ラテンアメリカの9・11
9・11といえば、2011年にアメリカのニューヨークとワシントンを中心に起きた同時多発テロのことを一般的に意味するが、ラテンアメリカで9・11といえば、人びとは1973年のできごとの方を想起するであろう。
さかのぼること40年以上前、南米のチリでは1970年にリベラル派のサルバドール・アジェンデが大統領選挙で勝利して、史上はじめて民衆に支持された自由選挙によって社会主義政権をになうことになった。ところが、冷戦構造下で「第二のキューバ」が誕生することを嫌ったアメリカと西側諸国は、大規模な経済封鎖によってチリに圧力をかけた。さらに、ピノチェト将軍がひきいる軍部はアメリカ政府の支援をうけてクーデターをおこし、首都サンティアゴにある大統領官邸のモネダ宮殿を襲撃したのである。ろう城したアジェンデ大統領は最後まで抵抗をこころみ、有名なラジオ演説をおこなったあとで、自殺をするところまで追いこまれた。それから18年のあいだ、チリがピノチェト将軍を中心とした軍事独裁政権によって支配されることになったことは、広く知られている南米の現代史の一幕である。
そのようなわけで「9・11」と呼ばれる特権的な日付は、チリの人たちにとっては民衆が熱烈に支持して、合法的な自由選挙で選んだリーダーを不条理な暴力によって殺害され、みずからの立脚する民主主義を力によって奪われたことを意味している。また、2001年の「9・11」を境にして、アフガニスタン戦争とイラク戦争へと突入していった超大国アメリカの姿とは対照的に、「9・11」後のチリでは暴力の矛先が国内の民衆へとむかっていった。軍事政権がアメリカ式の新自由主義経済を押しすすめるなか、ピノチェト将軍に反対する者を数千、数万の単位でつかまえて秘密刑務所に投獄し、拷問をくり返し、その挙げ句に政治犯とされた人たちを次々に処刑していったのだ。その暗黒の18年間がはじまった分水嶺となるのが、南米チリの「9・11」という日であったのだ。
1998年に、ようやくピノチェト将軍が国際逮捕状によってロンドンで逮捕された翌年から、チリの映画監督であるパトリシオ・グスマンは、ドキュメンタリー映画『ピノチェト・ケース』(01年)を撮りはじめた。そこには、こんなシーンがある。チリ北部のアタカマ砂漠で軍政時代に家族を処刑された男性が、カメラのほうをむいて「少し言いたいことがある」と観客のほうにダイレクトに視線をむけていう。彼は砂漠を指さして「ここで起きたことは犯罪なんだ…。それが独裁ということであり、それがピノチェトの政府がやったことなんだ。18年ものあいだ、人びとを家族のもとから引き裂き、殺し続けて、この場所に放置した。それから、ほかにも多くの人たちが行方不明になり、ひどい殺され方をした。これがピノチェト政権の姿なんだ。死と、人殺しだ…」。
『ピノチェト・ケース』という映画は、2006年に病死するまで法廷に立つことのなかったピノチェト将軍への、静謐ななかに強い異議申し立ての気持ちがこめられた作品となっている。ラテンアメリカの「9・11」には、自国にテロ事件がおきて集団ヒステリー状態へと陥っていった2000年代のアメリカの姿とはまったく異質なものがある。それは、40年のときを経ても癒されることのない、集合的な痛みの記憶を想起させる日付であり、「9・11」の軍事クーデターのあとで失われた人びとの生のことを忘却してはならないと人びとに迫ってくる、そんな象徴的な数字なのである。
南米のクリス・マルケル
