【連載】ドキュメンタリストの眼⑨ 「パレスチナ映画とその社会」土井敏邦さんトーク

『石の讃美歌』より

2つのインティファーダ

土井 1987年からはじまった第一次インティファーダと、2000年9月からの第二次インティファーダと何がパレスチナ人たちにとって違うのか、ということがあります。いま仰ったように、第一次はイスラエルの占領だけに対する闘争ではなく、古いアラブの家父長的な抑圧的な社会を打ち壊そうという闘いでもあった。今まで父親の権力が絶対であったものが、若い人たちが発言権を持っていきました。それから、第一次インティファーダを機に、社会のなかで女性が前面に出てきたということがあります。子どもたちと共に女性も闘い、女性が力を持ってきた。そのような意味では、第一次はまさに草の根の民衆の闘いであり、それを地域のリーダーたちが束ねていき、社会のあり方をがらりと変える社会変革でもあったのです。

それに比べて、第二次インティファーダは、きっかけは民衆の怒りでしたが、やがてアラファト議長が率いるPLO(パレスチナ解放戦線)が主導していきます。そしてイスラエルに対して銃と銃の闘いになっていきました。イスラエル側は圧倒的な武力でパレスチナ人の抵抗を潰そうとして、多くの死者を出し、パレスチナ側のインフラが徹底的に破壊されました。

パレスチナ人民衆の失望は大きかった。独立国家という夢を実現してくれるものと期待していたPLOとその自治政府は腐敗にまみれていた。実は、第一次インティファーダを終結させた1993年の和平合意(オスロ合意)はイスラエルのラビン首相が、アラファト議長に占領地でのインティファーダを抑え込ませるために考案したものだったという分析もあります。あまり報道されていませんが。

しかも第二次インティファーダでは、民衆は中心的な役割を担うこともなく、パレスチナ社会を変革する力にもなりませんでした。結局、それがもたらしたは、パレスチナ社会の破壊でした。現在のパレスチナの占領地の惨状は、第二次インティファーダが招いたものだったともいえます。同じ「インティファーダ」と言われるのですが、その2つはまったく性質が異なるものです。

第一次インティファーダの頃は、もっともパレスチナが輝いていた時期だと言ってもいい。『石の賛美歌』のなかに、民衆蜂起で負傷した青年が帰ってくると、それを人々が熱狂的に迎えるシーンがありました。あのように、民衆のひとり一人が団結し、連帯していた時期だった。当時は、自分の幸せは社会のなかにある、自分ひとりだけが幸せになってはいけないという意識が、インティファーダによって作り上げられていたんです。たとえば、ジャバリヤ難民キャンプにいて、イスラエル軍によって食料を確保するルートが封鎖されてしまう。それで人民委員会が食料を配布します。そうすると「私のところは大丈夫です。となりの家が大変なんです。となりの家へ持っていって上げて下さい」というように、お互いがお互いを助け合う精神があった。イスラエル軍に家を壊されたら、みんなでまた家を再建しようじゃないかという雰囲気です。どうして僕が30年もパレスチナと関わっているかというと、あの頃のパレスチナ人を知っているからです。やはり自分の生き方を問われましたよね。「お前は自分のことしか考えていないんじゃないか?」「お前の幸せは一体どこにあるのか?」。私にとっては、そのような問いを突きつけられる場としてパレスチナがあったのです。

 

——確かにそうですね。『石の賛美歌』を見ていても、抵抗闘争をした男性とジャーナリストの女性は第三次中東戦争への反戦運動を参加した世代とされています。そして、彼らから20歳ほど年下の少年たちが、いま87年からの第一次インティファーダを闘っているのだというセリフが出てきます。そしてまた、土井さんが仰ったように、2000年代のインティファーダというのは、また全然別のものだろうと想像します。お話をうかがっていて、そのようなパレスチナの抵抗の歴史の分厚さのようなものを感じていました。

