【連載】「ポルトガル、食と映画の旅」第12回 セジンブラで魚を食べる  

1階で野菜を買う。レモンとニンニク、パリパリの大きなレタス。あいにくコリアンダーが見つけられなくて、パセリの大束にする。全部で1.2ユーロ。新鮮な野菜も安いのだ。そして、濃いヨーグルトみたいなフレッシュチーズのケイジャーダとバター、オリーブオイルを買った。「このバターはアソーレス産で、ポルトガルで一番おいしいのよ」と教えられた。塩は産地アルガルヴェですでに買ってある。あとはアゼイタオンのワインだけだ。

市場の魚。赤いのがカンタリル、両隣はドウラーダ(黒ダイ)。

2012年に亡くなったイタリア人の作家アントニオ・タブッキは、大学教師でもあった。ポルトガル文学、とりわけ「20世紀最高の詩人」と言われているフェルナンド・ペソアの研究家としても広く知られている。わたしのこの連載の中でもときどき引用している『レクイエム』は、タブッキがポルトガル語で書いた小説。暑い夏のリスボンを舞台に、外国人の「わたし」が「偉大な詩人」と会う約束を果たすまでの半日を描いている。現実と幻想で出会う人々、料理や酒、墓地と店、公園や列車。すべてがタブッキのリスボン、ひいては彼のポルトガルとして、綿密に巧妙に語られている。

ポルトガルにのめり込んだ日本人のほとんどが、この本を「リスボンのバイブル」として読んでいると思う。いや、日本人だけではない。リスボンで、この本を手に歩くヨーロッパの人々を何人か見かけた。さすがにわたしは手にして歩くことはしなかったが、ポルトガルに通いはじめて5、6回目までは必携の本だった。原書も教科書代わりに辞書を引きながら読んだ。

タブッキとの出会いは、須賀敦子さんが訳した『インド夜想曲』と『遠い水平線』に始まって、まだポルトガルと出会う以前に『レクイエム』も読んでいた。どの作品も、夢のなかをさまようような、眠気をさそわれるような感触が残り、それが心地よくて読み直しても飽きなかった。90年代後半のことだ。2003年に初めてポルトガルに行くことになったとき、『レクイエム』を思い出したのだ。この本はそこからわたしの「リスボンガイド」となった。

『レクイエム』の「わたし」は、夏の休暇をアゼイタオンの友人の農場でのんびりすごしていたのに、詩人とリスボンの桟橋で待ち合わせをする羽目になってしまった、と言う。アゼイタオン(Azeitão)。オリーブオイルがazeiteだから、てっきりオリーブの産地かと思っていたら、ワインの産地だった。ポルトガル有数のワインメーカーがあり、モシュカテルという特別な食前・食後酒も作っている。アゼイタオンのワインは飲んだことはあるけれども、町がどのあたりにあるのかそれまで知らなかった。

セジンブラは、海に魚を、山にワインをひかえて、なんとも豊かな食の町だったのだ。

スーパーでアゼイタオンのワインを買った。ひとりディナーの準備は完了。

さて、午後から岬に行くことにした。あたたかな午後だった。突端には必ず挨拶することにしているのだ。

アラビダ半島の南西端にあるエスピーシェル岬。そこには大聖堂があるという。セジンブラからバスで30分。午前と午後の一日2往復のみ。バスはこの町にやってきた道を戻るように行くのだから、今度はすごい坂を一気に登る。登りきった台地を、セトゥーバルとは反対に、西へ進む。丘も山もまったくない、地平線が180度見わたせる台地。そこには小さな集落が点々とあり、セジンブラから乗った10人ほどの子どもたちはひとりずつ降りていく。台地の幅がだんだん狭くなっていき、民家はまったくなくなり、大西洋が近くなってきて、岬に到着した。客はわたしひとりになっていた。

降りるとき運転手に、どこから来たんだと尋ねられた。答えると「おー、ジャパオン!」とおどろかれた。

「日本のコインを持ってるか? コインを集めてるんだ」

「残念ながら、いまは持ってません」

運転手は肩をすぼめてみせて、15時30分が最後だから乗り遅れないようにと言った。

たしかに、人っ子ひとり見えないこの岬にとり残されたら、心細さで泣き出してしまうだろう。エスピーシェル岬は、セジンブラからたった30分にもかかわらず、地の果てに来たような印象のところだった。

