【Interview】かつて本気で三里塚に関わった人を訪ねて 『三里塚のイカロス』 代島治彦(監督)×加藤孝信(キャメラマン)

代島治彦監督(左)、加藤孝信キャメラマン(右)

かつて本気で三里塚に関わった人を訪ねて
『三里塚のイカロス』 
代島治彦(監督)×加藤孝信(キャメラマン)インタビュー

『三里塚に生きる』から3年。代島治彦監督が、同じ三里塚を舞台に『三里塚のイカロス』を完成させ、9月9日から渋谷・シアターイメージフォーラムで公開されている。撮影は加藤孝信さん。『三里塚の夏』(68)をはじめ、成田空港の建設に反対する農民たちの姿を連作で描いた“小川プロダクション”への在籍経験を持つキャメラマンだ。
『三里塚に生きる』が、三里塚の農家に生まれたかつての“青年行動隊”のメンバーを中心に描いているのに対し、『三里塚のイカロス』では、活動家として三里塚に入り、成田空港建設反対運動を闘った人々の現在を描いている。三里塚闘争の歴史をひも解くと、特に1970年代後半以降は、新左翼運動の党派対立や暴力の問題が、全容の解明に暗い影を落としているが、代島監督は活動家ひとりひとりの“人生”に耳を傾け、歴史の闇に光を当てることを試みた。
成田空港の再拡張や羽田空港の再国際化が進む現在、『三里塚のイカロス』は、どのような映画として人々の記憶に刻まれるのだろうか。代島監督と、印象的なシーンをいくつも積み上げた加藤キャメラマンにお話をお聞きした。
(取材・構成=佐藤寛朗)

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“活動家” にカメラを向ける ということ

——まずは成田空港問題に対するおふたりの距離感をお聞きします、三里塚闘争が活発に行われていた当時は、どのような視点でみていましたか。

代島 僕は1958年生まれで、68年に闘争が始まった頃は10歳で、面白そうだとか、カッコいいとか思って見ていました。三里塚闘争は1971年に第二次強制代執行が行われ、東峰十字路事件(1971年9月16日、第二次行政代執行が行われた際、警備にあたっていた機動隊員3名が死亡した事件)があって、ひとつの潮目を迎えるわけですが、同じ頃に学生運動でも連合赤軍のあさま山荘事件(72年)が起き、内ゲバがはじまって、過激な運動に対して逆に怖い印象を植え付けられます。

成田空港が開港した1978年は大学1年生で、管制塔占拠事件もニュースで生中継されていて、見ていましたが、その時はもうキナ臭い印象があって、できるだけ距離を置いていました。政治的なセクトには、近づかないようにしていましたね。三里塚闘争自体も1983年の3.8分裂(北原派と熱田派に反対同盟が分裂する)あたりで決定的な矛盾を抱えるようになっていき、僕も批判的な目線でみるようになりました。

一方で、大学時代に小川プロの三里塚シリーズの映画を全部観て、とても面白いと思いました。農民が闘争の主役だった時期に作られていて、記録としても価値がある。しかし当時はすでに闘争のあり方に距離を置いていたので、闘争そのものはその後もずっと遠くにありました。むしろ水俣の方が近かったかもしれません。周辺に支援していた人がたくさんいましたから。水俣の闘争には「チッソの垂れ流した有機水銀」という絶対的な悪がありましたが、三里塚闘争はどこか相対的な対立で、どちらが悪いとはなかなか言えない。2012年に『三里塚に生きる』を撮るまでは、ずっとそんな印象を持っていました。

加藤 管制塔占拠事件の記憶は僕にもありますが、闘争の現場に行ったのは今回が初めてです。僕が小川プロに在籍していた90年代の始め頃は、『1000年刻みの日時計』(86)の上映活動も既に終わり、山形でも映画を撮らなくなっていた時期で、三里塚に行くことも無かったし、小川プロ解散後もあえて自分で訪ねるようなことはしませんでした。闘争のいきさつはなんとなく知っていても、「今でも鉄塔が建っているなあ」とか「それにしてもボロボロだなあ」とか思いながら時々空港を利用する、それぐらいの距離感でしたね。

『三里塚のイカロス』より

——今回の『三里塚のイカロス』では、三里塚闘争に外から入ってきた活動家の方々を描いています。この試みは三里塚の映画としてはおそらく初めてで、ひとりひとりのお話が強く印象に残りました。なぜ、彼らを描こうとしたのですか。

代島 前作の『三里塚に生きる』で、僕ははじめて闘争に直接関わった人たちに出会ったのですが、あの映画の核は『三里塚の夏』のキャメラマンだった大津幸四郎さん(『三里塚に生きる』共同監督、2014年に死去)の「もう一度百姓たちに会って、あの人たちがどうしているのかを撮りたい」という思いにあったので、僕自身が三里塚で2本目を撮るとは思っていませんでした。

