【連載】金子遊のドキュメンタリストの眼⑨ 「パレスチナ映画とその社会」土井敏邦さんトーク

 

土井敏邦さんは30年近く、中東情勢とりわけパレスチナを取材してきたジャーナリストである。2010年にその豊富な映像をフッテージを編集して、ドキュメンタリー映画の4部作『届かぬ声—パレスチナ・占領と生きる人々』を完成した。また、近年はパレスチナにとどまらず、日の丸・君が代問題を扱った『“私”を生きる』(10)、東京に暮らすビルマ人青年に長期取材した『異国に生きる 日本の中のビルマ人』(12)、原発事故による故郷の喪失を描いた『飯館村 放射能と帰村』(12)など、国内での問題を扱った秀作ドキュメンタリー映画を発表し続けている。

2014年2月、『アジア映画で<世界>を見る』(作品社)の刊行を記念した特集上映が渋谷の映画美学校試写室にて開催された。ミシェル・クレイフィ監督の『石の賛美歌』(90)を上映した後、ジャーナリストで映画監督の土井敏邦さんを招いてトークイベントを開催した。この記事はその様子をまとめたものである。(聞き手・構成=金子遊)


パレスチナに出会った頃

——私は2012年11月にパレスチナのヨルダン川西岸地区に訪問しました。パレスチナ問題は歴史が深く、また複雑を極める問題であり、私がそれに関して文章を書くことはないと思っていました。ところが、現地へ行ってその現状を見てしまうと、何か小さなアクションでもいいから起こさなくてはならないという気持ちに変わりました。それで、今回の書籍では「神話批判論 パレスチナと約束の地」という評論を書きました。今日は映画の内容を絡めながら、パレスチナで長らく取材をなさってきたジャーナリストで映画監督の土井敏邦さんにお話しを伺っていきたいと思います。

土井 私がパレスチナの現場へジャーナリストとして初めて入ったのが、1985年のことでした。その前に、私は世界中を放浪して歩いていまして、1978年にイスラエルのキブツへ行き、そこで半年ほど過ごしたことがありました。その旅の終わりに友人に誘われてガザ地区へ行ったのが、最初のパレスチナとの関係です。キブツが出発点だったという点では、写真家でジャーナリストの広河隆一さんと同じような軌跡を辿っています。

——そうですね。「神話批判論」では広河隆一さんが監督した『NAKBA パレスチナ1948』というドキュメンタリー映画について論じました。広河さんは1967年の第三次中東戦争のときにイスラエルに行ったそうです。最初はキブツと呼ばれる集団農場に憧れて滞在しており、イスラエルは戦争に勝って国は高揚していたといいます。この戦争の結果、イスラエルはガザ地区とヨルダン側西岸地区を支配権を得て、シナイ半島とゴラン高原を軍事的に制圧しました。あるとき、広河さんはキブツの近くに廃墟を発見し、それが元はその土地から追い出されたパレスチナ人たちの村だったと知り、愕然とします。それから、パレスチナ問題と向き合っていくことになります。それと同じようなことが、1978年にキブツに滞在していた土井さんにもあったそうですね。

土井 私はその当時イスラエルのことが大好きで、次に生まれ変わったらユダヤ人としてイスラエルに生まれたいと公言していたほどでした。しかし5ヵ月ほどキブツに滞在した頃、ガザ地区がどんな場所かも知れないまま友人に連れて行かれた。いま見た映画『石の賛美歌』にも出てきましたが、最初に行ったのがガザ地区にあるビーチ難民キャンプです。どこも芝生で覆われた美しいキブツから、掘建て小屋とドブのなかに人々が住む難民キャンプへ行った。天国と地獄ほどの差でした。その場所でパレスチナ人青年たちに囲まれて「お前はどこから来た」と聞かれた。私が「日本人だ。キブツに滞在している」と答えると、青年たちがこう聞き返しました。「お前はキブツは誰の土地だったか知っているのか」。その問いかけが私の人生の転換点になったのです。

私は1953年生まれで、ヴェトナム戦争の世代です。都会に住む政治意識の高い同世代の人たちは十代の頃からヴェトナムの反戦運動に参加していたのですが、私は佐賀県の田舎育ちで医者になりたい一心で受験勉強に没頭していました。だから社会問題や政治にまったく関心のない、いわゆるノンポリの青年でした。ですから、パレスチナ問題が生まれて初めて肌で感じた国際問題だったのです。帰国してから広河隆一さんの本を読み、クェートから『Palestine Study』という研究書を取り寄せて勉強しました。広島大学の卒業論文は「パレスチナの人権に関する一考察」となり、それからずっとこの問題を追い続けているという不器用な生き方をしてきました。

 

第一次インティファーダの衝撃

——『石の賛美歌』(90)のなかに「1988年の殉教者」という顔写真入りのポスターが出てきました。映画が完成されたのは90年ですが、撮影は88年頃だったのでしょう。パレスチナの人たちが抑圧にたえかねて、一斉に投石などで抗議行動をはじめたのが87年からはじまる民衆蜂起、第一次インティファーダです。ですから『石の賛美歌』はまさにその最中に撮影された映画だといえます。そして、土井さんが初めてパレスチナで長期取材をなさったのもこの時期であり、インティファーダ直前の85年春から約18ヵ月、ヨルダン川西岸とガザ地区を取材して、ルポルタージュの著書『占領と民衆 パレスチナ』を発表しています。

土井 第一次インティファーダの前は、パレスチナというとテロリストのイメージが強かったのです。日本赤軍のイメージがあって、私がジャーナリストとしてパレスチナに関わると公安にマークされるような時代でした。私は一時期、広河さんの後を継ぐ形で、PLO駐日代表部が刊行していた『フィラスティーン・びらでぃ』(パレスチナ・我が祖国)という雑誌を編集していました。そして、いつかイスラエルの占領地に入るつもりだったので、広島から東京へ出てきて名前を変えて生活していました。「砥川春樹」という名前を使っていました。しかし、下宿近くの大崎駅で、ある男に「土井さんですか?」と問われて、ドキリとしました。当時、東京で私の実名が「土井敏邦」であることを知っていた人がごく少数だったからです。それは、私と日本赤軍との関係を疑い探っていた公安でした。

そのような状況ががらりと変わったのが、第一次インティファーダでした。私はそれが始まったときにはアメリカにいたんですが、民衆蜂起は一週間くらいで終わってしまうだろうと考えました。ところが、アメリカの三大ネットワークと大新聞の一面のすべてがパレスチナの民衆蜂起を取りあげていた。それでニューヨーク経由でガザ地区へ入り、インティファーダの初期の頃に現地取材しました。旧約聖書の神話「ゴリアテとダビデ」にあるように、それまではアラブ22カ国が巨人兵士ゴリアテであり、それに小さな国であるイスラエルことダビデが戦っているというイメージでした。ところが、銃を持ったイスラエル兵士に、石を持ったパレスチナ人の子どもたちが抵抗しているという報道がなされて、ゴリアテとダビデがひっくり返った。日本でパレスチナ問題が“市民権”を得て、パレスチナ問題と関わっていることが堂々と公言できるようになったのも、それからです。また、NGOなどの活動もその頃から始まりました。そのような意味では、第一次インティファーダは世界におけるパレスチナ観をドラスティックに変えたと言えます。

『石の讃美歌』より

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