【連載】ドキュメンタリストの眼 vol.22 アミール・ナデリ(映画監督)インタビュー text 金子遊

イラン映画を代表するアミール・ナデリ監督。2018年の東京フィルメックスの「特集上映 アミール・ナデリ」では、監督の初期の代表作『タングスィール』『ハーモニカ』といった作品が並び、さらに上映されることの珍しい映像詩的な作品『期待』や『マジック・ランタン』が上映された。そして2019年に入ると、新作の『山(モンテ)』が全国で劇場公開された。特集上映のために来日して東京に滞在しているナデリ監督に、初期のキャリアのおける歩みと、新作に込めた思いについてお話をうかがった。(構成・写真=金子遊 構成協力=コトニ社 通訳=ショーレ・ゴルパリアン)


映画監督になるまで

——映画監督になるまでの歩みをお話しいただけないでしょうか?

ナデリ 物心のついた幼い頃から、ペプシやファンタを飲みながら映画館にいることが当たり前でした。ですから、自分が何歳から映画館に通いはじめたのか、はっきりとした記憶はありません。劇場で人生の大半を過ごしていたのではないか、というくらい通い詰めていました。映写室に入ったり劇場で働く人たちと仲良くなったり、映画館では色々なことが起きましたね。九歳までは映画館で掃除のアルバイトもしていた。イランでは九歳から学校に行って学びはじめるので、学校にあがる前から映画館でさまざまなことを学んでいたことになります。わたしの生まれ育ったアーバーダーンというイラン南部の街が非常に活発な街で、外国からの観光客も多く、外国映画も盛んに上映されてました。そういった街なので、映画も字幕なしでネイティブな外国語のまま映画を観ていた。わたしは叔母に育てられたのですが、彼女が映画好きだったこともあり、いろいろとサポートしてくれましたね。

とはいえ、早い時期から映画というものが単に人を喜ばせるものではなく、何か異なるものだと認識していました。チャップリンが好きだった自分が、もうすこし成長するとバスター・キートンが好きになっていった。そのときはまだ幼かったけれど、バスター・キートンのほうがしっかりと映画を作っていると感じていたのです。幾多のジャンルの映画を観る機会に恵まれて、映画を観たあとで外に出ていき、映画を観ることができなかった貧しい子供たちに、いま観たばかりの映画を語って聞かせました。そのときに自分の気に入らないシーンはカットし、気に入ったシーンだけ引き伸ばして説明したりした。だから、そのときからまるで自分の頭のなかで映像を編集しているような感覚をおぼえていましたね。アルバイトをして、お金がたまるとすぐに映画を観に行って使ってしまうという生活でした。

学校は小学校までしか行っていません。学校における規則というものが非常に苦手だったんです。映画館や、映画の現場に行くととても自由を感じることができたので、学校は辞めてしまった。一一歳のときに首都のテヘランに行きました。テヘランに行ってからも小さなアルバイトはしていたが、最後には映画の製作会社に仕事を見つけることができた。そのときの僕は製作会社の人たちから見ると非常に幼く、まだ少年でしたが、映画に関しての知識はすでに豊富に身につけていたので驚かれましたね。地方から来た幼い少年に、こんなにも映画の知識があるとは思ってもみなかったのではないか。そうやって、僕のファンがどんどん増えていきました。

——何か映画と関係のあるアルバイトをしていたんですか。

ナデリ 写真屋でバイトをしていて、そこで写真技術を学ぶことができました。その経験を活かして、撮影現場で撮るようになってからは、バイトでかなりの写真を撮りましたね。幼いときから映画をずっと観ていたので、僕は写真を見た人たちは、そこにおける視線の向け方がとても映画的だと評してくれた。写真家として注目されたのには理由がありました。普通の撮影では俳優にポーズをとってもらい、それをきれいに撮るわけですが、僕は俳優が演技をしようとしている仕草などをカメラにおさめていったのです。なので、撮った一連の写真を見ると、それはまるで映画のワンシーンのような印象を見る人に与えました。そうやって修業時代に少しずつ積み重ねていったので、いざ「映画を作りたい」と言ったときには、たくさんの人が手助けしてくれることになったんですね。

まだ一本も映画を撮ったことがないときに、リスキーなことを一つした記憶があります。それは一八歳のときでした。一つの賭けともいえるもので、自分がロンドンに行ってスタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』(一九六八年)のオープニングのチケットを手に入れてくる、といったものでした。イランの友人知人たちは、そんなことは不可能だと思ったようですが、僕がイギリスへ渡航して実際にそれを実現したので、かなり度肝を抜かれたようです。その時点ではまだ、映画監督としての経験はまったくなかったのですが、その賭けに勝ったことによって、どういうわけか自分に自信がつきました。不可能と思えることでも、何かをやろうという強い意思を持てば、それが実現するのだと思えるようになりました。

ロンドンにいたときに、そこで上映していたフランスのヌーヴェルヴァーグの映画は観ることができました。それまで映画をたくさん観てきた経験があったので、ヌーヴェルヴァーグの映画を観て、何がそれまでの映画と違って新しいのか、よくわかりました。ヌーヴェルヴァーグの映画からは影響を受けましたね。特に演出面や音響設計の仕方、そして撮影や編集のやり方が監督によって全然異なることがおもしろく、注目しながら観るようになりました。いつも片手にはペンと紙を持って映画館に入り、映画を観ながら気がついたことをすべてメモした。そうやって他人の映画を見ながら書き散らしたメモやノートの類いが、家には山のようにあります。

