調べていることが合致したんでしょうね。

川口さんは上京する時、盆と暮れには必ず室戸に帰省することをお母さんと約束して、それを今まで一回も欠かしたことがないそうです。そういうところから見えてくるんですよね、室戸の女のひとの強さが。室戸の女性はみんなそうなんですよ。男が海に出ていないから、郵便配達から何から、すべて女だけでやる。みんな自立していて、すごく意思が強い。自分が決めたことや約束は絶対に守る。
そういう町で育った女性が、強い思いを持って手伝ってくれるから。必然というのは、そういう理由なんです。

皆川 その時は、お父様の船員手帳が見つかるとは予想できていなかった?

伊東 そうなんです。船員手帳が見つかり、お父さんの船が分かったのは、川口さんと一緒に行動するようになってずいぶん経ってからです。お父さんと一番仲の良かった妹さん、川口さんの叔母にあたるひとが嫁ぎ先に持って行き、無くしてしまったと聞いていたので。

お父さんは石川啄木の詩を愛する、文学的素養のある人でしたが、妹さんも物を書くことを好む人だったそうです。そういう一家なんですよ。それで、妹さんはいつか大好きだったお兄さんについて書き残そうと、船員手帳を含めた遺品を持って行ったらしいんです。その後、妹さんは亡くなって、どこにあるのか分からなくなっていた。川口さんも僕も、船員手帳が見つからないのはすごく残念でした。船員手帳が無いと全てが分からないんですよ。まず、1954年に指定五港で放射能検査が行われた時、どの船に乗っていたかが特定できない。しかも多い人なら一年間に3隻、4隻と乗り換えるから。

それがひょこっと、室戸の実家、お母さんの家の押入れから出て来たんです。どこかの間で、妹さんが返していたんですね。お母さんはそれをすっかり忘れていて、扇風機を仕舞うか何かの時に、段ボール箱の中から出てきた。
船員手帳の、どの船に何月何日から乗ったという記載と、厚生労働省から出てきたリストとを突き合わせてみると、確実に被ばくしていたことが明らかになってきました。見つかったことで、お父さんの被ばくが公的に証明されることになったんですよね。
そしたら、最初に話を聞いたおんちゃんが、実はお父さんと同じ船に乗っていたことも分かってきたりして。

©南海放送

ある時は、川口さんだけが先に訪ねた、ガン患者の人がいました。少しだけ話をして「今度、私の仲間が来るから、その時に一緒に話をきかせてや」と約束したすぐ後に亡くなってしまったんですが。

映画の最後のほうで、お父様が乗っていたマグロ漁船のうちの1隻、第五豊丸の写真が出てくるでしょう。お父様が乗組員仲間と集まって写っている。亡くなった方は、そのうちの一人でした。つまり、その時に川口さんが船員手帳の存在を知っていたなら、お父さんのことを直接聞けたわけです。そんなこともあるんです。運命としか言いようがない。

だから映画の中で起きていることは、全部が必然なんです。僕が演出をしてこうしてやろう、ああしてやろうと仕込んだ部分は無いし、川口さんにも当初から強い思いはあったけれど、撮影に対しては明快なモチベーションを持っていたわけではありませんでした。
それでも、船員手帳が途中で見つかる、奇跡的なことがあった。そんなもんなのかなあ、と。

皆川
 お話を伺って、とても腑に落ちるところがありました。

伊東
 僕もやはり、人物に密着したいですよ。個人を追いかけることを通じて問題が伝わる作り方がいい。でも、このテーマでは日米の関係の歴史や政治なども考えていかないといけないから。今の僕は、作り手でありつつ運動家なんです。映画でドキュメンタリーを作っている人の中には、率先してそうしている人もいると思うんですけど、僕は、運動家でドキュメンタリーも作っているというのは、やはり不自然なのではないかと考えてしまうんですよね。

本当は、ドキュメンタリーを作る人に徹したいんです。誰かが僕の代わりに、川口さんと一緒にいろいろと相談をしながら聞き取りをしていく。僕は彼らの動きをすごく冷静に追いかけていくという姿が一番いいんですけど。
つくづく思います。この事件に対して問題意識を持って、しかも被ばく者に寄り添っていく人がいないんですよね。これは見事に。それが僕の悩みでもあるし、求めているところだし、『放射線を浴びたX年後2』の弱いところでないかと思います。

▼page3  川口さんも和気さんも、めちゃくちゃ強いんですよね に続く