【連載】「ワカキコースケのDIG!聴くメンタリー」第31回『1975 4.13.』キャロル

矢沢永吉と内田裕也が一緒にやれていた時代

「俺と矢沢もいろいろあったけど」の、いろいろとは何かを、せっかくなのでザッと洗っておきたい。
断っておくと、ネットの詮索記事のようにどっちがいいか悪いかの興味で書くのではない。詮索がくだらないと言いたいのではなく、単に、僕には物事の白黒をハッキリさせたくなる才能が薄い。

デビュー前のキャロルがテレビ出演した時、ミッキー・カーティスがすぐにプロデュースを申し出たのはよく知られているが、裕也さんにもそれなりに話はあったらしい。
では当時の永ちゃんは、ダブルブッキングをしでかしていたのか?

そこは『内田裕也 俺は最低な奴さ』(2009・白夜書房)を何度めくってもよく呑み込めなかったし、今になってもハッキリしない。どうも、この本での裕也さんのあっさりした振り返りからすると、それほど根深いトラブルではなかった気がする。
デビューを狙う時なら誰だってそりゃあ、業界で力のある人に会えば「なんかあったらぜひよろしくお願いします」と言うでしょう。そういう僕の実感に基づいている。

実際、1973年2月に裕也さんが仕掛けたイベント〈ロックンロール・カーニバル〉にキャロルが出演して以来、両者はステージ活動を多くともにしていた。
溝が生まれたと察せられるのは、1974年から。先に触れた「平凡パンチ」の記事で、永ちゃんが裕也さんに噛みついているのだ。
1974年8月の福島県郡山での〈ワンステップ・フェスティバル〉(裕也さんがプロデュースした、日本初の本格的ロック・フェス)では、キャロルが大ウケしたのにテレビ放送の際はほとんど紹介されず、メインで映っていたのは目玉の海外ゲスト、オノ・ヨーコだった。永ちゃんはその扱いに対して、裕也さんのフォローが無かった(感じられなかった)ことに腹を立てている。

「裕也サンは二言めには日本のミュージシャンを世界に出したいと言うよ。だけど、それなら、『ミカ・バンド』を、ちゃんと出せよ。オノ・ヨーコがきたら、オノ・ヨーコだけたてまつってよ。外タレべったり。ウラハラじゃん、言うこと」

何が直接の理由かは不明だが、前後に、裕也さんに殴られたことがあるとも吐き出している。

「『矢沢、立て、ブットバス』だれ見てモノ言うとるんじゃい。殴ってみい。ほなら、ガーンときたわ。上等じゃねぇか。ホラホラ、今度は左側いこ」

うーむ。しかし当時の裕也さんにも、事情はある。
1976年に出版され、2009年に廣済堂で文庫化された『俺はロッキンローラー』によると、ワンステップにはワールドクラスのフェスを日本で実現するための、ほんとのステップの意味合いがあった。
それに、当時のヨーコさんのネームバリュー、格といったら、ちょっとケタが違う。別居中だった旦那のジョン・レノンも招聘できるものなら……と動いてはいたようで。
ジョンとヨーコをブッキングする、なんてとんでもない計画にハマっている時に、自分の手の外でどんどん売れているキャロルまで構っていられねえ、が正味の話だったのではないか。

むしろ今となっては、矢沢永吉と内田裕也がよく一緒の場にいた、そんな時期があるほうが信じ難い。
殴り殴られがあった後の、この解散ライブの日。永ちゃんが招待したのか、裕也さんのほうから出向いたのか。これまたどっちか分からないままだが、そこがグレーなのも、男の政治の場らしくていいなと僕は思う。

永ちゃんのあらゆる作品歴の中で(俳優として出演したものは除いて)、一瞬で他人に持っていかれるさまが残っているのは、おそらくここでの裕也さんのみだろう。
しかし、目の上のタンコブの最たるもののような10歳年上の先輩をステージに呼び入れ、挨拶のトリにして自由に話させているのは立派だ。
裕也さんも「俺と矢沢もいろいろあったけど」とそこは隠さない代わり、自分の本音は一切出さず、得意の司会スキルで「4人のメンバーに温かい拍手を送ってくれ!」と盛り上げている。
2人とも、肝心の場で大きい。僕がここで言う政治とは、そういうことだ。

もしも自分が、含みが残る人間の記念の席でひとこと求められたら。その時、「僕と○○はいろいろあったけど……温かい拍手を送ってください!」と言えるかどうか。
本盤を聴くたび考える。言える男にはなりたい。


盤情報


『1975 4.13.』キャロル
フィリップス/日本フォノグラム 
1975
2枚組/3,800円(当時の価格)

若木康輔(わかきこうすけ)
1968年北海道生まれ。フリーランスの番組・ビデオの構成作家、ライター。
前から僕には、矢沢永吉とドキュメンタリーの相性の良さについて一度勉強し、整理してみたい気持ちがあります。日本の人物ドキュメンタリーの、妙に生き様みたいなことを好み、詩でいうと「人生派」に近い作りに寄っていくのは、実は永ちゃんの影響が強いんじゃないか? という見立てです。今回の文章では、1曲がデモから完成に至るまでのスタジオでの作業風景をまとめた、破格に聴くメンタリー成分の強いアルバム『グッバイ・キャロル』(1975・フィリップス)も紹介したかったのですが、書ききれんかった。いずれ機会があれば。
連載再開の際は本盤の「ゲスト紹介」について書こう、と考えているあいだに3月の内田裕也氏の訃報がありました。映画のほうの大活躍にモロやられた世代ですから、いろいろ思いはあるのですが、いったん書き出したら裕也さんのスピーチが面白すぎて、感傷を綴る余地がまるで無かった。まだ笑わせてくれるし、ジーンとさせてくれる。まだ生きてる。僕にとって、とても嬉しいことでした。