【連載】ドキュメンタリストの眼 vol.22 アミール・ナデリ(映画監督)インタビュー text 金子遊


映画とイラン社会の関係

——『ハーモニカ』という映画は、もちろん児童映画として優れた作品なのですが、それと同時に大人たちがこの作品を観て、当時のイランにおいて社会的なインパクトを与えたといわれています。そのあたりを詳しくお話いただけないでしょうか。

ナデリ はい。『ハーモニカ』という映画は、いわゆるイラン革命、つまり、それまであった王朝をホメイニ氏らが打倒して、イラスム共和制を樹立した革命の前に撮られています。イラン革命自体は一九七八年から七九年に起こりました。『ハーモニカ』が最初に上映されたのは、イランの映画祭おいてでした。さまざまな批評をもらって、反響もすごく大きかった。イラン革命が起きたあとで良くいわれたのは、『ハーモニカ』という映画が革命を予兆していた、あるいは、この映画があったからこそイランの民衆はイラン革命を起こしたのだ、とまで言う人もいました。そのように他人にいわれて、なるほどと思うところもありました。この映画の物語はハーモニカを持つことで子どもたちを支配していた男の子がいて、あるとき、その体制がひっくり返る姿を描いています。イラン革命に限らず、もしかしたらこの物語はさまざまな共同体や国家についても当てはまるものかもしれません。要するに、自分たちの権利をどのように手に入れるかという永遠の課題に触れている映画なんですね。

大人の世界だけでなく、子ども世界でも同じだと思うのだけど、太った少年はハーモニカを貸してもらって演奏するために、持ち主の少年に奴隷のように扱われることを受け入れます。つまり、自分がほしいものを手にするために、どれくらい自分を犠牲にできるのかという物語ですよね。途中でギブアップする人がいれば、最後にハーモニカを手にするまで、犠牲になってもがんばる人たちもいる。そのようにハーモニカに夢中になって催眠にかけられたような状態にあるわけですが、太った少年は叔母さんの行動によって目を覚ます。そのような話は世界中に転がっていると思います。いくら手に入れたいものがあったとしても、自分自身を貶めてまですることはない、ということです。自分自身を失ってしまったら、手に入るものがいくら大きくても、人生に何の意味もなくなってしまうわけです。映画のラストシーンで、太った少年がハーモニカを奪って、どうして水のなかに投げ込んでしまうのか。どうしてあのような結末にしたのか、自分でもわかりません。僕が生まれ育ったアーバーダーンのあたりは海辺の町で、ハーモニカを川や池に投げたなら、また誰かが見つけて拾ってくるかもしれない。海のなかに投げ込んでしまえば、誰も見つけられないだろうと考えたことは確かです。

——『タングスィール』がイランの民衆に与えた影響も少なからずあるのではないでしょうか。

ナデリ
 とにかく、主演のベヘルーズ・ヴォスーギは当時はすごく人気があった。だから、いろいろな劇場が上映しやすかったということはあります。いまもよく覚えていますが、最初はユーロスペースみたいな小さなアートシアターで上映が始まりました。だから、シネフィルや熱心な映画ファンしか観にこなかった。イラン革命がじはじまると、人びとは『タングスィール』はこれまでの体制や制度にノーと突きつけて、革命を擁護する映画だというようになりました。イラン革命の前までは興行的にもパッとしませんでしたが、革命がはじまると大ヒットするようになりました。

理不尽な商人や資本家や偉い人たちの仕打ちに堪えられるところまで堪えるベヘルーズ・ヴォスーギは、当時の民衆たちにとっては、わかりやすくいえば高倉健さんだったわけですね。だから二六歳のアミール・ナデリという監督の名前は誰も覚えていないけれどもヴォスーギが与えてくれたカタルシスだけは、みんなちゃんと記憶している。『タングスィール』は、革命前は彼の主演作の一本にすぎなかった。しかし、革命のあとになると、テーマが斬新だとか、演出面で優れているとか、いろいろと注目してくれるようになった。自分でいうのも何ですが、いま観ても全然古びていない映画だと思います。イラン映画の新しい世代が、この映画のような破壊力のある作品をどんどん作ってほしいと思います。

ある意味では『ハーモニカ』という映画も同じですね。これらの二作は、あまりに多くの人に観られて反響が大きかったので、自分よりも作品が大きくなり、自分の手を離れていったという実感があります。ただ、これまでのキャリアのなかで何か壁にぶちあたるようなことがあったとき、「彼は『タングスィール』の監督だよ、『ハーモニカ』を監督した人さ、『駆ける少年』(一九八五年)を撮った人なんだよ」というと、目の前に立ちはだかっていた扉が開くということが何度かありました。イラン・イラク戦争中のできごとを思いだします。ある現場で写真を撮ろうとしたときに、軍に拘束されたことがありました。そのときに「僕は『ハーモニカ』や『駆ける少年』を監督した人間ですよ」といったら、処分を保留にしてくれたことがある。当時は戦争中でみんな食べるものにも困っていた。その頃にテレビで『駆ける少年』と『ハーモニカ』がオンエアされたことがあった。すると、地方に住んでいる叔母のところに、見ず知らずの人たちが食品をたくさん持ってきてくれた、というできごともありましたね。

