【連載】ドキュメンタリストの眼 vol.22 アミール・ナデリ(映画監督)インタビュー text 金子遊

『山(モンテ)』(2016)

『山(モンテ)』について

——二〇一九年に日本で劇場公開される『山(モンテ)』(二〇一六年)についてお話をうかがいたいのですが。これはまた、ナデリ監督の劇映画と映像詩を融合したような、とても力強い作品になっていますね。

ナデリ 『山(モンテ)』に関しては溝口監督ではなく、黒澤明監督の映画の魂をつかみ取って作った作品です。本当をいうと、日本で撮りたかった作品ですね。西島秀俊さんを主演に据えて、製作は松竹でという話も持ち上がったんですけど、肝心の人びとの生活の壁となる山が見つかりませんでした。硬い岩からなる壁を見つけることができなかった。日本であったら黒澤明監督からインスパイアをもらって撮れると思ったんですけど、「そうか、イタリアにいけば彫刻家のミケランジェロがいたな」と思って、彼の国に行って撮ることにしました。シナリオは日本で書いており、本当に細部までどのようなスタイルで撮るかも考えていた。それがロケをイタリアですることになり、むろんイタリア映画の歴史も深く、尊敬すべき映画や芸術が多いので、イタリアに行ったときには、日本で書いたものをイタリアの文化に合わせて書き直す必要がありました。すごく難しかったのは、イタリアの本当に奥深い文化を手につかまないといけないと思ったことですね。

映画全体の演出としては、黒澤明監督のスタイルを保ちながら、イタリアで撮影しようというコンセプトでした。カメラのレンズも、カメラワークも、編集の方法も、録音や音声の入れ方も、すべて黒澤監督のやり方を模倣しています。そして、ついに撮影が終わって映像素材をカバンに入れて日本に持ち帰り、東京で六カ月かけて編集作業をしました。なぜなら、日本映画の魂を入れたかったからです。そのためには資金が必要でしたが、どうしてもこの方法でやりたかった。西荻窪に部屋を借りました。編集は自分でやりましたが、オペレーターとして仕事をしてくれたのは日本人の男性です。彼はイタリア語が理解できず、僕もイタリア語できず、イタリア語のわからない人と一緒に編集をしたかった。セリフがわからないなどの問題がでたときは、イタリアに電話をして聞きながらやりました。音響面でも黒澤明を真似ていて、『蜘蛛巣城』(一九五七年)の冒頭の墓場のシーンで、死の世界からやってくるような音でコーラスがかかりますが、あの雰囲気を『山(モンテ)』に吹き込みたいと思いました。この映画の物語は、要約しようと思えば一行で終わることでしょう。ですが、この作品を撮って仕上げる作業は大変でした。

——中世のイタリアの地方の村が舞台になっていて、夫と妻と息子からなる三人の家族がいます。その村では、壁のようにそびえる巨大な山のせいで陽光が遮られて、思うように作物を育てることができない。他の人たちは村を立ち去っていくなかで、頑迷な主人公の男とその家族は何とか生き延びようとする。そして、最後には壁のような山と対峙することになります。伝説か寓話のようなストーリーですが、これはどのように思いついたのでしょうか?

ナデリ 僕はひとつの物語を思い浮かんだときに、ふと、これは原始人だったら、昔の人だったらどのようにやるだろうと考えるのです。『山(モンテ)』を日本で撮ろうとしていたときは、江戸時代を舞台にしようと思っていた。イタリアで撮ることになった段階で、時代をもっと遡らないといけないと考えた。それで中世のイタリアを舞台にすることにした。さて、人類の最小限の単位は何かといったら、それは父、母、子から成る家族ですね。そして、人生は何だろうと問えば、火、水、風、土という四元素がある。ひとつの家族があって、そこに山があって、彼らにとって大切なものは一体何なのか、彼らは何をしたいのか。その意志とはどんなものか、その希望とは何のか。そのように考えていきました。

——『山(モンテ)』の映画において、主人公の男や家族の前に立ちはだかる山というか岩の存在は、人間の生における試練のメタファーのようにも感じました。

ナデリ やはり人生のなかには越えていかなくてはならない、さまざまな障害があると思うけれど、その障害は下手したら悪に変わってしまうこともある。どうして『山(モンテ)』という作品が自分にとって大切な映画かというと、われわれの人生のなかの問題というのは、それぞれに名前がつけられている。病気だったり死だったり、あるいはお金や権力だったり、いろんな問題がある。しかし『山(モンテ)』という映画では、その障害を名づけ得ぬものにしたいと思った。ずっと、永遠に人間の前に立ちはだかる障害であったら、それは山かなと思いついた。その山がいつできたものなのか、本当のところは誰にも言えない。山というものは、何万年も何十万年も何百万年前に形成されたものもある。その山は多くの人びとの怒りを静かに見守り、雨を見て、風を見てきたんです。そのような山という存在は、イタリアでは聖なるものとされているそうです。

——日本列島にはちょうどいい山が見つからなかったといいましたが、イタリアでもロケ地を探すのは大変でしたか。実際のロケもアルプスの山でやったのでしょうか。

ナデリ ロケ地を探すために、いろいろな国で山を見て歩きました。日本、アメリカ、オーストラリア、韓国、中国にも行きましたね。最後に北イタリアで手頃な山を見つけることができて、二五〇〇メートルほどを登って、その山で四、五カ月ほど生活したのです。正直にいって、この映画を完成できるか自信はありませんでした。映画を撮影するために、俳優やスタッフともども山上に行かなくてはならない。それは、街角にカメラを置くのとは違って、すごく難しいことでした。百人くらいの人がこの映画に関わっていたからです。それでも自分にはこれができるんだ、自分にはその力があるということを証明してみせたいと思って、がんばりました。

ですから、『山(モンテ)』を日本の映画祭で上映し、日本の劇場で公開できることは、心からうれしい。この映画はイタリアで撮られましたが、自分の生まれた国に戻ってきたのでしょう。物語の種は日本で蒔かれて、外国で育てられて帰ってきた。編集作業も東京でやったし、音響やミキシングも東京で仕上げている。日本の観客が喜んでくれる要素がこの映画にはあるとは思います。黒澤明の映画からインスパイアされた『山(モンテ)』という作品には、どこか日本的なところがあります。それは、たぶん主人公の人物像に現れています。この男は無口であまり言葉はしゃべらないけれど、誰に何をいわれようと一所懸命に最後まで戦い抜く。それが、日本の人に近いかなと思います。日本の観客はこの映画を見ることで、鏡で自分を見るように感じるのではないでしょうか。

【作品情報】

『山(モンテ)』
(2016年/107分/イタリア・フランス・アメリカ合作/カラー)

監督・脚本・編集=アミール・ナデリ
撮影=ロベルト・チマッティ
美術=ダニエル・フラベッティ
出演=アンドレア・サルトレッティ、クラウディア・ポテンツァほか
配給=ニコニコフィルム

公式サイト http://monte-movie.com/

【執筆者プロフィール】

金子遊(かねこ・ゆう) 
neoneo編集委員。近著に『悦楽のクリティシズム』(論創社)がある。共訳著にアルフォンソ・リンギス著『暴力と輝き』(水声社)など。プログラム・ディレクターをつとめる「東京ドキュメンタリー映画祭2019」が、今冬に新宿K’s Cinemaで開催予定。公式サイト tdff-neoneo.com