つきつめれば、面白いのは映画ではなく人間なんです
― 青柳拓次さんの音楽がしなやかですが、ラストで流れる曲でトーンが変ります。リズムが入ってマーチのように、鼓舞するように聴こえる。あの鼓舞は広河隆一に向けられているのか、それとも観客に、なのか。
長谷川 広河さんの世界に音楽をつけるのはすごく難しくて。どなたがいいかなとずっと悩んでいた時に、Little Creaturesで活躍され、映画やCM音楽にも活動の場を広げている青柳拓次さんと出会いました。青柳さんは、広河さんの写真に音楽をつけるコラボレーションもやってらっしゃるので、広河さんのやってきた仕事、その世界観についても、よく分かっていたんです。
曲は、チェルノブイリ、パレスチナ、福島、保養といったキーワードをお伝えして作って頂きました。ラストの曲は特別なオーダーで、広河さんの人生がキーワードでした。一歩一歩、少しずつでも力強く歩いていく、それが僕のイメージなんですというお話もして。そうして出来上がってきた曲なんですよ、あれは。広河さんの意思や信念を、最後は音楽で表現したいなと。
でも期せずして、その力強さは自分自身に向けられたものになりましたね。お前はどうなんだ、どんな一歩を踏み出すのか、みたいな。ラストの、広河さんが新しいテーマの取材を始める場面はそういうつもりで編集をしたし、音楽をつけました。
― 若くて純粋な時に大きな蹉跌を味わって、その屈辱や怒りが自分を掻き立て、仕事に生涯を賭ける。その姿はとても感動的なのですが、この年になって見るとね、溜息が出るところもあるんですよ。人間ってそんなに拘りを成仏させられないのか、納得しきれないものかって。
長谷川 それが広河さんなのかもしれないですね。「沖縄・球美の里」で映画を締めくくろうとしていた時も、子どもたちに囲まれる風景のなかの広河さんを見てもらい、安心感を持って見終ってほしいし、この姿だけを今の広河さんだとも思ってほしくない。両方の気持ちがありました。
心の中に、まだ燃やしたい炎がある。一見すると全く違う世界に見えるんですよね。久米島の海岸で遊ぶ福島の子どもたちを見守っている時の穏やかな表情と、いわゆる〈まつらわぬ人々〉の遺跡をハンターのような眼差しで撮っている時の広河さんの表情は全然違います。でもこの二つが混在しているのが、広河さんなんです。
だから、どういう読後感を持てばいいのか混乱する人はいるかもしれないけど、まあ、これが広河さんなんです、と差し出すしかないんです。
― 久米島で、子どもたちがおもちゃみたいなカメラを広河さんに渡して「撮ってください」。あそこはきっと、現場のスタッフはみんな心の中でガッツポーズを取ったろう、と思った(笑)。
長谷川 あそこ、とても良い場面ですよねえ。僕も大好きなシーンです。子どもに記念撮影を頼まれちゃう広河さん。あそこもあの方の凄みがよく出ているところなんですよ。子どもたちといる時は、俺はフォトジャーナリストだぞというオーラを本当に消し去って、溶け込んでいるから。それで子どもたちも、気安く近づいて頼めるんです。
この場面で終れる、いいな、泣けるなあ、と編集の鈴尾と2人で浸っているところに、意を決したように山崎さんが入ってきて……で、さっきの話とつながります(笑)。
― いろんな演出の仕方があると思います。俺には俺の頭に浮かんでいるビジュアルがある、これを再現するんだっていう人もいるし。俺の作りたいものはあなたの意見でずいぶん変わるけど、それもアリかって受け止める人もいる。
長谷川 どんな年齢、個性のスタッフが関わるかは千差万別で、それをどれだけ映画の力にできるのかだと思っているんですよ。まあ、自分が無いってことかもしれないですけど(笑)。
何か意見が出てきたら、そこにはどんな意味があるのか、活かすとしたらどうすれば、と考えてしまうタイプです。自分のイメージが崩されても、できるだけ壊されたことをプラスに持っていこうと。
鈴尾が編集じゃなかったら、まるで別の映画になっていたかもしれないと思うし。山崎さんが最後にあのシーンを入れろと言ってくれたことに対しても、おかげで、もう一度広河さんという人間の根源的な部分を考えることができた、と思っています。
突き詰めれば、人間が面白いんでしょうね。映画を作る、よりも、広河さんという人間を表現するほうが先なんです。
矛盾も含めて出せば、それは絶対面白いはずだって自信はあるんですよ。その自信にどれだけ正直になれるかってことでしょうかね。自分の持っている人間像にはめていくのではなく、目の前に出会った人を、分からなさも含めてどうやって引き受けていくか。その分からなさこそが面白いんだろうなと。この仕事をずっとしていくうちに思えるようになったことです。
現場での広河さんの想像力は、ハンパじゃない
― 自分が無いと仰いますけど、ある意味ではものすごい作家エゴですよね。人に意見を出させていいところは全部貰おうってことでもありますから。たぶん、最終的に映画が太くなりさえすればいいというお考えなのでは。
長谷川 ちょっとズルいかもしれないけど、基本的にはそう思っていますね。例えば今回はカメラマンが3人で、3人とも世代が違い、撮り方の距離感が変っています。
ベラルーシのカメラは、20代の井手口大騎ダグラスです。ダグラスは、広河さんがナターシャと再会する場面などでけっこう踏み込んで撮影しています。もちろん、広河さんとナターシャさんの信頼感があるからこそ、我々スタッフも近くで撮影する事が出来るのですが、被写体であるナターシャさんの思いをもっと近くで感じたいというダグラスの熱さによって、とても良いシーンが撮影出来ました。
