【連載】「ポルトガル、食と映画の旅」第9回 ニコの食堂 text 福間恵子

ニコの食堂のような店は、じつはリスボンの下町にはかなりある。庶民それぞれの行きつけの食堂がある。一時期はそんなところにもひんぱんに足を運んだ。ニコと変わらぬ値段で同じようなメニューに出会って、やっぱりポルトガルは「下町食堂だ」と感激もした。しかし、どこかひと味ちがう。塩加減や料理のバランス、店の空気が自分たちにしっくりくるのは、ニコなのだ。その決定打と言える料理に気づかされたのは、通い始めて5年ほどがすぎてからだった。

それは、ポルトガルを代表する国民的食材、タラ(Bacalhau バカリャウ)。その料理である。タラなしにはポルトガルの食は語れず、その料理の数たるや365種類あると言われているほどだ。

北の魚であるタラは、もちろんポルトガル近海では獲れず、北欧やカナダまで漁に行って大量の塩で漬けた保存食として、大航海時代からの長い歴史を持つ。ヨーロッパのカトリックの国、スペイン・フランス・イタリアなどでもタラ料理はいろいろあるが、ポルトガルの塩に恵まれて乾燥する気候風土が、塩干しタラを発展させたとも言われている。

ポルトガルのどんな田舎に行っても、塩干しタラを置いてないスーパーはなく、リスボンやポルトには塩干しタラ専門店もある。かつて塩干しタラは「貧乏人の食べもの」と言われるほど安価だったが、近年タラの漁獲量が乱獲によって減少し高騰が続いて、身の厚いりっぱなタラは高嶺の花になりつつあるようだ。

写真6 スーパーで売られている塩干しタラ。カチカチになっていて、独特の匂いがする。
こんなにぞんざいに売られている。

塩干しタラは、水で戻して塩抜きしてから調理する。タラの大きさや季節にもよるが、大きな一匹ものを4切れぐらいにしてから、1〜3日ぐらいかけて戻す。この塩抜き作業、これこそが、年季とカンどころによるもので、料理に大きく差が出る。これまでわたしは、身の厚い塩干しタラ(値段も高い)の切り身を3回買って帰ったが、どうにもうまくいかなかった。塩の抜き加減がつかめないのだ。もうちょっとかなと長引かせているうちに、味もそっけもないものになってしまった。経験もないし見よう見まねだから仕方ない、そう思っていた。

ところがどっこい、ポルトガル国内のいちおうレストランと言われているような店で、あるいはカフェの食堂で、大き目の切り身のタラ料理で満足できるものを食べたのは、たった一度しかない。これは5パーセントの確率だ。塩気がなく、水っぽくて身のしまりのないタラは悲惨だ。つけ合わせの野菜まで死んでしまう。もちろん、身をほぐしたものの料理は(何十種類もある)とてもおいしいのに、切り身そのままの姿をとどめたタラ料理には出会えない。自分たちの行く店の水準が低すぎるのか。お金を出せば出会えるのか。

そういう経験ののちに、ニコの食堂で出会えたタラ。前記した魚メニューの一番目にある「タラと皮つきジャガイモのオリーブオイルオーブン焼き」がその料理。これは「Bacalhau à Lagareiro」(バカリャウ・ア・ラガレイロ、直訳すると「オリーブの圧搾職人ふうタラ」)というちょっと変わった名前。昔、秋のオリーブ収穫の際にオイルを圧搾する窯で、戻したタラと収穫した新ジャガに搾りたてのオリーブオイルをたっぷりかけて焼いたことから来ているのだそうだ。とてもシンプルで、タラの味が一番生きる料理である。この料理はポルトガルじゅうにあるものだが、中部のベイラス地方が発祥の地だそうな。ニコの兄弟の郷里はベイラス地方のコインブラ近くの海寄りの町。もしかして二人のお母さんの得意料理だったのではないかと想像してみる。

写真7 土曜日のニコ、バカリャウ・ア・ラガレイロ。黄金の逸品。

ニコの「Bacalhau à Lagareiro」は、土曜日限定のメニュー。だから出会うのに時間がかかったとも言える。それを知ってからは土曜日のリスボンを意識して旅の日程を組むようになったほどだ。土曜日のニコの客で、肉を食べる人以外はほとんどがタラを注文する。わざわざニコのタラを食べに来るという客にも会った。夜8時ごろに行こうものなら、売り切れだったりして泣かなければならない。それほどに惹きつけられるタラ料理なのだ。

なんといっても塩の戻し加減が絶妙だ。ぶ厚い身はブリブリ、ほどよい硬さが残っているから身離れがきれい。表面が黄金色になって、皮つきの小ジャガイモも同系色で寄り添って金色に輝いている。下にたまったオリーブオイルにタラの塩エキスとニンニク味がしみこんで、パンにつけるとたまらない。骨以外残すものなし。これほどのタラのオーブン焼きにはめったなことでは出会えない。この写真の土曜日、夜に友人夫妻と夕食の約束があったのでお昼のタラはふたりで一皿にした。ビール2、白ワインピッチャー1、スープ2、タラ1、デザートのメロン1、エスプレッソ2。しめて9ユーロ。これがニコの実力である。

さて、2015年4月に、大西洋の真ん中近くにあるポルトガル、アソーレス諸島のテルセイラ島にひとりで行った。島での時間を最大限にとったので、リスボンは行き帰りで2泊しかなかったが、最後の日のお昼はもちろんニコに行った。ラッキーなことにタラの土曜日だった。いつものように坂道を登っていくと、どうもいつもと様子がちがう。な、なんと、ニコの店がないのだ! 両隣もさらに隣も、長屋的建物だったものが取り壊されている! 頭が真っ白になった。たぶん3分ほどの間、わたしはその場に立ち尽くした。そして、考えた。ニコが立ち退きをくらってそのまま店じまいするわけがあろうか。きっと、近くにあるにちがいない。道なりに歩いた。犬のように鼻をクンクンさせた。行く手からタラの匂いが流れてきた! あった、ニコの店があった! いつものメニューの貼りだされた入り口に立つと、いつもと変わらぬ満席のニコの食堂だった。わたしに気がついたニコが、笑顔で手を振っている。この日のタラが、これまでにも増しておいしかったことは言うまでもない。

新生ニコは、フェルナンドというおじさん(わたしよりずっと若い)がホールで働くようになった。以前の店で見かけたお客さんのような気がする。よく気がついて動きのいいフェルナンドのおかげで、ニコもお兄さんも少しはラクになっただろう。

写真8 新生ニコにて。左から、ニコ常連のおじさん、フェルナンド、ニコ、福間健二。 

リスボンではニコ以外に行かない、と夫は宣言する。賛成だ。

夕暮れのリスボンで、今日はニコで何を食べようか。そう思うことの幸せ。わたしのいちばん大切なリスボンは、ニコにある。

ところで、大事なことを書き忘れていた。ポルトガルの食堂やふつうのレストランの調理人のほとんどは女性であり、男性(夫)がホールを仕切るのが一般的である。ポルトガルの食は、お母ちゃんの味の延長にある。女性の調理人については次の食の機会に書きますが、われらがニコは例外ということになる。そのあたりの事情も、今度リスボンに行ったら尋ねてみることにしよう。

(つづく。次回は8月5日に掲載します)

福間恵子 近況

EUフィルムデーズ、ロドリゲス『男として死ぬ』、やむない事情で見逃してしまった。買って帰ったDVDはある。だが、初見でDVDは避けたい。劇場公開ならぬか。ポルトガル映画は、オリヴェイラとペドロ・コスタ以外はまだまだそんな状況だ。