70年代の『タングスィール』『ハーモニカ』

——今回の東京フィルメックスの「特集上映アミール・ナデリ」では、『タングスィール』(一九七三年)、『ハーモニカ』(一九七四年)、『期待』(一九七三年)といった、監督のキャリアのなかでも初期の作品を観ることができました。『タングスィール』は同時代のアメリカ映画などとも一脈通じるところのある、ある男の復讐劇になっていて純粋にアクション映画としても楽しめました。

ナデリ 僕の一番最初の長編映画は『さらば、友よ』(一九七〇年)という作品で、本当の本当に低予算で作りました。この映画には自分の情熱をすべて込めたので、イランの観客からは好意をもって受け止められました。今回上映された『タングスィール』は三本目の長編映画になります。あまり良い状態のプリントがなかったのですが、イランのフィルム・アーカイヴにあたる組織がこのほど協力してくれたおかげで、良い状態の映像で観ていただくことができたと思います。慎ましい生活をしていた男が、法律家や聖職者と裏でつるんだ商人によって全財産を奪われてしまい、堪えるに堪えかねて、ライフルを手にして復讐に立ち上がるといった内容です。イラン映画のスターであるベヘルーズ・ヴォスーギが主演して、公開当時はイランで興行記録を塗りかえるほど大ヒットした作品です。

処女作の『さらば、友よ』から二本目、三本目と映画を作っていって、『タングスィール』でひとつの飛躍が成し遂げられたことがわかります。一本の作品を仕上げると不満や課題が残るものですが、それを次回作のなかで解決していくことが大切なのです。『タングスィール』にいたって、僕は一般の観客もそうですが、同業の映画監督や若いシネフィルから注目されるようになった。イランでは、この作品を観たことで映画監督を志すようになった人が多かったそうです。この映画は四五年前に撮った映画になります。公開当時から僕は一度も見直したことがなかったので、今回の上映は自分にとっても大きな意味をもっていた。もし、もう一度同じシナリオでこの映画を撮ることがあったら、演出も編集もすべて同じ手法になると思います。それほど、この作品で僕の方法論は確立されたといっていい。笑っても泣いても、僕には今のところ21本の長編作品しかない。それだけ撮っていくためのベースを作ってくれた映画だと思います。

——翌年の『ハーモニカ』もまたナデリ監督の初期の代表作ですが、こちらはイラン南部の海辺の村を舞台にして、ハーモニカをめぐって子供たちの社会においてパワーバランスが変化していく、当時の政治や社会に対する寓意をこめたドラマになっています。

ナデリ 『ハーモニカ』は四番目の長編になりますね。前作の『タングスィール』撮ったとき、製作会社は規模の大きなところで、監督としてのギャランティも高価でした。現在でいったら一千万円程度のギャラがもらえたのです。そして次の映画は何を撮ろうかと考えていたら、イランに「青少年児童協会」という組織があることを聞き、そこをスポンサーにして児童映画を作れば、70年代前半において最新だった機材をいろいろ使えることがわかりました。それも政府の組織なので、機材や設備が無料で使えるというアドバンテージあった。商業主義的な映画のシステムの枠内で仕事をしていると、資金やプロデューサーなどの関係で、いろいろと複雑で面倒なことが起きます。ですが、物語において子どもをテーマにすれば、演出面などでは自由な裁量が与えられるということで、そこで映画を撮ることに決めました。

『ハーモニカ』は自分の故郷であるイラン南部の港町アーバーダーンを舞台にした、自伝的な映画だといえます。まず子どもたちに出演してもらって映画を作ることが好きだったし、その子供たちを自分が生まれ育った地域で撮れば、その環境には慣れていると考えました。要するに、自分のなかの奥深いところにあるもの、その物語を取りだしてきて映画を作れることに魅力を感じたんですね。正直にいうと『ハーモニカ』の映画のなかで起きるできごとは、実際にそのまま自分の身に起きたことなんです。僕はこの映画の少年のように子どもの頃は太っていたし、いっぱいご飯を食べていたし、いたずらっ子だったし、音楽に強い興味を抱いていました。自分の性格として、いつもまわりの人びとに心を開いて、みんなに優しくしようとしていた。ところが、そうやって自分はすべてを出しているのに、相手側から反応をもらうときにすごく苦労しないといけない、ということがその頃わかったんですね。

商業映画のシステムのなかで映画を撮ると、撮影期間から製作費、俳優のスケジュールからギャラまで、さまざまな条件があるから自分のやりたいようにやることができない。ですが、青少年児童協会において映画を撮れば、自分の好きな色を置いていくような画家のようなやり方で、自由に映画が撮れたんです。子どもたちとの関係さえ何とかすれば、物語としても画面のなかの構図としても、子どもたちを自由に配置できるという強みがありました。いま『ハーモニカ』を見直してみると、子どもの頃からいかに自分が芸術や音楽に関心があったことがわかり、それが映画に現れているなと思います。この作品を作ったおかげで、自分の映画作りにおいて新しい扉が開き、新しい世界へと一歩踏み出したといえます。

今回ほとんど40年ぶりくらいに『ハーモニカ』を劇場のスクリーンで観て、自分としても、いろいろなことを思い出しました。この映画を公開したときは、イランでの反響が大きかったです。当時も「すばらしかった」「感動した」と感想をいただきましたが、やはり出演した子どもたちの力に負うところも多かったと思います。『ハーモニカ』に出演した子どもたちは、プロとして訓練された子役ではなく、

下手したら映画もほとんど観たことがなく、映画館にすら行ったこともないような子どもたちだった。だからこそ、映画のカメラを向けられても、いつもと同じように自然に振る舞うことができたし、良い意味でプリミティブな動きをしてくれた。そのような子どもたちと共同作業をすることが自分には大切だったし、何より撮影していておもしろかったんですね。

『ハーモニカ』(1974)

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