【記録文学論①】 『ピンチランナー調書』 text 中里勇太

小説は、ある夜を境に三十八歳だった森・父が十八歳に、八歳だった森が二十八歳に、それぞれ二十歳ずつ「宇宙的レヴェルノ意志」により「転換」したことで一気に飛躍する。「転換」した森がまず、政治・経済界に大きな影響力をもち、国内外の原発利権を握っている「大物A氏」を襲撃する。そこへテレビタレントであり活動家の麻生野、学生活動家の作用子、革命派と反・革命派のあいだの「志願仲裁人」や、東北の渓流沿いに行軍している現代のゲリラ「ヤマメ軍団」といった面々が絡みあい、結果的には、人間支配の巨大システムを完成させようとしている「大物A氏」への二度目の襲撃が「宇宙的レヴェルノ意志」による「転換」のひとつの終着点となる。

森・父たちは二度目の襲撃へ向かう途上、「大物A氏」の巨大システムの根本には、広島での被爆体験があったと分析する。「大物A氏」は原爆のひきおこしたところのことを、人間のなしうる事業の規模の拡大、と受け取ったんだよ。他人があれだけメチャクチャの規模のことをやった以上、自分にもその規模に見あう達成が可能なはずだ、おなじ人間のやることじゃないかと、くだいていえば眼を開かれたのさ。原爆に遇ってこういう反応をした人間ならば、それ以後はおよそ考えつきうるなんでもやるよ。大きさの規模において核爆発に見あうものといえば、およそありとあらゆる人間の仕業が入るじゃないか?」

原爆がひきおこしたことを同じ人間のやったことと捉えて運動のエネルギーとするとき、そこに悲観は入りこまない。「人間のなしうる事業の規模の拡大」にとって、安易に言えば、それは普遍的である。ここに書きつけられた「人間のなしうる事業」、「人間のやること」、「人間の仕業」という語は、大江が考える「次の世代が生きるための条件を壊さない」という倫理とは対義にある。あえて言えば、小説のなかではわざわざ「宇宙的レヴェルノ意志」によると括られてはいるが、「転換」という想像力は大江の倫理そのものを成す。森の「転換」は、声をあげることができぬ次なる世代が社会に人間に介入する身体を獲得したことであった。森・父は森の従者にすぎず、森のゴーストライターという役割を与えられ、作家である「僕」がまたそのゴーストライターであるという構造自体も、代弁することのできぬものたちの存在に意識的だ。

「現代世界が汚染されつづけてゆく」なか、「人間のなしうる事業」、「人間のやること」、「人間の仕業」に抗する声をあげるべく、いま呼びかけない……あの子供らの代わりは、わたしたちの身体である。いまの子供たち、次なる世代、代わりに訴えるべき存在がいかに長大であるか。またその長大な存在にわたしたちはどれほど意識的であるのか。「われわれの子供ら」ということばから、小説の意を越えてわたしたちが聞きとる鈍さはそこにある。

一方で、わたしたちもまた確実に「汚染されつづけてゆく」。放射線が拡散していくルートマップには、海流、風向き、物資、製造物全般の地球規模の流入出から、原料や飼料、海洋の食物連鎖といった見えない地図までもが重なる。この身体は、化学肥料や遺伝子組み換え食品、あらゆる公害が生みだした物質も取り込んできた。次なる世代、それを意識するほどに、過去から連続する身体をもつわたしたちも「われわれの子供ら」だったことを意識せざるをえない。それもまた「われわれの子供ら」のまわりに漂う鈍さであろう。果たして、「われわれの子供ら」ということばのさきに、大江の想像力が獲得した次なる世代の身体や、現実社会のなかでより自覚的であったひとびとが育くむ〈自衛〉という「武装」を重ねたとき、わたしたちは「われわれの子供ら」のゴーストライターとなろうか、それとも「人間のなしうる事業」、「人間のやること」、「人間の仕業」に抗する声をあげる身体そのものとなろうか。

【執筆者プロフィール】 中里勇太(なかさと・ゆうた) 81年生、編集者・文筆家。評論に「死後・1948」(文藝別冊「太宰治」)、「応答としての犯罪的想像力」(文藝別冊「寺山修司」)、「わたしたちは想像する」(祝祭4号)など。Zine「砂漠」クルー。