翌3日、シネマテカ夜の回でポルトガル無声映画を観た。1911〜1930年の5作品。プログラムを見て、ANIMの廊下に貼られた無声映画の歴史ポスターに、ずらり載っていた監督たちの作品だったので、逃してはならぬ、であった。期待を裏切らず、どれもめちゃくちゃ面白くておどろいた。「いやー、すごいもんだ、ポルトガル映画!」と日記に書いている。
この日がシネマテカに行く最後の日だったので、館長のジョゼさんに福間健二の作品DVD英字幕版を渡すつもりでいた。が、不在だったので、ブックショップのジョアンにお願いした。そして、また来るよと握手した。
1月4日、ふたたびANIMへ。今日のリスボンはすごい霧が出ている。朝8時になっても、通りを走る車はライトをつけたままだ。
通勤バスに乗せてもらって行くなんて、まるでわたしたちも仕事に通ってるみたいだ、と2回目にしてそんなことを思ってしまう。ANIMの「番犬」の名前はスカーレット。人なつっこくて笑顔がめちゃかわいいスカーレット。ここの犬にふさわしい名前をもらって幸せだ。
今日は、アントニオ・レイスとマルガリーダ・コルデイロ共同監督作品2本を見せてもらう。午前に『Rosa de Areia』(「砂漠の薔薇」1989/35ミリ/105分)、午後に『Ana』(「アナ」1984/16ミリ/115分、この製作年は諸説ある)。二人の共同監督作品は3本のみで、年代順に『トラス・オス・モンテス』(1976)、『Ana』、『Rosa de Areia』となる。年代順に観れなかったのはいささか残念だったが、そんな贅沢は言えない。
『Ana』は、『トラス・オス・モンテス』の続編的な要素を保ちながら、「土地と複数の人々」から「ひとつの家族」「ひとりのアナ」に焦点を当てて、この土地に生まれて死ぬことを描こうとしている。アナという名前のおばあさんを家長として、学者と思える息子とその妻、彼らの子ども(少年・少女)という三世代の家族。そこに新しい命が加わり、その女の子は成長し、アナは最期の時をむかえる。
家の中も、外の景色も、遠くに見える山々も、映るものすべてが『トラス・オス・モンテス』と変わらない。風の音も、草原の色も、アナの服装も、そうだ。けれども、アナも家族も他の登場人物も(アナの孫の子ども二人を除いて)、台本どおりの演技をしている。二人の監督が、演技をさせている。そのことが「儀式」めいたものを生んでいるように感じられる。それは意図されたものだろうか。だが、その演技が背景=土地に負けている。人がここで生きていることが、なかなか伝わってこないのだ。アナの横顔のアップ、インパクトを残す画だが、それが象徴するものは何なのか。
『Ana』
『Rosa de Areia』は、『Ana』で表現したかった生死感を、観念的かつ抽象的にして、他者性を排除して、神話として成立させようとしている。「砂漠の薔薇」という神話。ひとりの女性の二面性を、若い二人の女性が表現する。「もうじき死ぬ」「すでに死んでいる」がくりかえされて、生と死の間を行き来しているようだ。草原や大きな岩のそばで詩がいくつも朗読され(アントニオ・レイスも後ろ姿で登場して詩を朗読する)、哲学者のような老人と二人の女性が赤ワインを前に抽象的な会話をかわす。「儀式」が連続し、果ては原爆実験の映像まで登場する。やはりここでも、人が生きていないと思った。
あまりに観念的すぎて、観ているのが苦しくなった。言葉がわかれば納得できたか、とは思えない。アントニオ・レイスもマルガリーダ・コルデイロも、自分たちが執着したこの土地で、さらに表現すべきものを見つけられず、悩みに悩んだ末、神話として描こうと考えた、しかし、それが荒唐無稽に終わっている。そんな気がしてならなかった。
『Rosa de Areia』
二つの作品に共通しているのは、女性である。『Ana』の、アナが持つ母性の権力。行方不明になっていた女性が、雨の夜ずぶぬれでアナの家に来る。この女性が家族の一人なのか他人なのかわからないが、彼女の子と思える赤子を抱く。その姿は聖母マリアを想像させるように描いている。この「マリア」の娘を、死にゆくアナに代わって登場させた。命の継承を担う女性。それを、『Rosa de Areia』では神話的な存在として昇華させようとした。
