冷戦の「雪どけ」の年にLPレコード化された意味
最後に、1919年から1921年にかけての録音がなぜ1959年にLPになったのか、を考えてみたい。
当初は特にいつの発売だろうと気に留めていなかったのだが、相談役・大澤一生がジャケットを眺めて「ロシア語だけでなく、英語やフランス語でも表記されている。なぜでしょう」と言ってきた。
そうねえ……と確認してみたら、1959年は大きな年だった。レーニン、スターリン、マレンコフに次ぐ第4代の最高指導者ニキータ・フルシチョフが、ソ連のトップとしては初めてアメリカを公式訪問。戦後の冷戦に一時的な「雪どけ」をもたらした年なのだ。
フルシチョフといえばその前に、「スターリン批判」(長年の恐怖政治を明らかにした)を行って、スターリンを歴史的評価から永遠に引き摺り下ろしたことで有名だ。
面白いことにフルシチョフは、その舞台となった1956年のソヴィエト共産党第20回大会で、レーニンの言葉も公式に引用している。
「全ての民族が全く同じ形で社会主義に到達するとは限らない。民主主義の形態、プロレタリアート独裁の種類、社会主義的な生活改造の速度には、それぞれの独自性がある」
といった意味の言葉。レーニンは確かに僕が読んだものの中でも、ボリシェヴィキの戦いは一つの段階であり絶対ではない、新しい理論は新しい情勢に応じて生まれる、と言っている。また、晩年は、他国との関係は「平和共存」が基本と考えていたらしい。
つまりフルシチョフはここで、
「えー、レーニン先生も言っておられる通り、明日の社会主義革命への道は多様であります。先進国の帝国主義的政治形態も、ソ連とは違う形でいずれ社会主義に移行するでありましょう」
と発言することで、西側との軟化を宣言している。
世界中でプロレタリアート革命は勝利すべき、という最終目標は譲らない。しかし、その段階は人、もとい国それぞれですから……と逃げ道を作る。政治家の外交発言のお手本みたいなやつだ。
「スターリン批判」と同じ場で、レーニンの言葉を持ち出した。そこには、初代指導者を再顕彰する目的と同時に、あるいはそれ以上に、保身の意図もあったのではなかろうか。
1918年にボリシェヴィキに入党し、赤軍を指揮する委員として内戦を戦ったフルシチョフは、その後スターリンの側近になった。レーニンが死んだ後に蔓延した官僚主義に乗り、したたかに中央の出世コースを進んだ。
それがトップになると途端に、レーニンの引用なんだから。
相当に穿った想像だが、そんなに外れてもいないだろう。
どんな革命も、人間くさいところからは逃れられないんだなあ、と思うのである。
※盤情報
『LENIN SPEECHES RECORDED 1919-1921』
1959
(価格不明)
若木康輔(わかきこうすけ)
1968年北海道生まれ。フリーランスの番組・ビデオの構成作家、ライター。
今年はロシア革命百周年ということで、何か特別なイベントがあるでしょうか。テレビでは2月5日にEテレ『クラシック倶楽部』で、ショスタコーヴィチがレーニンに捧げた『交響曲第12番「1917年」』を取上げているのを見ました。井上道義の指揮で。曲想が次々と変わる、劇的な曲でした。秋ごろになって、もしもロシア革命が話題になったら、この記事のことも思い出してください……。
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