高野大樹は僕と同世代で、よく一緒にやっている戦友のような存在です。彼は「沖縄・球美の里」の撮影を担当してくれたのですが、僕と同じように広河さんについて感じた素朴な疑問を大切に抱きながら、その上で、広河さんの世界を理解しよう、理解しようという気持ちで誠実に撮ってくれたんです。
場所によってテーマが違うので、その差は、映画にいい奥行きをもたらしてくれたと思っています。
実際の取材では、ベラルーシからウクライナへと、徐々にチェルノブイリ原発に近づいていく順番だったんですが、広河さんは汚染地図を作るために残存放射能を調べることが目的なので、事故の時に原発の上にあった雲が通った、誰も知らないような場所にどんどん入っていくんです。本当に危険なんですよ。測定不能なほどのプルトニウムが残っている。そこは若いダグラスは行かせられない、と山崎さんも気にかけてくれて。それでウクライナに入ったところで、山崎さんがダグラスと撮影を交替しました。
それに山崎さんは今回の映画のメインカメラマンですから、やはり、広河さんにとっての大切な現場、一番原発の被害を浴びたところに立ち合いたいという気持ちを持っていたんです。
一番汚染が深刻なウクライナの死の街プリピャチで、広河さんが執拗に何を撮っているかというと、そこに残された子どもの人形やおもちゃなんですよね。これがジャーナリズムだと広河さんは言うんですよ。
銃弾が飛び交う激しい現場にアドレナリンを沸騰させながら突っ込んでいく、そういうイメージとは全然違う。かつてそこにあった人間の営み、時代の中で忘れ去られようとするものを懸命に探して、見つけて撮っている。広河さんにとってはどうか分からないけど、この人は、ベイルートの虐殺の現場で少女の写真を撮ったのと同じ気持ちで、プリピャチの捨てられた人形を撮っているんだなと。僕の中で重なり合いました。
― 僕は正直、ああいうアプローチの写真はどう捉えていいか分からないところがあるんです。捨て置かれた人形や、瓦礫の間に咲く花のような。キャプションがあると意味を納得するんですが、キャプションを読むことで情動をリードされる面もあるでしょう。例えば、賞味期限の過ぎたコンビニの弁当の山を写して「これもひとつの飢餓だ」と書くこともできる。なんでも〈平和な家族の幸福が破壊された〉と集約させる、絵解きのヒューマニズムに対する僕の警戒ではあるんだけど。
長谷川 僕が広河さんの取材現場に立ち合ってしびれたのは、広河さんの想像力です。人形ひとつを見てそこにどんな風景、どんな暮らしがあったのかと思い巡らせる力が、尋常じゃないんですよ。写真を撮ることよりまず、そっちにいく。原発事故が起きる前に、この村で、どんな女の子がどんな風景のなかで朝を迎えて、この人形を抱いていたのか。そういう話が始まるんです。悲惨な現場の中でも、そこに確かにあった人々の営みの尊さにいつも思いを馳せているんです。
― そうなると、自分の家族はどうだったんだろうと気になってくる。家族を仕事の犠牲にしてきた、とチラッ、チラッと言葉に出していきますよね。そういうものかとひとまず納得して見ていたら、ベラルーシと久米島の保養施設の間に、自分の家族の話が入ってくる。
長谷川 こういったヒューマンドキュメンタリーを撮るうえで、当然、家族は描きたいじゃないですか。それをいつ広河さんに伝えようかと取材中はずっと思っていたんだけど、なかなか切り出せなかったんですよ。チェルノブイリなどに同行して「ところで広河さんのご家族なんですけど」とは、なかなかね。取材は基本的にその方との人間的な付き合いだと思うので、自然の流れの中でタイミングがあればと思っていたら、その流れが一向に来ないんですよ。
で、少しづつ家族を犠牲にしてきたという話はされるので、そろそろいいかなと思った頃に、広河さんのほうから、沖縄の基地問題を取材された後に「(沖縄在住の娘さんの)民のところに寄るよ」と。そのタイミングで初めて、広河さんのご家族にお会いする事になったんです。
広河さんと民さんの食卓のシーンは、具体的には何も起きない、言葉としても語られないけど、すごくいろいろと感じられる場面だと思います。その取材後に、では民さんは父親をどう思っているのかなとインタビューしました。
もちろん広河さんのご家族への愛情は感じていましたし、短い中でも密度の濃い時間を過ごしてこられたと思うんですが、失礼を承知で、民さんに「子どもの頃は寂しくなかったですか?」って聞いたんです。
民さんのお話からは、広河さんの背中を見て、その生き方をしっかりと受け止めてきたことが伝わってきました。けっこうジーンときちゃいましたね。
広河さんはすごく優しい人だと思います。取材で出会ったナターシャにも、福島の子どもたちにも、同じように愛情を注ぐ。その優しさを貫こうとしたら、自分自身にも本当に厳しくなきゃいけないし、時には、救援活動のために自分の武器であるカメラを置くこともあるし、家族を犠牲にしなければいけない。
その優しさの強度は、民さんもきっと感じ取れていたんだと思います。もっと家族のことを取材すべきという意見もある気がしますけど、僕はここまででいいなと思いました。
▼page6 広河さんは自分が出来る中で、一歩一歩あるいているに続く