しかし、二人の監督は、観念の世界から抜け出るべき地上を見つけられず、迷走した。『トラス・オス・モンテス』の、ヨーロッパでの高い評価ののちの10数年は、二人にとって苦悩する時間だったのではないだろうか。
この連載の第1回「トラス・オス・モンテス」で引用した『ポルトガルの女性映画作家』という本の、コルデイロのインタビューで、本人は『Ana』と『Rosa de Areia』についてあまり語っていない。『Rosa de Areia』の配給権を持っている会社が倒産し、興行的にはほとんど機能しなかったと言っている。アントニオ・レイスは、この映画を世に出して2年後に亡くなった。二人の作品はここまでであり、マルガリーダ・コルデイロはその後映画をつくっていない。
見終わって映写室を出ると、映写をしてくれた男性がすでに廊下に出ていた。「どうだった?」と聞かれたので「難しかった」と答えた。彼は軽く頷いて、確かにねという表情をした。わたしたちは、2日間4回のわたしたちのための映写に厚いお礼を伝えた。
彼の名前もまたルイス。「また会おう」と彼は言って、手を差しのべた。
バスを待つ間、アーカイヴの展示を名残惜しく見てまわった。至福の2日間。今回のリスボン滞在のハイライトは終わろうとしていた。17時10分、コーディネイトしてくれたルイスが仕事を終えて出てきたので、少し話をした。10年ほど前に、シネマテカのブックショップで働いていたマルガリーダの娘に会った話をしたら、「それはすてきな話だ」と喜んでくれた。マルガリーダのその後の消息を尋ねると、ミランダ(トラス・オス・モンテス地方の町)に住んでいるらしいとのこと。「コンタクトを取りたい?」と問われて、一瞬返事に困った。「まだわたしたちには難しいけれど、いつかそんな日が来ることを願っている」と答えた。
アントニオ・レイスとマルガリーダ・コルデイロ
アントニオ・レイスが亡くなって26年。マルガリーダ・コルデイロは映画を離れ、郷里に戻って20数年。きっとしずかに暮らしている。夫婦であり、共同監督者であった二人のことを思う。
「映画は一生ものだから。50年先だって、生きてるんだよ」。ある有名女性プロデューサの言葉を思い出す。夫の福間健二が監督した初めての長篇映画にかかわって、途方に暮れていたときにそう言われた。超低予算とはいえ、赤字をかかえながらここまで5本の映画をつくってきた。その間もこの先も、「映画は一生ものだから」はわたしのお守りだ。
アントニオとマルガリーダにとって「一生もの」の『トラス・オス・モンテス』は、生まれて40年以上たったいまも、光を放って輝いている。わたしたちの心をふるわせている。そんな作品は1本あればいい。ほかの2本は次への過渡であり、それ以降が存在しなかった二人には『トラス・オス・モンテス』が生きている。
自分に引き寄せながら、ふたりが以後の2本に苦悩したと推測するのも、そんなにまちがってはいないだろう。『Ana』と『Rosa de Areia』を観ることのできる幸運の裏で、観ない方がいいかもしれないと抱いていた不安があった。だが、観てよかった。ひとつの作品を生み出すための二人の葛藤を受けとめて、また違う視点で『トラス・オス・モンテス』に向き合うこともできるだろう。
バスが玄関に到着して、仕事を終えた人たちが乗り込む。わたしは犬のスカーレットの写真を撮った。アーカイヴと、二人のルイスと、スカーレットに感謝を込めて。
ANIMの「番犬」スカーレット
カンポ・グランデに着いてバスを降りると、ANIMで会った東洋人の若い女性が焼き栗を買っていた。わたしたちも買って、話しかける。地下鉄も同じだったので、一緒に乗りこんだ。台湾人の彼女は、ロッテルダムに10年も住んでいて映画を作っている。ANIMで自分の作品の仕上げと勉強のために、去年の4月からリスボンに来ているという。もうすぐ出来上がるからロッテルダムに戻るけれど、そのあとはリスボンに住みたいそうだ。ANIMはそういう作家たちも受け入れている。彼女の名前はリ・チューイン。きっとまた会おう。あなたの作品にいつか出会えることを願っている。
(つづく。次は7月5日に掲載します)
福間恵子 近況
ポレポレ東中野での「福間健二映画祭」もあと2日。自主映画は、時間をかけて浸透させていくしかないとつくづく思う。「映画は一生もの」だから。5月末から始まるEUフィルムデーズ、ロドリゲス、観に行きます!