【対談】月釜×沈没 対談! 佐藤零郎(『月夜釜合戦』監督)×加納 土 (『沈没家族 劇場版』監督)スペシャル対談

加納土監督(左)と佐藤零郎監督(右)

2人とも、きっかけのドキュメンタリーは森達也の『A』


加納 
『月夜釜合戦』のベースには、釜ヶ崎に暮らしている人たちが再開発で排除されようとしている現状への怒りがありますよね。それを訴えるための表現がドキュメンタリーではなくフィクションだったのはどうしてなんでしょうか。面白くないとダメだという、明確な意思があったんですか?

佐藤 基本、映画は面白くなきゃあかんってのはあると思っている。もちろん面白さにもいろいろあるけど。
僕は釜に自分の選択で行っている人間です。でも住んでいる人たちの多くは、来たくて釜に来たわけじゃない。そこには絶対的な違いがあって、それでも一緒に映画を作りたいと望んだらフィクションということになるんです。
具体的には、触れられたくない過去があったり、本名も明かしたくない人がいて。ドキュメンタリーで「あなたを撮りたい」と求めるのは難しいんですよ。だけど劇映画だって言えば乗ってきて、提案までしてくれるんです。「俺、寅さんやりたい」とか(笑)。映画は昔からいっぱい見てる人たちだから。

加納 そうかあ。登場した人たちは映画をもう見てくれてるんですか。

佐藤 うん、街を映画に出てくる大釜を転がして練り歩いて宣伝して、炊き出しのカレーライスも用意して上映しましたよ。三角公園で上映した時は300人位集まったかな。だけど炊き出し食ったら、ゾロゾロ帰るねん(笑)。半分以上は帰ったけど、まあそんなもんやろう、いずれどっかの機会に見てもらえたらいいやって。

― ここでもう少し遡って、零郎さんが映画を作るようになるまでを教えてもらえますか。佐藤真さんに師事していたという情報しかないので。

佐藤 最初は役者やお笑い芸人志望でした。何かを演じたり作ったりする場の熱気みたいなものが好きで。だから20歳過ぎの頃には、京都の東映俳優養成所に通って時代劇の大部屋にいたりもしていたんです。
その東映時代にドキュメンタリーが好きな友達にいろいろ勧められて。『ゆきゆきて、神軍』(1987)を見た時は、うわー俺にはドキュメンタリーはムリや、人との関係にこれだけ踏み込んで、しかも他人の人生を変えるような関わり方して、俺には絶対真似できへんと思いましたね(笑)。

加納 すぐにドキュメンタリーに魅かれたわけではなかったんですね。

佐藤 そうです。ところがある日、DVDで『A』(1998)を見たんですよ。特別な力を持っていたわけじゃない、一介のディレクターだった森達也さんが報道の人たちとは全く違う視点で、ひとりでオウム真理教の中に入っていく。そんな森さんの姿勢がかっこよくて。テレビの業界からのはみ出し者が、当時のオウムをめぐる過熱した日本社会の中でただ一人真っ当に変わらずそこにいて撮っている。
ちょうど当時、京都造形大学で林海象さんのゼミにいた弟が、佐藤真さんのドキュメンタリーの授業も取ろうとしていて。それで僕も大学に行ったんです。佐藤さんは「大抵は弟が兄貴の授業に付いてくるもんだけど、君はお兄ちゃんが付いてきちゃったかあ。まあ、同じ佐藤だからいいか」(笑)。十何人しかいない授業だから普通は紛れ込めないんですけど、そこで2年位勉強させてもらったんです。
山形には、佐藤さんの『エドワード・サイード OUT OF PLACE』がクロージング上映作品だった2005年に初めて行きました。ドキュメンタリーを見ては香味庵で議論する毎日が楽しくて、それですっかりです。土くんは?

 佐藤 零郎 (さとう れお)
1981年、京都生まれ。2005年より映画監督佐藤真に師事し、ドキュメンタリーを学ぶ。
2007年、大阪長居公園テント村の野宿生活者達が、強制的に立ち退きにあうときに、芝居をすることで権力と対峙する姿を記録した「長居青春酔夢歌」が山形国際ドキュメンタリー映画祭アジア千波万波(2009)にノミネートされる。長居公園の現場でNDUの布川徹郎と出会い、以後行動を共にする。個々人としてドキュメンタリーを制作するのではなく、集団的な批評や議論を必要とした関西の若手ドキュメンタリストの集団NDS(中崎町ドキュメンタリースペース)の立ち上げに関わる。「映画と社会変革」を自身の創作活動のテーマとしている。

加納 先に言われてしまった……。実は僕も『A』からなんです。

佐藤 なんや、2人して森さんの株を上げてしまうなあ(笑)。

加納 八丈島で穂子さんと暮らしていた高校2年生の時、穂子さんから「これ見てみたら?」ってDVDを渡されたんですよね。彼女が沈没家族をスタートさせたのは東中野なんですが、そこに住んでいた頃はBOX東中野(ポレポレ東中野の前身)でよく映画を見ていて、当時感銘を受けた1本だったそうです。
僕も高校生の割には新聞やテレビのニュースによく触れるほうでしたから、報道とは違う切り口でオウム信者の中に入っていく『A』は衝撃的でした。それに森さんは「これを撮っていいのか。オウムに加担することにならないのか」と自分自身の葛藤も提示していますよね。それが凄く新鮮でした。
同じ頃に山くんも一冊の本を勧めてくれていて、それが森さんの『死刑』(2008)。

佐藤 母親と父親から教えられたのが、どっちも森達也。偶然やねえ。

加納 しかもその頃、部活から帰ったら、『311』(2012)を森さんと共同監督した松林要樹さんが酒を呑んでいた。松林さんは当時八丈島で撮影をしていて、人づてで穂子さんとも知り合っていたんです。興味津々で話を聞いたら「ドキュメンタリー映画なんか絶対に関わらないほうがいい。先が無い」と散々言われました(笑)。だけど監督と直接会って話せたのが刺激になって、ドキュメンタリー制作のゼミがある武蔵大学の社会学部に入りました。

だから僕は、森さんと松林さんがきっかけですね。八丈島には映画館がないから、もしも『A』を見ていなかったらドキュメンタリーをやろうとは思っていなかったかもしれない。感謝しています。

佐藤 僕はそんなこと全然無い。「『A』を見たおかげです、ありがとう!」なんて言うつもりは無いです(笑)。

 加納 土 (かのう つち)
1994年生まれ。現在24歳。神奈川県出身。『沈没家族 劇場版』が初監督作品。武蔵大学社会学部メディア社会学科の卒業制作として本作を2015年から撮影を始める。卒業後はテレビ番組会社に入社。

▼Page3 「穂子さんに、僕もやれてるよってことを見せたかった」につづく