ちょうど2年前、2015年の山形国際ドキュメンタリー映画祭で初上映され、特別賞を受賞した小田香監督の『鉱 ARAGANE』が、いま劇場公開されている。小田監督には、いちど雑誌「neoneo 6号〜ドキュメンタリーの方法〜」で、その制作経緯を手記に寄せていただいたのだが、今回、あらためてお話を聞くことができた。
日本人がほとんど知らないボスニア・ヘルツェゴビナ。サラエボ郊外にある「ブレザ炭坑」。地下300メートルにある空間と、坑夫たちの労働を生削りでとらえた鮮烈なショットの連なりを観て、これは極上のアトラクションだ! そう思った。
浦安や桜島の遊園地に行かなくても得られる68分の希有な体験。こういう“体感する映画”にも時々出会えたりするから、ドキュメンタリーは面白い。
まずは映画館の暗闇に足を運び、感じていただきたい。そのうえで、ボスニアの地下世界といま日本で暮らしている私たちの世界が、小田監督の作品を介してつながる意味を考える。本稿および彼女の手記が、その一助となれば幸いである。
(取材・構成=佐藤寛朗)
——話をボスニアの鉱山に持っていく前に、小田さんがタル・ベーラ監督(1955-ハンガリー生まれの映画監督。『ニーチェの馬』など)率いる「film.factory」に行った理由のひとつに、初めての作品『ノイズが言うには』(2011)の時に消化しきれなかった思いを次作に繋げたい思いがあった、と聞いています。どういうきっかけが、映像の次の道を模索する契機になったのですか。
小田 『ノイズが言うには』は、私がセクシャル・マイノリティであることを家族にカミングアウトして、受け入れてもらえなかった場面を、実際の私の家族を使って再現した映画です。私がその時点で持っていた一番大きな葛藤を描いたのですが、カメラを暴力的に使ってしまった反省がありました。家族をそのシチュエーションに置き、カメラを向ける。その暴力性に納得していない気持ちがあって、どのようにカメラとつき合えばよいのか、分からなくなった時期がありました。
でも同時に『ノイズが言うには』を撮ることで開けたカメラの可能性みたいなものに、何かを感じてもいたんです。カメラの前に人がいて、わたしは後ろにいて、カメラを通してコミュニケーションをする。暴力的になれる恐怖も含めて、計り知れない力があると思いました。撮ることで、そのことをもうちょっと考えてみたかったんです。
とはいえ、具体的に何を撮ればよいかは分からず、どうしようかと思っていた時に『ノイズが言うには』が上映された「なら国際映画祭」の北川晋司さんが、私がタル・ベーラの作品が好きと知っていたので、こういうワークショップがあるよと、サラエボで新たに始まる「film.factory」を紹介してくれたのです。過去作が選考条件で、『ノイズが言うには』を送って応募したら、たまたま選んでもらったので行きました。
——そのタル・ベーラ監督の「film.factory」について、詳細を教えて下さい。
小田 「film.factory」は、大学院の博士課程に相当する人材育成プログラムで、2週間ごとにワークショップを行います。ペドロ・コスタやアピチャッポン・ウィーラセタクーンなど、タル・ベーラの友人のフィルムメーカーやプロデューサー、批評家などが交互にやってきて、映画作りを共有します。基本的には作家を育成する学校で、卒業をするには長編を撮る必要があります。期間は3年。学校だから、全部自腹です。だから、私みたいに支援を受けてきている人が多かったですね。ヨーロッパからはポルトガル、スペイン、アイスランド。南米ならメキシコ。あと日本、タイの子がいて、アフリカ出身者はいなかったかな。17人から始まって。最終的に卒業できたのは9人でした。
——実際にボスニアにいってみて、戸惑いとか、ビックリしたことはありましたか。
小田 学校が無かった(笑)。授業をする棟はあったんですけど、映画に関する設備はなにも無いんです。編集室も、パソコンも、カメラも無い。いつも机やイスを自分たちで運んで授業をやっていました。お金が無いので、学校の人とベーラと私たちが何が必要かを相談して、必要なものから揃える感じでしたね。
——無から映画を作り始めていくわけですか。どんな気持ちでした?
小田 さすがにイスまで無いのは予測はしていませんでしたが、ある種特殊な環境に追い込まれると、もう楽しむしかないじゃないですか。そういう意味では、一緒に参加した仲間とは、みんなで乗り越えていこう、という気持ちを共有していたかもしれないですね。
『鉱 ARAGANE』より
——作品を撮るまでのカリキュラムはどうなっているのですか。
小田 『鉱 ARAGANE』は卒業制作として提出していますが、「film.factory」自体は、「撮りたいときに、撮りたいものを撮る」のが基本姿勢です。私は、原作ものの脚色をするためにリサーチをする中で、たまたまあの鉱山に出会い、撮影をはじめ、たまたま卒業前に完成したのです。
撮り始めたのは2014年の10月。半年で10回ほど通わせてもらって撮ったんですけど、2回目で、炭坑のマネージャーの方が「地下に降りてもいいよ」と言ってくれて、降ろしてもらいました。その時に、これを撮ろう、と決めました。原作ものの劇映画を撮る予定だったんですけど、その企画を下ろさせてもらって。
——どこで「撮りたい」というスイッチが入ったのですか。
小田 とにかく、地下空間の異世界に魅せられたんです。まず日光が無い。ヘッドランプの光が反射したり飛び交ったりして、ヘッドランプの灯りが届くところと届かないところの淡いイメージや、重機のノイズ、身体にくる振動、湿気など、すべてが衝撃だったんですね。衝撃だったし、色っぽくもありました。これを何とかキャプチャーできないかなと思いました。
空間そのものもそうだけど、流れている時間感覚も地上とは違うんです。実際に坑道の中にいるのは1回につき4時間、カメラを回しているのはその半分ぐらいですが、永遠でもあり、一瞬のようにも感じました。
『鉱 ARAGANE』より