土井 断っておかなくてはいけないのは、この映画の背景になっている第一次インティファーダは突然起こったものではないということです。それまでのイスラエルによる占領時代に労働組合とか農業組合など草の根の民衆の組織が徐々に形作られていったという経緯と背景があります。そうでなければ、最初はガザ地区で起きた交通事故が起因だったのですが、それがたった一週間でガザ地区でも、そこから離れたヨルダン川西岸地区でも一斉に民衆蜂起が起きるという事態に発展するはずがありません。どうしてパレスチナ人たちは銃で撃たれてまでも、石を投げることができたのか。これがとても重要です。“占領”というものは、棒で殴られるとか銃で撃たれるとかいった直接的な暴力とは違う、ある意味ではもっと恐ろしい、“構造的な暴力”です。人間が、“人としての尊厳を持って生きるための基盤が壊されてしまうものです。それが“構造的な暴力”です。パレスチナでのその象徴的な実例が“占領”です。

たとえば、イスラエルはパレスチナ人の水資源を奪い、土地を没収して農民が農業を続けられなくする、まだ道路に検問所をつくって、毎日パレスチナの民衆が通勤するときに一回一回バスや車から下ろして臨検して嫌がらせし、人や商品、農産物を自由に往来させなくする。映画にもありましたけど、子どもが投石をしたといって学校が封鎖される。私たちはニュースでパレスチナの人たちが石を投げている映像を見て、あるいはテロが起きたというニュースを知って、「アラブ人やイスラムの過激派は暴力的だ」と思うでしょう。ですが、その前に構造的な暴力をふるう占領者の存在があるのです。どうしてパレスチナ人たちが投石せざるを得ないか、どうして自爆テロまで起こすところまで追いつめられているのか、そこが報道だけでは見えてこない。その抑圧の構造が見えてこないから、パレスチナ人たちがテロリストに見えてしまうんです。

 

暴力の連鎖を断ち切る

——構造的な暴力のお話と関係すると思うので、一つだけつけ加えておきたいことがあります。それは『石の賛美歌』はドキュメンタリー部がはじまるんですが、そこにボイスオーバーで「君は何も見ないだろう、時間の廃墟のほかは」「私は見るでしょう、障害を受けた人々を」といった男女の会話がかぶせられていることです。これはマルグリット・デュラスの脚本で、アラン・レネが監督した『ヒロシマ、私の愛(二十四時間の情事)』へのオマージュです。短くいうと『ヒロシマ、私の愛』の岡田英次は原爆によって家族をすべて失っており、平和公園と記念館を歩いただけのフランス人女性エマニュエル・エヴァに対して、彼女には原爆の悲惨は理解できないと言います。しかし、彼女もまた戦時中にドイツ人と恋に落ち、対ナチスの協力者として村人にリンチされた痛みを持っていることが、映画が進むと分かってきます。

つまり、それぞれ固有の痛みを抱える者が、体験というものを越えてどこまで共感できるか、それが可能なのかという問いがここにはある。そのような狙いがあって、クレイフィは『石の賛美歌』の冒頭シーンを描いたのでしょう。ナチスドイツに迫害されたユダヤ人がイスラエルを建国して、今度はそこにいたパレスチナ人たちを迫害する。そのパレスチナの男性は家父長的な伝統の残る家のなかで、女性や子どもを抑圧する。そのような弱者に対する抑圧の連鎖を超える、何か別の価値が提示されなくてはならない。それが、民族や国家や宗教の違いを超えて、人には他者の痛みに共感できる能力がある、ということなのかもしれません。

土井 ナチスという言葉を聞いてドキッとしたのだけれど、イスラエル人に私が取材するときに「あなたはナチスのホロコーストのような迫害を受けたのに、なぜパレスチナ人に対して同じような迫害をするのか」と質問することがあります。そうすると、決まって「あなたはホロコーストの恐ろしさを本当にわかっているのか。なぜパレスチナへの占領とわれわれのホロコーストの苦難を同列に扱うのか。それらは全然別の話だ」と返ってくる。彼らの論理は、二度とホロコーストのような目にあわないために、イスラエルを建国したのだし、イスラエルは強国でなくてはならないということです。22カ国のアラブ諸国に囲まれたなかで、少々の暴力や犠牲や占領政策は致し方ないのだと、ホローコーストの経験を、自らの加害性を見えなくする“隠れ蓑”にしているように見えてしまうのです。

