【連載】「ポルトガル、食と映画の旅」第20回 ポルトガルという場所 text 福間恵子

翌日の夜、シネマテカにロバート・クレイマーの『ドクス・キングダム』(『Doc’s Kingdom』1987年)を観に行った。残されたわたしたちの時間ではもうポルトガル映画の上映はなく、まあアメリカ映画でもいいかぐらいのつもりだった。

いつものようにブックショップのある二階に上がると、日本人らしき男性に「フクマさんですか?」と声をかけられた。おどろいてその男性を見ると、旅行者ではなくリスボンに住んでいる人のようだった。あっと思った。

シネマテカに通ううちに、受付の人やブックショップの人と親しくなるなかで、5年ほど前からいろんな人に「リスボンに住んでいる日本人の映画作家のスズキを知ってるか?」と尋ねられるようになった。「スズキ・イロ??」と言われたと思うが、見当がつかない。日本人のスズキは山ほどいるから、誰かとまちがえているのではないかと思ったりした。「残念ながら知らない」と返すしかなかった。その後、アーカイヴで映画を観せてもらう機会を得たときにも、担当してくれたルイスさんに同じことを尋ねられた。「スズキはいい作品をつくってるよ」と言われて、そんな日本人がリスボンに本当にいるのだろうか、日系ブラジル人ではないだろうか、などと想像し、スズキという人のことが気になりはじめていた。

「もしかして、スズキさんですか?」

「そうです」

目の前にいる日本人は、まさにそのスズキさんだったのだ。わたしたちが、ポルトガルの映画関係者から何度もその名前を聞かされた「スズキ」さん。ついに彼に会えた。

ハンチング帽をかぶったスズキさんは、国籍不明人のようなポルトガル人のようなたたずまいで、どこかに少年の面影を残したしずかな男性だった。スズキ・ヒロアツさん。彼もまた『Doc’s Kingdum』を観にきていた。映画の開始が迫っていて、わたしたちには映画のあとに約束があったので、ひとまず連絡先を交わして翌日会う約束をした。

『Doc’s Kingdom』は、信じられないことに満席だった。初めて観たが、ふしぎな可笑しさがあった。映画に出はじめて間もないヴィンセント・ギャロが初々しかった。カフェのおっさんを演じるいまは亡きジョアン・セザール・モンテイロ監督が出ると、客席からどっと笑い声があがった。事実、モンテイロらしいおとぼけと皮肉な演技にはわたしたちも笑った。途中から舞台がポルトガルになったと思ったら、なんとこの作品はフランスとポルトガルの合作であった。それもあってこんなに人が来ていたのだ、きっと。

鈴木仁篤さん

翌日の昼前、鈴木仁篤さんがわたしたちのホテルに来てくれて、一緒にニコの食堂(いまはいちおう「Irmãos兄弟」という名前を持っている)にお昼を食べに行った。鈴木さんはneoneoのわたしの連載を読んでくれていて、ニコの店に興味を持っていた。

彼は若いころから写真を撮りながら世界各地を放浪してきて、パリで映画をたくさん観るなかでポルトガル映画に惹かれて、ポルトガルに住み着いた。アレンテージョ地方南部にあるスペイン国境にほど近い町メルトラMértolaに7年ほど暮らしたのち、リスボンに移った。もうポルトガルに10年だそうだ。メルトラでは、ドキュメンタリー映画のセミナーが2000年から毎年行なわれていて、世界から作家たちが集まるのだという。アレンテージョの田舎で映画のセミナー、その名は「Doc’s Kingdom」。なんと鈴木さんと出会えた映画のタイトルが付けられている! おどろいた。

鈴木さんはドキュメンタリー映画の監督になった。彼のパートナーとの共同監督作品が二作ある。それはメルトラ近くのアレンテージョ地方で撮影されたものだそうだ。

その二作『Cordão Verde』(『丘陵地帯』2009年)と『O Sabor do Leite Crème』(『レイテ・クレームの味』2012年)は、2013年東京でのポルトガル映画特集で上映されたのだった(わたしと夫は見逃していた!)。そのときに、昨年亡くなった堀禎一監督が観て絶賛し、以後堀監督と連絡があったそうだ。わたしたちにとっても長い知り合いだった堀監督の急な死はショックだったように、鈴木さんも同様だった。

