【連載】原一男のCINEMA塾’95② 深作欣二×原一男×小林佐智子「虚構篇」

原一男『全身小説家』(1994)

虚構は己の欲望の表現である

    結論風になっちゃうきらいがあって、もう少しあとで話したほうがいいかなと思ってたんですが、虚構とは何かっていう理屈の部分ですけども、僕は井上さんの映画を作って、井上さんに教えてもらったっていうふうに思うんですけども、虚構とは何かっていうことなんですが、つまり、人間はかく生きたいという欲求を持ってますよね。それは欲望って言い換えてもいい。その欲望っていうのは言ってみれば自分が自由になりたいっていう、つまり自由それ自体っていうふうに言ってもいいって思うんですね。日々人間は、自分はかくありたい、自由になりたいっていう、そっちの方向へ日々生きていこうとしてるっていうふうに思うんですよね。その度合いが強くなればなるほど、自分が演じてるって意識を強く持たざるを得ないだろうっていうふうに思うんですね。だから虚構とはつまり、欲望の表現だっていうふうな言い方で言えるだろうっていうふうに思うんですね。だから虚構とはありもしない嘘八百っていう捉え方はあるんですが、ちょっとその辺がごっちゃに、僕らも使いますけれども、ちょっと微妙に違うはずなんですね、虚構といった場合。

深作  そうですね。嘘八百っていうと、つまり欲望さえも嘘八百かというと、そうではなくて欲望そのものははっきりあって、願望と言ってもいいと思いますが、それの表現としての虚構ということになるわけでしょうからね。それは嘘と言えるかというと、嘘と言えないです。

    その欲望自体がつまりは自由へ向けての表現であり、それを生きることが虚構なんだ。つまり虚構っていうのは、自分が自由でありたいという表現だっていうような捉え方をしたときに、井上さんはそこまで到達してた人だろうというふうに思うんですね。そこまで井上さんが到達したときに、言ってみりゃいろんな嘘を自由に作りだしていける領域に、あの人はきっと生きたんだろうっていうふうにも思えてくる。ちょっと説明、観念的になってきましたね。

深作  結局はこの文学者も、われわれっていうか、いろんな人間生活を営むための、いろんな商売があるわけですが、それをなさってる方、堅気の方々と言ってもいいし、それからわれわれのように、この妙ちくりんな表現の領域に足を突っ込んでしまった、これは完全に堅気とも言えないと思いますが、いろんな人間がいる。その中で、昨日もちょっと話題に出たヤクザという方々もいるわけですよね。それでヤクザの場合の男女関係、男と女の関係というものを、昨日はあんまりふれられなかったので、ついでにふれておくとしますと、その虚構という問題について、美能幸三という『仁義なき戦い』を書いた原作者がいるわけで、その人に聞いたことがあるわけです。つまり、ヤクザの女っていうのはどういうあれですか? 普通の女性は近づいてこないでしょう? つまり、怖いしね、と聞いた私の考えの中には、女性というのは少なくとも男よりは安定を求めるんじゃないか、生活上の。そしたら、とてもヤクザのようにいつ警察に持っていかれるか、殺されるかわからない、そういう人との生活っていうのは堅気の女性は歓迎しないだろう。つまり、そういう生活は禁止するだろうという腹があったから、そういう質問を聞いたわけですよ。それで現実にヤクザをかっこいいと思ったり、現実にあの頃、深夜映画館なんかあったわけですけど、ヤクザのお兄ちゃんが連れてくるのは、そんなこと言っちゃいけないけれども飲み屋のお姉ちゃんとか、要するに風俗のお姉ちゃんとか、そういう感じが多かったわけですよね。きっとそういうことだろうと思ってたら、どう思いますか? と逆に反問されて。ヤクザというのは人一倍見栄を張ってる。だから例えば風俗のお姉ちゃんを連れて歩いてたとする。その場合に、自分の兄弟分、兄弟分だって意地を張ってるという意味では敵同士だと、ヤクザの場合にはですね。兄弟分だって味方ではない。まして敵。それで、何や、おまえ、こないだ女連れて偉そうな顔して歩いとったけれども、あの女、俺がやった女だぜって、例えばね、そんなこと言われたら、もう絶対、全然立場がなくなってしまう。だから、ほかのあれは知らないけれども、僕は絶対風俗の女は連れて歩かなかったと美能幸三は言うわけですよ。そんなにうまくいくもんかなと、こっちもあまり信用しないで聞いていたわけですが、それじゃ、しかし、あなただって女性とつき合いたかったはずだ。どういう女性だって。もう完全な堅気の、それも人妻だというわけですよね。僕がつき合ったのは人妻ばっかりだと。それで、サラリーマンとか、そういう学校の先生の奥さんとか。学校の先生の奥さんがヤクザにほれるかどうか、これもちょっとこちらの想像の埒外だったので、びっくりしたわけですけども。つまりヤクザだというと非常に怖い印象があるから、そういうときに女性に対して怖さを、強面しようと思うヤクザなんかいませんよ。一生懸命優しくする。優しくすると自分の既成イメージと全然違うもんだから、女性が、まあ!と言う。まずは驚きから始まる、人間関係がですね。それで、その次に、そういうこの意外性が積もり積もって、それで、だんだん馴染みを重ねるにしたがって性的な関係を、結ぶ結ばない関係なしに、結ばないでも、自分自身のためにこれほど足を踏みはずした男たち、無頼の生活、さっきの無頼の生活に生きている男たちが、私のために献身的になってくれる。そうすると、これが一つのステータスになったり、ステータスと受け止めないまでも、すごく自分の、つまり女性の世界が広がっていく、認識が広がっていく、偉くなっていく、そういうような段階をたどるようだ。最初はパンダでも見るようなつもりで、檻の中にいるから安全な猛獣を見るような目で見ている。それがだんだん、そういうふうに、その猛獣がですねえ、危害を加えるものでなく、自分自身に一生懸命つかえる者だと思い出したらそれは、虎だろうとライオンだろうと自分の言うことを聞いてくるんじゃあ、強い方がいいですよね。それと同じ満足感がある。例えば相撲取りをつれて歩くタニマチみたいな心境、それになっていくんだと。だからこの女性というものは、そういうふうにとらえたほうが芝居も…芝居だって面白くなるはずなのに、なんでそんな描き方をしないんですかねえと言われてギャフンとなった覚えがあるんですがねえ。なるほど、私にとっては非常に意外だったし、それからその、やくざのいろんな、つまり友達に対する見栄があるからこの、金で言うこと聞く女は絶対につれて歩かないとかね。なるほどなるほど、いちいち腑に落ちるわけですよ。それから女性論に対してもね、端倪すべからざる含蓄というかね、奥行きがある。それですごくこの目が開かれた覚えがする。人妻とは全然、それも堅気の商売の人妻とは全然思いませんでしたねえ。