『三里塚に生きる』では、三ノ宮文男(※1)の死を心に刻みながら今も空港に反対している柳川秀夫さんや、大木よね(※2)の養子になって、遺志を継いで、大木よねから引き継いだ畑を耕し続ける小泉英政さんに光をあてた部分はありましたが、現実の三里塚はドロドロした闇が続いていて、農民や支援者が傷ついてしまったことや、愚かだったと思った問題が、現在進行形で尾を引いている。

2013年になって、かつて三里塚に支援者として入り、元青年行動隊員の家に嫁いだ女性が自殺しました。移転後の立派な家に黒い花輪が並んでいて、近所の人は、移転を苦に鬱病になって自殺したんだよ、と噂していました。そんなお通夜の風景を、大津さんとふたりで見ていたら、とても切ない気持ちになりました。闘争から何十年も過ぎているのに、未だに闘争の矛盾に引き裂かれるように自殺してしまう女性がいるんだ……って。

その切なさを抱えたまま、『三里塚に生きる』の上映で全国を回るなかで、各地で「私も三里塚に行った」という元支援者に会いました。70年代までは、三里塚はひとつの聖地になっていて、社会的な変革に関心のある若者はみんな三里塚に行くという流れがありました。ところが、「三里塚で何をしていましたか?今、どう思います?」という部分に関しては、みな一様に口が重い。一方で、三里塚の農民からは「新左翼が前面に立つようになってから闘争が変質した。セクトに俺たちは縛られた。もっと早くにやめることもできた」という話もさんざん聞かされてきたから、農民と支援者はどんな関係だったのかと頭を抱えてしまいますよね。

僕の中では、思春期に「学生運動のお兄ちゃんたち」や「三里塚の農民たち」をかっこいいなと思った原体験が身体に染み付いているから、運動が悲惨な方向になった理由や、現実はこうだった、という話は、きちんと残しておきたかった。彼らの運動が僕の人生に与えた影響も大きくて、金持ちになっちゃいけない、えらくなりたくない、自由に生きたい、という思いを未だに抱えて生きています。やがて彼らは挫折し、敗北していくわけですが、その現実をどう受け止めたら良いのか。おおげさに言えば、自分の思春期の落とし前をつける為に今回の映画を作った部分がありますね。

——『三里塚のイカロス』に出演された活動家の方たちは、『三里塚に生きる』に出演された農家の方々とは、立場や考え方は異なるのですね。

代島 出演された方で、自分を『七人の侍』に例えられた方がいましたが、彼らはあくまで助っ人。最後までよそ者です。新左翼の支援者は三里塚へ助っ人で来たけれど、80年代になると新左翼の活動は行き場を失い、三里塚が全国で唯一の最後の砦となってしまった。新左翼の運動は、最後の砦を守るために百姓を縛った側面があって、そこで闘争の主体というか、農民と支援者の立場が逆転していくのですね。

——今回、初めてカメラの前で話す方がほとんどと聞きました。登場する人々には、どのようにアプローチされたのですか。

代島 最初は三里塚に支援に入り、農家の嫁になった人たちを中心に作ろうと思いましたが、出演されている3名の方以外には拒否されました。三里塚では、20人以上の支援の女性が嫁になっていて、10人以上に会いましたが、カメラの前で話すのは難しい、という話でした。

管制塔を占拠したグル―プや元活動家の平田誠剛さん、加瀬勉さんとは以前から会っていて、話を聞いて面白いなと思っていました。今でも三里塚の近くの多古に住んでいる加瀬さんは、社会党のオルグとして70年代に中国政府に招待されたことがあって、周恩来の肖像画が部屋に飾ってあるのはその為です。

元中核派の岸宏一さんは、書かれた本(「革共同政治局の敗北1975~2014 あるいは中核派の崩壊」白順社)が三里塚で話題になっていて、あ、岸さんは反省しているんだと思って連絡したら、映画に出ると言ってくれました。残念ながら岸さんは今年の3月、谷川岳で遭難され亡くなられました。

岸さんが出演することで、なんとなく映画の方向性が見えてきて、加藤さんに撮影のお願いをしたのが2015年の8月か9月です。加藤さんは『沖縄 うりずんの雨』(15)を観て、人物をきちんと撮れる方だと思いました。大津幸四郎さんの撮影助手をやった経験もあり、なんとなく気持ちが通じるかなと思って、今回初めてキャメラをお願いしました。実際に撮影をしたのはそこから6ヵ月間ほどです。

『三里塚のイカロス』より

※1 三里塚の辺田部落に住んでいた青年行動隊のメンバー。1971年、22歳で自ら命を絶つ。
※2 反対同盟に参加した農家の女性。第2次強制代執行時に「闘争宣言」を家の前に出したことで有名な“名物お婆さん”。

▼page2 現場は持久戦だった につづく