小説中の「われわれの子供ら」とは頭蓋骨欠損を負って生まれてきた息子たちであり、障害を抱えて生まれてきた子供たちである。「学校教育の本質上できない」と、森・父の意見を退けた校長は、「教育は心身両面における自然・社会との和解を教えるもの」と定義する。学校教育との和解を断念した森・父は、「自衛」とは「結局、われわれの子供らの親が、ひとめをしのんでやらねばならぬ訓練」であり、彼(女)らが「独自に武装」していくという過激な言い方の実、それは音楽による武装であること、「かれらをみな音楽の専門家にする」べきことを声高に主張する。当然のことながら父母からは、難聴を抱える子供たちはどうするのか、われわれの子供らのなかでまで差別するのか、といった意見も出てくる。
森・父の発言が浮き彫りにすることのひとつに、学校や社会的なる領域から置き去りにされた家庭の存在がある。親から子への虐待や経済的な貧窮問題もいまだ十分に可視化されえていないのが実状だが、一方で不可視に追いやられていた家庭が先頭に立って声をあげはじめてもいる。ガイガーカウンターで武装した母親が子供と手をつないで身のまわりを測るなど、原発の爆発に対して、身体を賭けてもっとも早く直応したのは女性や子供であった。「武装」という語をも瓦解するそれは、目を向けようともしない社会によって抑圧されてきた「個人の家庭でひとめをしのんでやらねばならぬ訓練」が発露していく過程であり、女性や子供が目を向けようともされない日常のなかで育んできた〈自衛―カウンター〉の一部分だった。
そのうえで、わたしたちは「われわれの子供ら」ということばをある鈍さとともに聞きとらないだろうか。パリで開催中の『パリ書籍見本市』のなかで先日行われた討論において大江は、原発の再稼働を推進する政府の姿勢を批判し、「人間が行動するうえで最も大切な倫理は次の世代が生きるための条件を壊さないことだ」と語った。一方で「反原発は集団ヒステリー」と切り捨てた政治家がいたが、彼としてはさも当然である。彼にとってそれは己の未来のダウン・ビートの先行きの象徴でしかなく、憎悪の対象でしかないのだから。