楊力州(ヤン・リージョウ)監督
伝統人形劇“布袋戯”の来し方行く末
――老人形師の想いを包みこむ監督の布袋戯愛
『台湾、街かどの人形劇』
楊力州(ヤン・リージョウ)監督インタビュー
(取材・監督近影撮影・文:稲見公仁子)
11月上旬、楊力州(ヤン・リージョウ)監督は『台湾、街かどの人形劇』のプロモーションのために来日した。台湾の伝統人形劇である布袋戯の巨匠・陳錫煌(チェン・シーホァン、1931~)にスポットを当てたドキュメンタリーで、台湾では昨秋10月に封切られ、2か月強のロングラン上映となった一作だ。楊監督は、現在の台湾を代表するドキュメンタリー作家で、数多くの作品が劇場公開されヒットを記録している。日本で一般公開されたのは本作が初めてと言えるが、特集上映や映画祭、またシンポジウムなどで紹介されている。
筆者にとっては楊監督に取材するのは4年ぶりで、そのときは台湾でドキュメンタリー映画がしばしば劇映画を凌ぐヒットを飛ばすことなどについて、その理由を訊いたのだが、突き詰めて言うと、それは自分たち台湾の物語を希求する観客の思いがノンフィクションとフィクションの垣根を取っ払っているということのようだった。今回、台湾語と結びついた布袋戯を題材にしたことはまさしく台湾的。そもそも楊監督はどんなふうに布袋戯と付き合ってきたのだろう。そんなことから聞いてみた。
「私の幼少時代はまさに布袋戯そのものでした」と楊監督は言った。「子供のころは布袋戯の人形が買えなくて、タオルを丸めて手に被せて紐で縛ったりゴムで縛ったりして、それを人形のように操って遊んでいました。子供時代のとても大事な思い出です。でも、10歳を過ぎたあたりから布袋戯が(私のなかから)どんどん消えていって、実をいうと10代から40代の間は私の生きてきたなかで布袋戯の空白期間であり、私の人生に布袋戯が帰ってきたのは40歳を過ぎたころ。霹靂布袋戯を好きになり、それから陳錫煌さんに出会って布袋戯と再会しました。友人が私の布袋戯好きを知って『素晴らしい方を紹介しましょう』と陳師匠のところに連れて行ってくれたのです。彼の公演に行くと5人しか観客がいなくて、私は彼の真ん前で観ることができました。そして、彼の指使い、繊細な人形の操り方にたいへん感動し、世界でもっとも布袋戯を操れる人の技術を記録しようと思いました」
布袋戯を撮ろうと思ったときのことを、そう楊監督は述懐する。布袋戯は、かつて福建省からの移民とともに台湾に渡った芸能で、娯楽であり、神へ奉納するものであった。19世紀末以降、台湾では娯楽色が強くなり、社会情勢とも相まって独自の発展を遂げている。不惑になった楊監督の心を布袋戯に引き戻すきっかけとなった霹靂布袋戯とは、台湾中南部を拠点とし、テレビをはじめマルチメディアと結びついて発展した布袋戯で、VFXの導入や大型化した人形などに特徴がある。伝統布袋戯に取り組んできた人形遣いのなかには、霹靂に影響を受けた者も若干いるのだが、そんななか楊監督の心を強く引き付けたのは、オーソドックスな道を歩み続ける陳錫煌の属する流派だった。
『台湾、街かどの人形劇』より ©Backstage Studio Co., Ltd.
