【連載】原一男のCINEMA塾’95② 深作欣二×原一男×小林佐智子「虚構篇」

原一男『全身小説家』(1994)

“無頼派”への憧れ

深作  なるほどね。すいません、原さんなりに作られた、つまり虚構ということについてのこういう対談の構成っていうか、そういうあれもおありでしょうが、ところどころちょっと質問を挟ませていただきたいのは、つまり井上さんを撮られるにあたって、無頼の作家であって欲しいといいますか、その無頼の面をクローズアップする意味では、原さんご自身が無頼にあこがれてる部分があったとおっしゃいましたね。

原    ええ。

深作  その無頼にあこがれておられた原さんご自身の、肉感的なところをちょっと伺いたいなと。

    あちゃちゃ、こっちに来ましたね。

深作  いえいえ、つまりね…。

    私はそれを監督に伺おうと思ってたんですよ。

深作  いやいや(笑)。つまり、檀さん、それから井上さん、どちらも亡くなられちゃった方だと。つまり、どちらも嘘八百を並べられた小説家だと。しかし、その中で、その嘘八百で人を感動させてこられたわけですよね、お二人とも。それで、その感動話をバネにして、きっと原さんは井上光晴氏のいろんな作品にあこがれ、またその作品を書かれた井上さんの実人生をたどってみたいと思われたに違いないんで、そうすると、原さんご自身のこの無頼へのあこがれというところを伺っておかないと、皆さんも承知しないだろうし、私もちょっと話を進めにくいところがあるので。

原    話の締めくくりに、無頼にあこがれた自分って何なのかっていうところで、話を締めようという構成で考えてたんですよ、実は(笑)。

深作  それじゃ先へ延ばしましょうか。

    いやいや、行ったり来たりで構わないんですけどね。それで、ちょっと質問をお返しするようで恐縮なんですが、こういう問題の立て方でいってみたいんですけれども。檀一雄さんのほうを一応無頼型と規定しましょうか。井上さんは決して無頼ではないと、非無頼型っていうふうに一応しましょうか。檀一雄型か、あるいは井上光晴型かっていうふうに強引に分けたとしますね。私は、なぜそうなのかっていう説明は最後に置いといて、自分はやっぱり井上光晴型なんだなっていう実感があるんです。しかし、檀一雄型にあこがれてるなっていう実感も、同時にあるんですね。隣に奥さんなる人が実際に今、座ってるので、あんまり正直に言うとやばいところもあるんですが、だけど、どっかで無頼っていうものにポーンと飛び越えたいっていう、無頼っていうのは僕にとってはひとつあこがれ、ロマンであったり、やっぱり自由であったり、自分じゃできない何かっていうふうなイメージで捉えてるところがどうもあるんです。昨日もそれと似たようなお話ししましたけど、自分はとても憶病であると。なかなか飛べないわけですよね。飛べないでグチグチしてると。言い訳を、女のことがばれりゃ、やっぱり言い訳すると。何か井上さんと結構似てるなっていうような感じが強いんですよね。そういうことがわかればわかるほど、何か井上さんに親近感を持ってしまって、それはそれで井上さんに対して共感を持って、一つの作品を作り上げる。そういうことは言えるんですが、無頼派志向、檀一雄型にあこがれてると。で、僕が聞きたかったのは、監督に先に聞かれちゃったから、ちょっとまずいんですが、僕は深作監督にお聞きしたかったのは、深作監督はどっちですかっていうことをお聞きしたかったんですよ。

