かたや、大阪・釜ヶ崎を舞台に(なぜか)釜をめぐって泥棒、やくざ、労働者が争奪戦を繰り広げる雑駁な活力の喜劇。
こなた、ユニークな共同保育の環境で育った子どもが、成長してから当時を辿り、母親や父親との関係を整理し直していくセルフドキュメンタリー。
2本の映画、佐藤零郎監督『月夜釜合戦』、加納土監督『沈没家族 劇場版』の毛色はまるで違う。しかし、最近の日本のインディペンデント映画の中でも風貌が変わっている点に好ましい共通点がある。
さらに言えば2本の映画は、映画を通して社会のこわばりに否と唱えようとする姿勢と、生活者から自ずと滲み出るユーモアが有効な武器になると捉える感覚も共通している。そしてどちらにも、どこにも帰属せず、自分の意思を曲げない女性が登場して作品の核の部分を担っている。
……ということは、半分は本当で半分はこじつけ。せっかく2本の東京公開時期が近いのだから、監督同士でお話してもらおうか。そんな思いつきがスルスル決まってから、さて対談のテーマはどうしよう、という順番だった。
この2人については、その程度のお膳立てで良かったと思っている。挨拶は交わしていた程度で、ちゃんと話をするのは初めてでもこれだけ言葉をオープンに出し合っているところから、両者の映画の土台となるものを汲み取ってもらえれば幸いです。
(進行・構成/若木康輔)
「家族であろうとカメラを向けた以上は、甘えを持ち込んだらあかん」
― まず、お互いの映画の感想を。
佐藤 面白かった。所々泣きそうになったし。一番ドキドキしたのは土くんが後半、父親の山くんに会いに行って、待ち合わせる場面です。
『沈没家族 劇場版』は、沈没家族と名付けられた共同保育で育った土くんが、その人たちと再会しては当時の話を聞いていくストーリー。だから何度も待ち合わせの場面が出てくるんやけど、お母さんの仲間が多いこともあって、割と平静でしょう。でも、お母さんの穂子さんと折り合いが悪くて離れて暮らしていた山くんと会う時だけは、カメラが凄く緊張してるよね。待っていた山くんをまっすぐ捉え切れていないことで、土くんにとって彼が特別な存在なのが伝わってくる。いい撮影だったな。
加納 本当ですか? 撮影がいいと言ってもらったの、ほとんど初めてです。穂子さんに「君は映像を撮ることにあまり興味無いよね」と言われて、ウーンとなっていた位で。
佐藤 もちろん、めっちゃキマッてるわけでもないけど(笑)。画面の中の人物の収まり具合が良い。土くんが穂子さんと一緒に踏み切りに立っているところなんか、もっと寄ってもいいし引いてもいいなかで絶妙なポジションを選んでる。
土くんと穂子さんの場面でもうひとつ僕が好きなのは、家のソファーで並んで何か飲んでいる時、2人とも赤い塗りの箸を手にしているカット。狙って撮ってはいないだろうけど、ああいう、特別でないところから関係がよく見えてくるのが凄くいい。
沈没家族って、本質的には人として上下関係のない対等な関係を築くことの模索だったんじゃないかと僕は思っているんです。子どもは親の所有物ではない。親子ではあるけど、穂子さんは土くんを一人の人格として扱い、人と人として向き合おうと意識して頑張っていたんじゃないかな。
加納 そうだと思います。子どもに対しても人間として尊重しようとはしていました。
佐藤 ドキュメンタリーも常にそうやと思うねん。家族であろうとカメラを向けた以上は他者、ドキュメンタリーの対象であり、一人の人間として向き合わないと駄目です。いくら家族が対象であってもそこに甘えては駄目で批評精神を持たないとあかん。
『沈没家族 劇場版』にはそのあたりの節度がよく出ていて、それは土くんがまさに他者との共同生活のなかで育って培われてきたのかなと。撮り手から信頼関係を作る努力が感じられない映画なら、僕はすぐに見るのをやめますから。それが全く無くて良かった。
加納 映画を作ろうと思うまでは、もう距離も時間も離れていたので、沈没家族についての記憶はボンヤリしたものでした。昔メディアに取り上げられていた時の〈新しい家族の形〉〈実験的なライフスタイル〉……といった捉え方が頭の中に残っていた程度です。