ニコの食堂には一度来たことがあった、と鈴木さんは言った。安くて美味しくて、あらためて気に入ったようだ。満足のお昼を食べてから、彼はわたしたちが好みそうな場末のカフェに連れていってくれて、話はつづいた。

彼はそのとき、パートナーと共に新作の編集中で、完成にはまだしばらく時間がかかりそうだった。しずかに言葉少なに話す鈴木仁篤さんは47歳。しかし、どこか幼くも見えるその目の奥には、鋭い光が宿っていた。自分が見つけだしたものを信じて、追い求めて、異国の地でそのためにこつこつと生きる姿に、真面目なしぶとさを見た。

彼の作品を日本で見逃し、彼のことをリスボンで耳にしてから時間がかかったけれど、2018年1月にこうして出会えたことを偶然ではなく、必然だったと思った。機が熟したのだ。

『Cordão Verde』のDVDをいただいた。こちらも持参していた福間健二作品のDVDを差しあげた。そして、必ずまた近いうちに会おうと言って別れた。

翌日はもう、夕方の便でリスボンを去る日だった。持ち帰る食品を買って、パッキングをして、荷物をホテルに預けて、チェックアウトした。快晴だったので、テージョ川近くを散歩した。コートを脱ぎたくなるような陽気でたくさんの人がそぞろ歩いていた。対岸のアルマーダ地区の崖にそそり立つキリスト像が白く輝いている。

最後の食事はもちろんニコの店だ。コメルシオ広場からバイシャ地区を通り抜けて、いつもの坂道を登る。おなかをすかせて1時半に店に入ると、ニコが笑顔で迎えてくれる。ニコが奥を指差すので見ると、なんと鈴木さんがいるではないか! パートナーのロサーナさんも一緒だ。ニコの食堂の引力でもう一度会えた。お互いに笑ってしまった。

ロサーナ・トレスさん。とってもすてきなポルトガルの女性。リスボン生まれ・育ちの人だが、南アレンテージョのメルトラに惹かれて、もう20年以上も住んでいる。「Doc’s Kingdom」のセミナーで鈴木さんと出会ったそうだ。メルトラ遺産保護協会からロサーナさんに短いビデオクリップの依頼があり、それを二人で撮りながらふくらませていったものが『Cordão Verde』として成就し、二人の共同監督第一作となった。

ロサーナ・トレスさん

東京に戻ってすぐに『Cordão Verde』を観た。アレンテージョの田舎に生きる人々の暮らし。羊の放牧もコルク作りも大きな釜でのパン焼きも、ヤギの乳搾りもアニス酒作りもキノコ採りも、めぐる季節のなかで大地の恩恵を受けながら長く受け継がれてきたものだ。そして、労働する音とそこに生まれる唄を、作品の大事な要素としてきちんと録っている。この土地に注がれる視線には、深い敬愛がある。確かな目がとらえた人間のいとなみ。すばらしかった。何度観ても飽きなかった。

感想を送るとすぐに鈴木さんから『O Sabor do Leite Crème』のvimeoが届いた。冒頭の、暗闇に刺す窓からのわずかな光のなかで動く女性。この3分ほどのフィクスのシーンの研ぎ澄まされた画に圧倒された。映画は、写真のような構図をたんねんに重ねながら、人生の終わりが近い老姉妹の、やわらかく凛とした生きざまを浮かび上がらせて秀逸だ。鈴木さんの目の奥の鋭い光を思った。ロサーナさんのしずかな笑顔とすっとした立ち姿を思い浮かべた。すごい才能と出会えたのだ。