楊監督が一連の取材から最初に発表したのは、NHKとシンガポールのメディアコープが出資するテレビドキュメンタリー『赤い箱~台湾 人形師の魂~』だった。このTV版も『台湾、街かどの人形劇』も中国語のタイトルは「紅盒子」(直訳:赤い箱。戯劇の神の像が納められた箱)で同じだが、英文タイトルはTV版が ”RED BOX” で映画版が “Father” と大きく違っている。
「このドキュメンタリーを撮ろうと決めて、私は資金の調達をするためにシンガポールに行き、そこでNHKと出合いました。NHKは我々の提案を気に入り、我々は60分のものを渡すことになりました。NHKが望んだのはしっかりした記録でした。しかし、私自身としては伝承や父と子の関係に発展させたいという思いが生じたので、そのあと5~6年を費やして父と子の関係を重点的に撮るようになりました」
伝統芸能のなかには親から子へ伝承されてきたものが少なくない。布袋戯も例外ではなく、陳錫煌の父は李天禄(リ・ティエンルー、1910~1998)。侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の『戯夢人生』(93年)のモデルであり、80年代の侯孝賢作品に俳優としてしばしば出演してもいる。人間国宝であり、フランスからはレジオン・ドヌール勲章も授けられた人物だった。父子でありながら姓が違うのは、李天禄が陳家へいわゆる婿入りをし、長男の陳錫煌は母の姓を継ぎ、李姓は弟が継いだからだ。今でこそ陳錫煌も人間国宝の位置にあるが、偉大な父を持った心境はどうだったのだろう。血は繋がり、姓は繋がらず、芸は繋がりを求める。そこには、第三者が容易には想像できないものがある。楊監督はこう語る。
「陳さんは、プライベートでは私に父のことを話してくれるのですけども、カメラを回し始めるといつも記録させてくれませんでした。父と子の関係というのは私のドキュメンタリーの核心的な部分であったので、私にとっての最大の困難はここでした。カメラを向けられて緊張したのではなく、記録されることへの抵抗でもなく、彼は話したくなかったのだと思います。父親に対する恋焦がれる愛しい気持ちと憎しみに近い不満、ふたつのそういった思いを話したくなかったのだと思います」
背中合わせの父子の写真がある。どんな意図をもって撮られたのかわからないが、ふたりの関係を象徴しているようだ。
『台湾、街かどの人形劇』より ©Backstage Studio Co., Ltd.
父・李天禄、息子・陳錫煌、そしてその子……? じつは筆者はしばらく前から布袋戯に興味を持って自分なりに調べているのだが、陳錫煌のことでひとつ引っかかっていることがあった。布袋戯関係の文献をいくら調べても、陳錫煌の子の存在に突き当たらないのである。弟の子の存在は認められたが、陳のほうは見当たらない。そこで思い切って楊監督に尋ねてみた。答えはこうだった。
「血縁者がいなかったわけではありません。彼にはふたりの息子とふたりの娘がいます。ですが、息子はふたりとも継ぐことを拒否しました。私は、こんなに素晴らしい技術をもった父がいるのに何故引き継がないのか、もったいないと思っていました。そんな事情から、陳さんにとって、彼と彼の弟子たちの関係は親子の関係に発展していったのではないでしょうか。息子たちに対する期待を、弟子たちへの期待に変えていったのでしょう」
撮影期間中、陳錫煌には弟子が5人ほどいたという。カメラが追ったのは、そのうち3人だが、撮影中、楊監督は弟子のあることに大きなショックを受けた。
「一番弟子は師匠の技術の60%くらいしか技術を習得していないのですが、修業しながら洗車場でアルバイトをしていたのです。彼の両手は車を洗うためのものではない、布袋戯を伝えていくための両手であるべきです。一番弟子にそうさせてしまっているということは、台湾社会にとって大きな恥だと思いました」
台湾には三種類の伝統人形劇が現存し、この三種類すなわち手に人形をはめて操る布袋戯・傀儡戯(操り人形)・皮影戯(影絵劇)のうち、布袋戯はもっとも劇団数が多く、その数は台湾全土で四百を超えると言われる。しかしながら、専業で食べていける人形師はごくごく僅か……楊監督は取材中にそのことに直面し、ショックを受けたのだった。このことは大袈裟に言えば、布袋戯の衰退につながりかねない。楊監督が “伝承” をもうひとつのテーマしたのも当然だろう。
『台湾、街かどの人形劇』より ©Backstage Studio Co., Ltd.
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