【連載】開拓者(フロンティア)たちの肖像〜中野理惠 すきな映画を仕事にして 〜 第28話,第29話 text 中野理惠

 生後7か月 父の膝で左は姉 姉の後ろは母(当時、父が住職をしていた蓮長寺境内にて)

開拓者(フロンティア)たちの肖像
中野理惠 すきな映画を仕事にして
 

<前回 第27話はこちら>

第28話 ビヨンド・サイレンス その2

『ビヨンド・サイレンス』の初日の朝、もたもたしていて、銀座テアトル西友まで自転車を猛スピードで走らせた記憶がある。息せき切って駆け込んだ劇場には、既に宮重をはじめとする会社のスタッフ、村山さんとプランニングOMさんのスタッフなど何人もの関係者の姿が、入り口周辺に見えた。エレベーターが着くたびに観客が大勢降りてくる。銀座テアトル西友のエレベーターホールは劇場のチケット売り場になっていて、割と狭かったので、エレベーターを降りる観客の人たちが、ドアが開くと、大勢の人々がいるのを見て「えっ」と一瞬、たじろぐ表情をする。

キャプション:『ビヨンド・サイレンス』の大入り袋 筆跡は当時宣伝スタッフだった増川直美さんのもの

『ビヨンド・サイレンス』はヒットした

『ビヨンド・サイレンス』(ろうの両親の娘が音楽家をめざす、というストーリー)はヒットしたのである。2か月も遅れたのにこんなに大勢の人が忘れずに待っていてくれた、と嬉しかった。チケットを買ってくれた高校の同級生のうち、森野クン夫妻が初日に来てくれたそうで、後に葉書だったか手紙で「行列ができていて驚いた」と書いてきてくれた。それも嬉しい記憶として残っている。そして『ビヨンド・サイレンス』公開の頃の事を思い出すと、セットのように、高校の同級生の集まりで

「おお、みんな買えよ」

と声をかけてくれた、今はもう故人となっている山内クンの声と表情が甦る。

映画は、確か12週間くらい上映したのではないかと思う。全国の映画館での上映後、ビデオ発売と、NHKで放映も実現できた。契約までNHKに何度も何度も通ったことを覚えている。担当者はハンベルガーさんという日本語の達者なドイツ人女性だった。

ドイツ映画に目を向ける業者が増えたかな

『ビヨンド・サイレンス』が公開される前も、ヘルツォーク、ヴェンダース、ファスビンダー、フォン・トロッタ、シュレンドルフなどのドイツ人監督による作品が高い評価を受け、日本でも公開されていた。中でも『ブリキの太鼓』『Uボート』『フィツカラルド』『パリ、テキサス』などは、大ヒットしているが、ドイツのもつイメージからか、日本では<暗い><生真面目><つまらない>というのが定説だったようだ。『ビヨンド・サイレンス』の後、僅かかもしれないが、目を向ける配給業者が増えたのではないか、と勝手に思っている。そのためだろう、『ビヨンド・サイレンス』を公開した同じ年(1998年)の夏の終わりに参加したトロント映画祭で、一本のドイツ映画をめぐり深夜まで電話に悩まされることになった。この件は後述する。


書籍「ピンク・トライアングルの男たち
~ナチ強制収容所を生き残ったあるゲイの記録」

『ビヨンド・サイレンス』を買い付けた前年、1997年に「ピンク・トライアングルの男たち」(原題“Die Manner mit dem Rosewinkel Der Bericht eines Homosexuellen uber Seine KZ Haft von 1939-1945”/初版発行1972年)の邦訳書を発行した。紹介されて手にした時点でドイツでは四刷り(1994年)を記録していた。この訳も「ベルリン解放の真実」(1996年発行/第26話参照)と同様、伊藤明子さんにお願いした。

『ピンク・トライアングルの男たち ナチ強制収容所を生き残ったあるゲイの記録』  書名の背景写真は強制収容所

囚人服につけさせられたピンクの逆三角形

ナチの強制収容所というとユダヤ人がよく知られているが、他にも強制収容所に送られた人々がいた。政治犯、ロマ、心身障がい者、そして同性愛者である。男性同性愛者が囚人服に付けさせられたピンクの逆三角形を書名は意味している。ちなみに、ユダヤ人は黄色の逆三角形、政治犯は赤の逆三角形であった。同性愛者は強制収容された人々の中でも最下層とみなされ、虐待の末、その多くは命を落としている。ドイツには1871年成立の同性愛(法律文としては<自然に反する行為>と書かれている)を禁じた法律<刑法175条>があり、それを背景に迫害したのである。

著者のハインツ・ヘーガーは筆名であり、私が原書を手にした時には、既に亡くなっていた。最後まで本名を明かさなかったそうだ。また、同性愛者迫害についてはほとんど文献として残ってないので、不明部分を調べようがなく、詳細は覚えていないが、困った記憶は残っている。

Paragraph175

後年『ハーヴェイ・ミルク』(第1話参照)のロブ・エプスタインが、編集者のジェフリー・フリードマンと共同監督で、刑法175条そのものを題名にした “Paragraph175”(2000年製作/2000年ベルリン映画祭最優秀ドキュメンタリー映画賞受賞他多数受賞)というドキュメンタリー映画を発表している。完成度が高く、また貴重な内容だったのだが、日本でビジネスとして上映するのは難しいと判断した。後に、山形国際ドキュメンタリー映画祭2001でも上映された(邦題『刑法175条』)ので、見た人がいると思う。日本でも、LGBTの文字をテレビの地上波や全国紙でも目にするようになった今のような状況だったら、異なる判断をしていたかもしれない。

新たな映画との出会

さて、『ビヨンド・サイレンス』を公開した1998年7月、名古屋シネマスコーレの木全支配人から1本の映画のサンプルカセットを受け取った。

 【第29話につづく】

中野理恵 近況
郷里の山の木を職人さんが伐採するのをどうしても一目見たくて、とんぼ帰りした。伐採後の枝はクレーンで1本づつ降ろす。大事業だった。

伐採した枝は一本づつクレーンで運ぶ

お借りしたご近所の空き地で枝を降ろす