バス停のすぐそばには、半球の天文台のかたちをした朽ちたような小聖堂があり、すこし離れた正面中央に位置して石で作られた十字架台、それを入り口とするように左右に2階建ての細長い建物がつづき、奥正面の大聖堂につながっている。そして、左手遠くに小さな灯台が見えている。

まず小聖堂に行く。建物の入り口には太い鉄の鎖がかけられていて、中は何も見えない。あちこちにゴミも落ちていて、手入れされていない様子だ。ここから後ろをふり返ると、この小聖堂と十字架台と大聖堂が直線でつながる位置に建てられていることがわかる。小聖堂を出てまっすぐ十字架台まで行き、大聖堂の方へと歩く。十字架台と大聖堂の間は200メートル近く、両側の建物と建物の間は50メートルほどもあるだろうか。地面は土。長方形の運動場の真ん中を歩いている感じだ。太陽が傾きはじめて、建物の影がくっきりと長い線を描いている。

長さが違う両側の建物はたぶん宿舎だと思えた。僧侶や巡礼者たちの泊まる部屋なのだろうか。しかし、いまはすべてが閉ざされていて、中の気配すらうかがうことはできない。大聖堂まで行くと、ここもやはり閉鎖されていて、張り紙があった。「2月末まで閉めている」と。ガラス越しに中の様子がかいま見れたが、紙類が散乱していた。この大聖堂の両脇、つまり「巡礼者宿舎」とつながる位置の1階部分がアーチ型の抜け門になっていた。そこを抜けると、風が正面から吹きつけてきて、思わず声が出た。岬の先端に通じていたのだ。30メートルも歩けば断崖絶壁の淵だ。手すりも柵も何もない。高所恐怖症のわたしはへっぴり腰で、ちょこっと進んだところで動けなくなった。足がワナワナしている。この高さ。下の海まで何メートル? 下なんか見てはいけない。わたしの視線は大西洋に向けたままだ。こんな場所に不意に立たされてしまった。それにしても、この海の蒼さ。夢ではないかと思ってしまう。

エスピーシェル岬の大聖堂。奥左端の抜け門をくぐると断崖絶壁。犬がいた。

つい1週間ほど前に歩いたアルガルヴェ地方のサグレス岬と、なんとちがうことだろう。ポルトガルの黄金期に海洋に乗り出す起点としてのサグレス岬と、信仰の場である大聖堂が建つ孤高のエスピーシェル岬。信仰は世俗から切り離さないとできないものなのか。断崖の切り立ちようもそれぞれのあり方を物語っている二つの岬だ。

「巡礼者宿舎」の方に戻ると、ぴたりと風はおさまり、わたしは深呼吸した。変わらず人の気配はない。と思ったら、十字架台のあたりに犬がいた。こちらをじっと見ている。どこから来たのだろう。おとなしそうだが、野犬だろうか。用心しながら近づいていくが、動かない。飼い犬なのだろうか。20メートルぐらいまで寄ったところで、犬は背を向けて歩きだした。ここと灯台との間の広い草地の方に向かっている。わたしは犬のあとを追うように、ゆっくりと歩いていった。

信仰の建物をはなれると、そこはふつうの海の段丘にあるような広い広い草地だった。日差しがダイレクトに身体にぶつかり、コートを脱ぎたくなるほどの暖かさだ。草地には見たこともない海辺の花が咲いている。景色に気を取られていたら、いつのまにか犬が消えていた。隠れるところなどどこにもないような場所なのに、いったいどこに行ったのだろう。

この草地もまた、大聖堂の方向に平行に進むと断崖になっているはずだ。崖っぷちはもうこりごりなので、海が見えるところまで行って引き返した。この段丘は、こちら側と灯台のある方の丘との間にひとつの谷を作っていた。それを迂回するようにして車の道ができていて、灯台に行けるようになっている。灯台のところには、3台の車が小さく見えていた。あそこに人がいる。そう思うと、少しほっとした。犬は灯台で飼われているのだろうか。

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