——八〇年代に撮られた『駆ける少年』は、本当に世界中でヒットして評価も高く、イランのアート系映画の力を世界に見せつけたという感じがします。その後で一九九〇年代に入るころに、あなたはアメリカに移住していますね。

ナデリ 先ほどもお話しましたが、イラン南部のアーバーダーンで生まれ育った僕は、近くにイギリスの石油会社があって、欧米からきた労働者たちも多くて、地元の映画館でたくさんのアメリカ映画を観て育つことができました。自分の人生を振り返ってみると、その根っこというものはやはりイラン南部で過ごした子ども時代にある。どうしてアメリカに行こうとしたのかというと、ひとことでいえば「イラン映画の世界は自分には小さい」と思ったからです。もっと大きなことをするならアメリカだなと考えた。それから、昔もいまもジャズが大好きだということもあります。

それと同時に、一九八〇年から一九八一年のイラン・イラク戦争では、イラン側に侵攻してきたイラク軍にとって、ふたつの河川によって島になっているアーバーダーンの占領はもっとも重要なことでした。なぜなら、当時のイランで産油されていた石油のおよそ三分の二が、ここで生産されていたからです。アーバーダーンの包囲戦でイラク軍とイラン軍が激突して、最後には何とかイラク軍を撤退させましたが、僕の生まれ育った町は戦火で燃えてしまいました。故郷の町が破壊されてしまった。自分の故郷がなくなってしまったからには、どこか同じ土地に居座っている必要はないと感じたのです。

だから『ハーモニカ』のように、僕が昔のアーバーダーンを舞台にして撮った映画というのは、南部の人間にとって戦争で破壊される前の故郷を見るような心地になることでしょう。イランの南部では、この映画のことをけなしでもしたら、人びとはあなたを襲ってきて八つ裂きにするかもしれない。そのような気風が南部の人たちにはあります。南の人はすごく強い、南の人はとてもあたたかい。イラン南部はとても暑いところで、いつも水不足に悩まされています。そんな故郷の人たちを励ますために、僕はナデリ映画をたくさん上映するということをやってきました。


映像詩の方へ

——そのように人びとの心を動かす劇映画を作ってきた一方で、今回の特集で上映された『期待』(一九七四年)や『マジック・ランタン』(二〇一八年)のように、非常にエクスペリメンタルな試みをした映像詩の系譜に連なる作品も、ナデリ監督は撮ってきていますよね。

ナデリ おっしゃるように、これもまたイラン南部の浜辺を舞台にした『期待』という映画がターニング・ポイントでした。『タングスィール』や『ハーモニカ』でもそうですが、僕の映画は常に何かと闘っている状況を描くことが多い。それが自分が生まれ育った環境に影響されていることだと思います。しかし、この映画では純粋に映像で世界を構築するナデリが出ているんですよ。まず、この映画には一切セリフがないですよね。映像だけで、観客が目で見るだけでわかるように、ひとりの少年が氷でいっぱいにしたガラスの器を家まで持って帰ろうとする姿を描いてます。『期待』は愛についての映画ですね。『ハーモニカ』を撮って上映し、いろいろな反響があったあと、同じように青少年児童協会に機材をすべて借りて、ギャラは少ない作品でしたけど、かなり自由に撮れる環境になったということが大きいです。

『マジック・ランタン』は『期待』から四五年近くあとの作品になりますし、フィルム撮影ではなくてデジタルで撮った作品ですが、やはり「愛」というテーマではつながっています。久しぶりにアメリカで撮影した作品で、映写技師の青年を主人公にして、現実と幻想が入り混じり、古い映画へのオマージュが繰り広げられるファンタジーだといえます。つまり、この映画は僕にとって映画に対する愛情を展開した作品なのです。もっといえば、溝口健二の映画への憧れが前面にでています。監督としての僕にはストーリーテラーという面と、純粋に映像の美しさで勝負する詩人の面と、ふたつの側面があるんだと思います。

特に後者に関しては、かなり自分のナイーブで内向的な部分がでていると思う。『期待』と『マジック・ランタン』はそのような映画です。『マジック・ランタン』を見ると、自分の映像詩の試みはまちがいではなかったなと思うことができます。もちろん、この映画はロサンゼルスで撮っているから、アメリカ映画の強さや巨大さを自分の肩の上にひしひしと感じながら、作らなければならなかったということはある。ですが、自分の少年時代や故郷への愛情、そして溝口健二や日本映画への愛情があったので、その愛を注入しながら、アメリカ映画の強さに負けないように作りました。溝口映画についてヴェネチアで講演をしたことがあり、また、アメリカの会社が、溝口監督の『雨月物語』(一九五三年)を修復していて、それに半年ほど立ち会う経験をしました。そうすることで、溝口映画が自分のなかに血肉化していった。信じてもらえるかわかりませんが、あるとき暗い夜道を歩いていて、背後から溝口健二が付いてきているのを感じたことがあります。そのときに絶対に作ろうと思ったのが『マジック・ランタン』です。それで来日して、そのインスピレーションを失わないように、赤坂にあるドトール珈琲の店に座って、六カ月間かけてシナリオ書き、アメリカに戻って撮影をしました。

『期待』(1974)