共同監督する。日本人の男性とポルトガル人の女性が、ポルトガルでドキュメンタリー作品を共につくる。長い愛着のあるアレンテージョの田舎に暮らすロサーナ・トレスさん。写真を撮りながら世界をめぐったのちに、ポルトガル映画に魅せられてこの国にやってきた鈴木仁篤さん。それぞれが自分を見つめながら生きてきた異なる時間と空間を経て、それぞれの表現に向かう姿勢がうまく融合して、ひとつの作品をつくりだす。その過程は決して容易ではないだろうが、宿命的な出会いがそれを可能にした。二つの作品に共通してあるのは、ポルトガルの田舎の光景にとどまらず、世界につながる光景になっていることだ。

『トラス・オス・モンテス』の共同監督、アントニオ・レイスとマルガリーダ・コルデイロを思いだす。彼らは二人ともポルトガル人だが、トラス・オス・モンテス地方出身のマルガリーダにはこの土地への深い愛着があり、ポルト近くに生まれたアントニオには民俗学・考古学的に興味を持つ土地だった。そういう二人が生み出したこの名作もまた、ポルトガルの貧しい寒村にとどまらず、普遍的な人のいとなみを提示している。

ポルトガルは決して豊かな国ではない。人々の暮らしも芸術も交通も、ヨーロッパの「辺境」と揶揄されながら、それでもしぶとく独自のものを継承し息づかせてきた。それを支えているのは、この国の長きにわたる被支配の歴史と近代に体験した「革命」のなかで身につけた忍耐と許容なのではないかと、このごろ思う。耐えること、受けいれること。それは自分と向きあうことでもある。

映画づくりにおいても、同じ状況が長くあったはずだ。オリヴェイラがポルトガルを代表する監督としてヨーロッパで受け入れられるようになるまで、彼につづく監督たちは、耐えて受けいれる時間をどれほど持ったことだろう。

最近出版されたペドロ・コスタの日本における講義録『歩く、見る、待つ』(土田環・編訳、ソリレス書店)を興味深く読んだ。この本のタイトルに添えられたポルトガル語タイトルは「Ver, ouvir, caminhar, esperar.」「見る、聴く、歩く、待つ。」である。日本語タイトルがなぜ順番を変え、動詞一つをカットしたかについては語られていないが、それはまあどうでもいい。「見る、聴く、歩く、待つ」ことは、映画づくりのみならず表現の基本にあるものだ。作り手はそこから受け取ったものを、組み立て、肉づけして、血をかよわせる。ポルトガルの映画作家たちの「見る、聴く、歩く、待つ」時間は長くつづいたかもしれない。しかし熟成されもしたのだ。波が押しよせている。

いまポルトガルでは、ペドロ・コスタやモンテイロにつづいて、世界に対抗するあたらしい才能が生まれている。ミゲル・ゴメス、マヌエル・モッソス、テレザ・ヴィラヴェルデ、アルベルト・セイシャス・サントス、マルガリーダ・カルドーゾ、ジョアン・ペドロ・ロドリゲス、ジョアン・サラヴィーザ、そして鈴木仁篤&ロサーナ・トレスがいる。これらの監督たちの多くは、自分を見つめることが同時に外の世界につながっていくような映画に挑戦している。この状況は映画に限らず、ポルトガルの表現の場で起こっていることだと思う。

訪ねるたびに出会いと発見は増して、さらに深みに入り込む。わたしのポルトガルはまだまだ終わらない。

1月に鈴木さんとロサーナさんが編集していた作品『Terra』(英語タイトル『Earth』)は、8月のロカルノ映画祭の「First Look」部門で上映され、絶賛された。たぶんこれからあちこちの映画祭で上映されることだろう。『Terra』の日本語タイトルは「大地」だろうか。ああ、早く観たい!
(つづく)

福間恵子 近況
9月1日に福間健二監督第6作「パラダイス・ロスト」無事撮了。映画の完成は1月をめざします。関係者のみなさん、ありがとうございました。撮影のために時間が持てず、この連載も7月8月をお休みしました。ごぶさたでした。さて、シネマヴェーラで上映中の堀禎一監督特集、見逃している「天竜区」シリーズ、行くぞー!