通りの裏側に、小さなすてきな本屋を見つけた。「Pascoaesパスコアイシュ」という名前の書店。60代と思える女性がやっている。アマランテ出身の著名な詩人で作家のTeixeira de Pascoaes(テイシェイラ・デ・パスコアイシュ)の名前にちなんでとのこと。もちろん、この詩人のことは知らなかった。うつくしい装丁の詩集や、センスのいい写真集や画集がたくさんあった。文学書もある。広くはない店なので、店主の好みが出ているのだろう。こんな小さな町にはめずらしい書店だ。
旅先で本を買うことには、いつも考えこんでしまう。ましてやリュックひとつのひとり旅で、旅がまだ始まったばかりのころだと悩みぬく。重い本を背負って不器用な旅をつづけるのは、体力勝負だ。しかし、もう出会えないかもしれない本をあきらめるのも勇気がいる。しばらく葛藤したあげく、分厚いパスコアイシュの本はあきらめて、20 人ほどの詩人の作品のアンソロジーを買った。『アレンテージョに日陰はない』というタイトルで、現代詩人の、アレンテージョをとりあげた作品が編纂されていた。薄さと紙の良さと装丁に惹かれたのだが、あとから思えばミーニョに来たのになんでアレンテージョか、と我ながら首をかしげる。
そして、修道院を改装した美術館。けっして大きくはないが、すばらしいところだった。「Museu Municipal Amadeo de Souza-Cardoso」アマデオ・デ・ソウザ=カルドーゾ市立美術館。画家アマデオは、1887年にアマランテ近くの村に生まれ、1906年の自分の誕生日の日にパリに留学する。1914年までモンパルナスで多くの仲間たちと絵を描きつづけて、才覚をあらわした。その後ポルトガルに戻り活躍するが、1917年に顔面と手がマヒする病気にかかり絵が描けなくなる。そして翌1918年、当時流行っていたスペイン風邪にかかり、30歳の若さで亡くなった。10年余りの短い画家人生のなかで、作風は年を追うごとに色もタッチも変化してゆく。年代を追って展示された作品からは、描くこと=生きることへのひたむきさと熱がしずかに伝わる。あらゆる手法に挑んでいたように思える。この美術館には、生きていたときのアマデオのひそやかな気配がただよっているように感じられた。わたしは心地よくて、作品のそばにいることに飽きず、ソファに座っては休みながら3時間もここにいた。こんな美術館体験はめったにない。
あとで知ったことだが、アマデオの死後長い年月にわたって、ポルトガル本国はもとより、パリをはじめとしたヨーロッパ各地やシカゴでも大きな回顧展が行なわれた。ごく最近では2016年にパリで開催されている。
アマランテ生まれの画家アマデオ・デ・ソウザ・カルドーゾの作品
さて、念願のカビデーラはどうなのか。遅いお昼をとろうとして、期待しながら宿の女主人に尋ねる。「ああ、今日はできてないのよ。明日できるかどうか……」の返事。うーーむ、なんだかむずかしそうだ……。今日は? 「フェイジョアーダならあるわよ」。それをお願いする。赤インゲン豆と豚肉の煮込み。ポルトガルの家庭で、カフェで、一番の庶民料理。おいしかった。体がホクホク温まった。
翌日も結局カビデーラは作られず、泣く泣く断念した。目的を持つとなかなか果たされない。でも偶然出会えるものがある。アマランテで、アマデオとパスコアイシュに出会えたように。それを逃さなくてよかった。
映画監督オリヴェイラの最後の作品となった短篇『レステロの老人』の登場人物は4人。17世紀スペインでセルバンテスが生んだ架空の人物ドン・キホーテその人と(リカルド・トレパ演じる)、ポルトガルを代表する3人の文学者だ。3人は、16世紀に登場したポルトガルの国民的詩人ルイス・デ・カモンイシュ(ルイス・ミゲル・シントラ演じる)、ついで19世紀最大の作家カミーロ・カステロ・ブランコ(マリオ・バローゾ演じる)、そして1952年に75歳で亡くなった詩人テイシェイラ・デ・パスコアイシュ。パスコアイシュが3人のなかにいたのには驚いた。有名なカモンイシュもカステロ・ブランコもその容姿は写真で見ていたので、よく似せてあって苦笑いした。ディオゴ・ドーリアが演じたパスコアイシュも、きっとそうだったのだろう。二人に対して、20世紀を生きたパスコアイシュの「現代性」がリアルに感じられて、アマランテの町と書店を思い起こした。