深作  それについてですが、檀一雄さんというのは無頼派と言われてますよね。無頼派ということの意味は、例えば家庭というものについてもそれに縛られないとか、自分で気分の赴くままに行動して、例えば人間関係がそこで壊れてしまっても、それをあんまり気に病まないとか、何かそういうふうに取られがちですけれども、実は檀さんはそうじゃないんですよね。『火宅の人』の中に書かれておられますけれども、何かといえば、うちを空けたり、衝動的に飲んじゃって、何日も何日も居続けして、うちへ帰らないとか、いろいろ家庭を放棄して顧みないとか言いますけれども、そうではなくて、きっちりとやっぱり生活の城は、生活のお金、これは届けておられるし、それから、また何かかんかというと、風声鶴唳におびえる、つまり、風の音にも鳥の声にもついおびえて、奥さんの顔色を、ばれたかな、ばれたかなと伺っているというような描写が随所にあるんですよね。それで、そういうところを、小心翼々としてるところをお持ちだから、余計そこから逃れるためにむちゃくちゃをしちゃう。むちゃくちゃをしちゃって、またおびえる。つまり、むちゃくちゃをしちゃうということが、昨日のお話の続きでいえば、電車の中へ飛び込みたくなるとか、高いとこへ上がれば飛び降りたくなるとか、けんかが始まりそうになれば、その瞬間を冷や汗かきながら待ち続けるとか、そういうところは僕の子ども時代からの経験にもいろいろあって、それが家庭、あるいは異性関係、そういうところで同じようにわくわくなさってるところが檀一雄なんで、これがすごく面白いんですよね。そんなん、そんなわくわくするなら裏切らなきゃいいじゃないかというのは、これは凡人の言い方というか、情けを知らない人の言い方なのであって、それをそうしてしまうところが檀さんという人間らしいところだというふうに僕はすごく思ったわけですよね。いろんな、『火宅の人』を中心にしての檀さんの作品を読みながら。そうすると、確かに私自身も、ものに憑かれたように家族との音信を絶ったり、飛び出して行ってしまうことを繰り返してるわけですが、何でそんなことを繰り返してるのか。それはもちろん檀さんご自身もそうでしょうし、うちの中で閉じ込められることがかなわんということもありますし、人間が生きていれば、いろんな枷が積もり積もって、そういうものを一切合切振り捨てたいという願望にとらわれるのは、これは仕方のないことなんで、これは事柄の善悪を越えていることなんですよね、いいとか悪いとか。だから、やっぱり私自身も本当にこの半狂乱というか、飛び出してしまう。それは私自身の、昨日お話ししたような暴力的な衝動とか、ある抵抗感覚とか、それと不可分に僕の中ではつながってる。だから、恐らくきっと僕の映画を見てくださって、面白いと思ってくださるお客様方がいらっしゃれば、どっかやっぱりつながってるんだろうと思うんですよね。だから、原さんが私の場合にはフィクションだけで、このずっと何十年間、監督を続けてきたわけですけど、それで原さんはどういうスタートか、ドキュメンタリーという方向で、そういう創作活動を続けてこられている。そして、何かこのかたちとしては、私のほうはフィクションだから、嘘八百を並べながらドラマを構築してる。原さんのほうは現実の人物を登場させながら、一つのドラマと言っていいのか…。

    ドラマです。

深作  映像を構築されてきてる。その差はありますけれども、やはり井上さんに入れ込んだかたちと、私が檀さんに入れ込んだかたちと、それはやはり基盤は同じだろうと。お互いにけんかの経験とか、いろんなお話も出ましたけれども、やはりどっか表現というものの核には、思わず知らず深淵に引きずり込まれてしまう、井戸の中へ飛び込みたくなるというようなことがまずバネになって、そこからこの人間の、おこがましくも人間の業みたいなものを描きたくなったというようなことじゃないでしょうかね(笑)。

    それで、井上さんが映画の中でもそのせりふは入れてあるんですけれども、自分がここにいると。その自分を見てる、もう1人の自分がここにいると。そして、さらにその二つの自分を見てる第3の自分を作らないとだめなんですよっていう話を映画の中で入れてありますね。つまり今の檀一雄について、監督がおっしゃいました。びくびくしながら、やらなきゃいいのにやってしまうとか。つまり、その問題ですね。

深作  ええ、そうです。

原    そういう、恐れ、怖がってる、憶病でびくびくしてる自分、それを見てる自分。その総体を作品にしていくっていう、そういう仕掛けっていうか、そういうその装置を内部に抱え込んでるっていうのが、言ってみれば作家の資質っていうか、そういうことを真っ当にやる人が、言ってみれば作家っていうことですよね。それで今、僕はその話を聞きながら、この映画の中で大事なせりふだっていうふうに思うんですが、こういうせりふがありますね。でも、僕はそんなばかなところを大事にしたいですねっていうのがあって、いろいろな悲しみや苦しみさえ楽しみながら、おめでたく生きていきたいというのがありますね。これはストレートにいけば、そのとおりに解釈できますね。しかし、同時にこういう決意をしたうえで、これを演じてみせようかって、つまり、このせりふは割とこう演じてるっていう感覚が、どっかにあるんじゃないかっていうふうに言えますね。

深作  そうですね、ええ。あれは葉子という島の女の悲劇を見たあとに言ったシチュエーションになっとるんですが、あれも原作にはないんです。あれがあるのは、『リツ子・その愛』のほうなんです。それで、これも似たようなシチュエーションで、何か奇妙な男女関係でねじれてしまった若い人たちを前にして、自分でその人間のねじくれた人生に何か言わなきゃいけない。変に慰めるのも嫌だ。しかし言わなきゃいけないというところで、正確に同じではないんですけど類したせりふを言うシチュエーションがあるんですよね。それを持ってきたわけなんですが、だから、それを持ってきたということの中には、私自身の人間観のほうが色濃く反映されていて、書かれたのは檀さんなんですけれども、少しそこら辺はちょっと私の手練手管が過ぎたかなと反省してるところもあるんですけれども。しかし、ほかに、これは『火宅の人』の中での檀さんのせりふとしても間違いはないだろうというところで、強引に使ってしまったとこなんですけどもね。しかし、それは同時に何で強引に使ったかというと私自身がまたそういうふうな人間観を持ちたいという、そういう願望を持ってるからだということだと思いますがね。