私はパレスチナをずっと取材しながらイスラエルとの関係を見ると、いつも被害者意識と加害者意識について考えます。得てして、人間は被害者意識を強調するときに、加害者意識を隠してしまう、隠れ蓑にしてしまうことがあると思うんです。それはパレスチナとイスラエルの関係だけに限りません。私たちは「ノーモア、ヒロシマ」「ノーモア、ナガサキ」と言いますが、誰も「ノーモア、南京」とは言いませんね。私たちは自分が加害したことを言おうとしないし、忘却しようとする。パレスチナとイスラエルの問題は、そのような普遍的な問題を象徴しているところがあります。

『石の賛美歌』が公開されたのは1990年ですから、まだオスロ合意の前ですよね。第一次インティファーダの先が見えなくなっていた時期のことです。おそらくミシェル・クレイフィはパレスチナ人のひとりとして、まずパレスチナで何が起きているのかを伝えたかったのだと思います。映画に出てくる事象に関しては、誰でも新聞や写真で見ていたと思います。ですが、やはりここには映像の力があります。私の場合、この映像を見ていると、頭のなかにあのときあの場所の記憶がワーッと蘇ってきます。あるいは、パレスチナへ行ったことがない人にとっては、その場所で起きていることを目の前に突きつけられる衝撃があるでしょう。そこに「見てください、この現実を!」という作り手の切実な思い、叫びのようなものが出ていると思いました。

——みなさま、長い時間ご拝聴頂きまして、どうもありがとう御座いました。

 (2014年2月2日 映画美学校試写室にて)

土井敏邦監督(左)右は金子遊(聞き手)

【監督プロフィール】

土井敏邦(どい・としくに) 
1953年佐賀県生まれ。中東専門雑誌の編集記者を経てフリー・ジャーナリスト。1985年よりパレスチナ・イスラエルの現地取材を続けている。1995年より映像取材も開始し、NHKや民放で多くのドキュメンタリー番組を発表。17年間にわたってパレスチナ・イスラエルの現地で撮影した映像を元に、2009年4月、ドキュメンタリー映像シリーズ『届かぬ声―パレスチナ・占領と生きる人びと』全4部作を完成、その4部の『沈黙を破る』は、2009年11月、第9回石橋湛山記念・早稲田ジャーナリズム大賞(公共奉仕部門)を受賞。2009年度キネマ旬報ベスト・テン文化映画部門で第1位、2009年度日本映画ペンクラブ賞文化映画 ベスト1。

東京都の教育現場を描いた映画『“私”を生きる』で、2012年度キネマ旬報文化映画ベスト・テン第2位。2012年7月、『飯舘村 第一章・故郷を追わる村人たち』で「ゆふいん文化・記録映画祭/第5回松川賞」。2013年3月公開の『異国に生きる―日本の中のビルマ人―』で文化庁映画賞 文化記録映画優秀賞し、2012年度キネマ旬報文化映画ベスト・テン第 3位。2013年5月に公開した『飯舘村―放射能と帰村―』で、同ベスト・テン第6位。2014年夏には『被災地に来た若者たち』『ガザに生きる』全5部作を完成予定。

主な書著に『占領と民衆―パレスチナ』(晩聲社)、『アメリカのユダヤ人』(岩波新書)、『アメリカのパレスチナ人』(すずさわ書店)、『「和平合意」とパレスチナ』(朝日選書)、『パレスチナの声、イスラエルの声』(岩波書店)、『沈黙を破る』(岩波書店)、『ガザの悲劇は終らない―パレスチナ・イスラエル社会に残した傷跡―』(岩波ブックレット)など。

土井敏邦ネット http://doi-toshikuni.net/

【聞き手プロフィール】

金子遊(かねこ・ゆう)


映像作家・批評家。劇場公開作に『ベオグラード1999』『ムネオイズム~愛と狂騒の13日間~』、編著に『フィルムメーカーズ 個人映画のつくり方』、共著に『吉本隆明論集』『アジア映画で<世界>を見る』など。neoneo編集委員。