この映画を撮った晩年104歳のオリヴェイラは、ポルトガルを代表する文学者をこの3人と考えた。1908年から2015年までを生きたオリヴェイラには、国境のないイベリア半島の16世紀も21世紀も超越する世界観が横たわっていたのだろう。
余談だが、オリヴェイラ作品の原作や原案などで関わりの深い作家アグスティーナ・ベッサ=ルイースが、アマランテ出身だったことを知ったのは、つい最近のことだった。パスコアイシュ、アマデオ、ベッサ=ルイース、3人の著名な芸術家を育てた町アマランテ。そういう芸術的な素地が、たしかにあの町にはあると思う。
アマランテに別れを告げて、移動を開始した。おんぼろバスを乗り継いで、トラジュ・ウジュ・モンテス地方の最西端の町ミランダ・ド・ドウロ、トラジュ・ウジュ・モンテス地方の中心地ブラガンサ、北のスペイン国境近い町シャーヴェスをめぐった。そして3日後、ミーニョ地方の中心地ブラガへ。ポルトガル北東部の大外を回って、ポルトの北東に位置する小都会までやってきた。日が暮れようとしているこの街には、寒いのにたくさんの人が歩いていた。そうか、土曜日だった。田舎ばかり回ってきたわたしには大きな街に思えたが、整然として落ち着きがある。いい宿も見つけられて、2泊することにした。バスルームには浴槽もついて、朝食付きで1泊20ユーロ。そういえば、北の地方のホテルには、浴槽付きが多い。やはり寒い土地なのだ。
ブラガの街の中心あたり
夕食めざして外を歩く。アマランテで念願のカビデーラは逃したが、ブラガの最初の夜に思いがけずサラブーリョに出会えた。サラブーリョSarrabulhoは、ミーニョ地方とドウロ地方の名物料理で、「鶏肉+豚肉+牛肉に血も加えて煮込んだ」ようなものらしい。イタリア人作家アントニオ・タブッキがポルトガル語で書いた小説『レクイエム』(「リスボンのガイドブック」とも呼ばれる)のなかにサラブーリョが登場し、レストランの女主人に調理法を語らせる。読んだときから、きっといつか出会える、そう願ってきた。『レクイエム』にはほかにも多くの料理が登場し、わたしにとってはリスボンのみならずポルトガル料理のガイドブックにもなっている。
ちょっと高級そうなレストランだったが、店の外に出してあるメニューに「Sarrabulho」の文字を見つけたからには入らないわけにはいかない。観光客らしき人がけっこう入っていた。そう、この街には観光客がいた。
ポルトガルのレストランメニューには、「メイア・ドーゼ」(半分の量)というものがあって、ひとりのときはとても助かる。ポルトガル料理の一人前の量たるや、日本人ふたりでも大変なぐらいのボリュームだから、ここのサラブーリョにメイア・ドーゼがあってほっとした。
運ばれてきたのは、想像をはるかに超えるものだった。ほんのり赤みのあるねずみ色のドロドロした塊、まるでやわらかい蕎麦がきのようなものが、白いお皿にどろんとのっかってるだけ。添えものなどまったくなし。上に振りかけてあるのは、クミンパウダーだけ。これとパンとだけではとてもコワイ。あわててサラダを注文した。
いやー、驚いた。びっくりしすぎて、写真を撮るのを忘れていたことに、この原稿を書きながら気がついた。皿の上の「姿」は、目にはっきりと残っているのに。
正式なメニュー名は「Papas de Sarrabulho」。Papasは「かゆ状のもの」という意味で、見た目はそのとおりである。で、味はなんとも奇妙なものだった。まずいわけではない。が、おいしいというのともちがう。クミンの香りが立ち、口あたりは硬いプリン(?)のようで、噛む必要もないくらいに喉を通り抜ける。肉の味は、クミンに消されていたような気がする。うーーむ、これが憧れていたサラブーリョなのか。タブッキに教えてもらいたいところだ。
『レクイエム』の女主人によれば、いつもはポレンタ(トウモロコシ粉を練ったもの)を使うのだが、その日は切らしていたのでじゃがいもを使ったとのこと。それはあのどろどろの中に混ぜこむのか? ブラガの店が、はたしてトウモロコシ粉だったのか。あるいはまったくちがうものだったのか。謎を残したままの初めてのサラブーリョ体験。値段はサラブーリョ2分の1で5ユーロ。サラダとパンとワインを入れて9.15ユーロ。妥当な値段なのかどうか。わたしにとっては高めの夕食だった。