日本での公開が待たれていた『リヴァイアサン』(2012)が、去る8月23日、ついにシアターイメージフォーラムで封切られた。
『白鯨』(ハーマン・メルヴィル)の舞台でもある北米ニューベッドフォードから、黒く荒々しい夜の海へ出港した漁船。船内のあらゆる場所に設置された超小型カメラGoRroが映し出すのは、自然=人間=機械が未分化であるような、ごつごつとした世界の手ざわりである。監督・撮影・編集・製作のすべては、ハーバード大学感覚民族誌学研究所(SEL)所属の人類学者=映画作家であるルーシァン・キャステーヌ=テイラーとヴェレナ・パラヴェルの両氏が担当した。公開を機に来日したおふたりに話を聞いた。
[取材・文=萩野亮●撮影・協力=大塚将寿●通訳=藤岡朝子さん]
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|「回復中」の人類学者
――『リヴァイアサン』のプロジェクトのきっかけからお伺いしたいと思います。おふたりがプロデュースされた『マナカマナ』(2013)は、監督のおひとりであるステファニー・スプレイさんが、15年という長い期間ネパールをご自身のフィールドにされていて、そのひとつの成果が『マナカマナ』という作品になったと伺いました。『リヴァイアサン』も、この作品に至るまでにフィールドワークやリサーチを重ねてこられたのでしょうか。
ルーシァン・キャステーヌ=テイラー(以下LCT) わたしたちと違って、ステファニー・スプレイは本物の人類学者です。彼女はアメリカ南部の出身の白人なのですが、15年間を費やして、ネパールの不可触賤民の人たちの一員になってしまうほど、そこに同化していったんですね。
『リヴァイアサン』にとりかかったとき、わたしたちはふたりとも別のプロジェクトの仕上げをしていたんです。ほかの地域の長期的なフィールドリサーチをしていたその最後のところでプロジェクトが立ち上がったのですが、何も知らないままに、個人的に興味のあること、個人的なつながりのなかで、何かテーマを探したいと思ったんです。撮影現場に入る前にリサーチはあえてしませんでした。
リサーチというのは、映画の撮影そのものと同化した作業だと思うんです。わたしたちは撮影を進めながら学び、その学んだことがどんどん変容していって、そして自分たち自身も驚かされる。それが映画づくりのプロセスなんです。ドキュメンタリーがもっともいきいきとするのは、事前に準備されたり、コントロールされたのではない環境で記録された瞬間、予測できないものと遭遇した瞬間です。そうでないとすれば、すでに起こったできごとを記録するだけの単なるイラストになってしまいます。
――人類学では、どちらかといえば『マナカマナ』のように長期取材で参与観察していくというアプローチがよりオーソドックスだと思うのですが、おふたりがそうした手法を採らないのは、「人類学者」としてではなく「映像作家」としての感性がそうさせているのでしょうか。
LCT わたしたちは「(旧弊的な「人類学」という中毒症状から)回復中の人類学者」といい方をするんですね。どうしてアル中のようないい方をするかというと、とても退屈なんですね、現在の人類学というのは。言語に頼っている記録や規定の仕方にはつよい限界を感じます。ただ、これまでにつくってきた映画のなかには、15年というほどではありませんが、長期的なリサーチや民族誌学的なフィールドワークを重視した作品もあります。
今回、『リヴァイアサン』では1年半を映画づくりに費やしたのですが、すべて意識しないままに、自分のコントロールできないままに体験したことがリサーチとなって、作品の骨肉となっているんじゃないかと思います。ですから、今後の映画づくりの指針として『リヴァイアサン』があるのではなくて、いろいろな方法があると考えています。
たとえばヴェレナは、この作品の前に『7 Queens』(2008)という短編をつくっています。これは民族誌学的な方法に対して明らかにアンチな姿勢をとっていると思います。はかない出会いや、知らない人との遭遇、あるいはカメラがひとつのカタリスト(触媒)となって現場を変えていくというようなことを試した実験的な作品ですから、ある意味では既存の人類学とはかなり距離を置いた方法ではないかと思います。
|未知なる「アメリカ」のポートレイト
――パンフレットにあるインタビューでも、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』にふれて、「映画の原作であるというよりは、このプロジェクトに同伴してくれた書物」というような表現をされています。『リヴァイアサン』の舞台にニューベッドフォードを選ばれたのは、『白鯨』という小説があったからなのでしょうか。
ヴェレナ・パラヴェル(以下VP) まったく正直にいうと、ニューベッドフォードがわたしたちの住むケンブリッジから1時間という非常に近い場所にあったから、というのが理由のひとつです。仕事場を近くにしたいなと思っていたんです。
『白鯨』を読むと、すっかりその時代のニューベッドフォードという町の魅力にとらわれますが、実際に行ってみると、いまでも同じようにおもしろいんですね。そのおもしろさに、町がどのようにして進化してきたかという、時間の厚みみたいなものが加わっている。たとえば、かつては捕鯨でとても裕福だったというような記憶が残っています。当時の記憶が、記録にも残っているんです。小説に描かれていた教会もまだ建っています。あるいは政治的なこと――漁業に対する規制がいまどうなっているか――、あるいは錆びた船のすがた。そうしたことにすっかり魅了されていったんです。ですから、『白鯨』という大著がいっぽうにありますが、わたしたちのすぐそばに捕鯨の重要な歴史を語っている港があるにもかかわらず、他のところに撮影に行くなんてちょっと考えられなかったんです。
――『白鯨』はフィクションでありながら、19世紀当時の捕鯨についてのきわめて貴重な資料=ドキュメントでもあり、逆に『リヴァイアサン』は、現代の漁業を記録しながら、一種の神話的なフィクションに近づいてゆきます。150年を隔てて、ふたつの作品は同じ地点に交わるように思えます。
LCT まったく100%同感です。そして、わたしたちがイメージや音をもとにして作品をつくっているのは、そんなふうにことばでは表現できないからです。
――『リヴァイアサン』が『白鯨』を思わせるとすれば、最後の羊飼いを記録した『Sweetgrass』(2009/共同監督=ルーシァン・キャステーヌ=テイラー)は、どこかハリウッドで無数に撮られてきた西部劇を想起させます。そこに自動車部品の集積地を描いた『Foreign Parts』(2010/共同監督=ヴェレナ・パラヴェル)も加えてみると、「アメリカ」というひとつの大きなストーリー(フィクション)のいくつもの断片が、それぞれの作品になっているような印象をもちます。
LCT 重要なのは、わたしたちはふたりともアメリカ人ではないということです。たしかに、アメリカのさまざまなフィクションがどのようにつくられ、また解体されていくかということに興味があります。ただ、いまのお話は、はじめに述べたことに通じると思うんですね。言語の通じない未知の人と出会ったときに、どういう視線で見つめ、また見つめられるかということ。その視線は、家族間であったり、長期にわたる参与観察で交わされるものとは大きく異なるからです。どうして「アメリカ」をこのように断片的なポートレイトにしているのか。わたしたちが外国人であるということが、そこにどういう意味をもつのか。自分の異質性、異者性みたいなものが、その国のポートレイトづくりにどう関係するかというのは、とてもおもしろい問いだと思います。
メルヴィルについていうと、おもしろいのは、ちょうど捕鯨の時代の終わり――1851年に終わったといわれている――、その時期に小説を書いたということだと思います。それはとても小説的なことじゃないかと思うんです。世界の終わりをしるすというか、いまはもうない世界を記録するということでは、ある意味では『Foreign Parts』や『Sweetgrass』のやってきたことに似ているかもしれません。
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