フランスの映画作家でアーティストであるクリス・マルケルにとって、1970年代の前半はラテンアメリカの時代であり、とりわけそれはチリとの深い関係の時代を意味していた。1967年に匿名の映画作家たちによる集団製作(Collective Works)というかたちで『ベトナムから遠く離れて』をプロデュースして編集を担当したマルケルだったが、1968年になると、パリの五月革命の空気のなかで、社会主義的な運動と集団製作による映画の実践をたがいに近づけるべく、さまざまな実験をかさねていった。そのひとつに、ジャン=リュック・ゴダールやフィリップ・ガレルらと取り組んだ『シネトラクト』(68)と呼ばれる、映画ビラの製作と上映の運動があった。それから、マルケルは労働者たちとともに『また近いうちに』(67)という労働運動をテーマにした映画をつくったが、そのなかで覚醒していった労働者たちの一部がメドヴェドキン集団(マルケルが名づけ親)を結成した。マルケルは彼らが集団で映画製作することを助け、その作品を配給して上映するためにSLON(ロシア語で「象」の意味)という会社を立ち上げている。
それから1970年前後になると、クリス・マルケルはSLONを活動のベースにして、ちょうどチリと同じように軍事独裁政権下で、民衆が抑圧されていたブラジルを対象にして、『ブラジルからの報告:拷問』(69)と『ブラジルからの報告:カルロス・マリゲーラ』(70)の二本の短編作品を製作した。これは1本が3分ほどしかない『シネトラクト』よりは長尺であり、「報告シリーズ」と呼ばれるいわば映画による20分ほどの雑誌の試みとして、ブラジルの軍事政権下のなかで、どのように抵抗がおこなわれ、その結果どのように民衆が逮捕されて拷問され、虐殺されているかを広く知らしめようとする内容となっている。
であるから、1970年にチリでアジェンデ政権が樹立し、平和的な革命路線が遂行され、社会主義的な実験がおこなわれていることに興味をもったクリス・マルケルが、そのアジェンデ政権のインパクトを映画にしようとチリへと旅立ったことは、必然的ななりゆきであったのにちがいない。いってみれば、西欧諸国から少しおくれてラテンアメリカでは左派による革命運動が高まっていったのだが、それと同時に、左派を弾圧しようとする軍部や独裁政権の圧力も強まっていったのである。その一方、スペインの国立映画学校で学んでいたパトリシオ・グスマンは、1970年にアジェンデ政権ができたチリへもどってきていた。
もともとフィクションを作りたいと思い、脚本なども書きためていたのではあった。だが、時はちょうど人民連合が勝利を収め、サルバドール・アジェンデが政権の座についたところだった。労働者たちが街に繰り出し、大統領官邸でアジェンデにアピールすればアジェンデが出てきて演説し、一大スペクタクルが出現する。そのかたわらで保守派の者たちがデモ隊への妨害工作をして小競り合いが始まる。そんな光景が日常茶飯だった。階級闘争が目に見える形で繰り広げられていることに興奮したグスマンは、ドキュメンタリーを撮ろうと決意したようだ。こうして撮ったのが『最初の年』El Primer Año(一九七二)だ。
(「祝祭と革命」柳原孝敦著『クリス・マルケル 遊動と闘争のシネアスト』所収)
ちなみに『最初の年』のタイトルは、「アジェンデ政権と人民連合による新しい政治の最初の一年の記録」というほどの意味である。クリス・マルケルは、すでにパトリシオ・グスマンと彼の仲間たちが、チリで起きている熱狂的な動きの撮影をしていることを知った。そこで自分は裏方にまわることに決めて、グスマンの『最初の年』が完成すると、そのフランス語版を製作して、配給することに協力したのだった(同じようなかたちでクリス・マルケルは、のちに『戒厳令下チリ潜入記』(86)を撮ることになるチリのミゲル・リティン監督のポストプロダクションに協力し、短編映画『チリからの報告:アジェンデは何を語ったか』(73)を完成している)。この時期のマルケルは自分の作品をつくるだけでなく、世界中にいる自分の仲間のためにプロデュースや協力を買ってでるという、集団的でコラボレイティブな活動をおこなっている。近年になって、マルケルの映画アクティヴィストとしての活動が発掘され、その恊働作業のあり方が再評価されているのは、彼の活動がその後の映画に与えた影響の深さがあるからだ。
▼page2 グスマンの『チリの闘い』に続く