ところが実際に沈没家族の人と再会してみると、当り前の話だけど、みんな個人なんですよね。僕自身、(保育人の)ペペ長谷川さんやたまごさんたち一人一人と遊んでいた時、彼らを保育人という属性で見ていたわけではなかった。撮影しながらその頃の気持ちに戻れました。みんな、それぞれのバックボーンがあって沈没家族に参加していたんだと初めて分かったし。確かに、なるべく人を括らない態度は沈没家族の中で培ったものかなと思います。
穂子さんは、とにかく自分だけの価値観を子どもに押し付けるのは良くない、いろんな大人と関わって育つことは絶対いいことだと思っていたようです。僕も、その日一緒にいてくれる人によって食事のマナーが違ったり、遊びも絵本を読んでくれたり怪獣ごっこだったり、雑多な中にいたのは今になると大きかったと思いますね。絵本の中に警察官が出てきたら、「こいつは悪だ……」と吹き込んでくる人もいた(笑)。
『沈没家族 劇場版』より ©おじゃりやれフィルム
― 土くんは『月夜釜合戦』を、立ち見のなかで見たそうですね。
加納 物語の中にすっかり入って泣き笑いです。住んでいる町を追われるくやしいところは、拳を振り回したくなるほどでしたし。
でも僕は自分が当事者かどうかを凄く考えるので、『月夜釜合戦』に映っている労働者のおっちゃんたちのことを完全に理解できるのかどうかで、考え込んでしまうところがあるんです。中3の時に一人旅で釜ヶ崎に行ったこともあるんですが、あの時に感じたことを映画で見て思い出して、本当の釜ヶ崎ってなんだろうとか……。
それでも、そんな躊躇いをぶっ飛ばす面白さがありました。墓地で踊り出すシーンなんか、ただひたすらカッコいい。フィクションにはこんな飛躍が出来るのかと感動しました。
佐藤 あそこは阿倍野斎場という、遺骨の引き取り手のいない無縁仏が入るところ。あの墓地で赤いスカートの女が踊るイメージは、実は物語が出来る前からあった。メイ役の太田直里さんはコンテンポラリーダンスの経験があったし。ただイメージだけは明確にあった分、どうやって物語の中に絡めていくか脚本を書く間は苦労しました。
加納 零郎さんの映画第1作『長居青春酔夢歌』(2009)は、大阪長居公園のテント村立ち退きを記録したドキュメンタリーでしょう(山形国際ドキュメンタリー映画祭アジア千波万波ノミネート作品)。そこから、よく『月夜釜合戦』のようなフィクションにいけましたね。
佐藤 ふだん見るのはほとんど劇映画ですよ。ドキュメンタリー映画はDVDもあまり出ていないので。だから山形に行った時には、ホントに浴びるようにドキュメンタリーを見ますけど。
― 釜ヶ崎にいる私娼のメイ(太田直里)と泥棒の大洞(川瀬陽太)は、ひょんなことから孤児になった貫太郎と同居を始める。この疑似家族的な展開には、『丹下左膳餘話 百萬兩の壺』(1935)を堂々と下敷きにした、カラッとした楽しさがあります。
佐藤 あの映画を見て、この人達の関わり方はめっちゃいいなーと思っていました。ちょび安と丹下左膳と櫛巻きお千の間に血縁はないんですが、家族です。
加納 メイも大洞もそうですもんね。父性や母性が芽生えなければ家族とは言えないとか、そういう取り扱い方をしていないところがいいです。
佐藤 うん、そこは僕も強く意識して脚本を書きました。貫太郎の親父を殺したのは開発業者だったと途中で分かる。では誰が復讐するのか、と考えたんですよ。家族的な結びつきが生まれたのなら、まだ子どもの貫太郎の代わりに大洞やメイが仇討ちするのか。でも、それやとあかんのやないか? 貫太郎の怒りは個人のもので、他の人が代行できるものではない。大洞もメイも、そこはいい意味で手放して貫太郎自身に任せるべきやと。今気づいたけど、彼らも沈没家族の一つなのかもしれないね。
『月夜釜合戦』より ©映画「月夜釜合戦」製作委員会
▼page2 2人とも、きっかけのドキュメンタリーは森達也の『A』 につづく