 はあ、はあ。

深作 それでね、なるほど女性の中にはね、そういうこともあるのかなあと。例えていうとやっぱり危害を加えないライオン、危害を加えない虎、これほどこの女性を満足させてくれるものは無いんだと。考えてみたらねえ、男でも同じかもしれませんけれど、やっぱり女性がそういう気持ちになっている方が、らしいですよね

 なるほど。どうですか? 女性としてしゃべってください。

小林 ちょっと難しいですねえ。

深作 やっぱり堅気の方がいいですか、小林さん? そうでもないでしょう? 原さん…

小林 ははは。原さんも相当危ない人ですのでねえ、はい。

深作 かなり、それで、そういう危ない原さんをですね、一生懸命御しながらプロデューサーという役割をなさっている小林さんもねえ、ほらやっぱり猛獣を飼いならしているなという感じが、僕にはするんですけれども…。

 いや、私はあまり危なくないんですが…。

深作(笑)

 いや、ちょっと、すいません。その話とどう切り結んでいいのか分からなくて、もう一回自分の土俵の話をさせてください。ドキュメンタリーとは何なのか? ぼくらが扱う対象は生身の人間ですよね。で実際の現実のこの社会に生きている人間、で撮るこちらももちろんあたりまえですけど、そうですよね。で、ある人間と関わりながら、つきあいながら作品を作っていくときにですね、ドキュメンタリー、つまり僕らの作る映画が決して、真実とかですね…よくドキュメンタリーの定義っていうのは、なんか社会的な真実をどうのこうのっていう、まあそれらしい定義がいろいろあるんですけれども…僕は今までドキュメンタリーをやってきて、ひとことでドキュメンタリーとは何か、そういう言葉ってなにか、やっと最近言えるようになったんですが、「ドキュメンタリーはフィクションである」ってずいぶん乱暴な言い方なんですよね。そういう感じが非常に強いんですよね。

深作 はあ、はあ。

 それで、奥崎さんも、昨日ちょっと触れましたけれども「私は人生大芝居」で、自分は名優である、と。「奥崎謙三を演じられるのは、私、奥崎謙三しかいないんです」って、こういう言い方をするんですよね。で、私も何と言いますか、今まで作ってきた映画が、ジャンルとしてはドキュメンタリーなんだけれども、いや、実はあれは全部フィクションなんだよね、あれは僕らなりの、あれは劇映画なんです、って言いかたを、このごろ僕はストレートにするようになったし、できるようになったんですよ。

で、もうひとつこれが僕にとってはとても大事な問題なんですか、自分がこうやって生きていますね、生きて、欲望というものが、結局は虚構というふうなことを言いましたけれども、生きて映画を作る、で自分が生きたいとする欲望がありますが、で、そのように生きる、それ自体がとてもフィクションだっていう言い方にまでですね、自分の中で、フィクションという言葉に集約、濃縮されてきているという、そういう実感があるんですね。で、そのことと、今監督が仰っている、そのやくざの人がですね、現実のですね、何と言いますかね、それはフィクションと全く逆の事のように今聞けたんですね。やくざの人が実際の先生とか、そういう人に惹かれるっていうのは。その関係を監督ちょっと、うまくお話ししていただけますか?

深作 ええ、今ねえ、原さんもちょっとおっしゃりかけていた、つまりドキュメンタリーはフィクションだと思うようになりつつあるとおっしゃいましたけれども、今のそのやくざの話ね、えー非常におもしろく聞きましたよね。それで我々の常識を覆すところがあるから余計に鮮烈、我々の想像している女性像をも、またひっくり返しているところがあるからおもしろく伺ったわけですが、美能さんが本当にね、ほんとのことを言っているかという補償は何にも無いわけですよね。

 なるほど。

深作 これは美能さんのひとつの願望の現れかもしれない。それで私自身もこういう商売をやっていますから、いま、お話しながら、多少ね、美能(幸三)さんのお話に基づいて多少誇張しているところもあるわけですよ。

 うん。

深作 つまりね、ライオンを連れている女性なんていうことは美能さんは言っていないわけです。今たまたま僕が言っただけの話なんであって。つまり、その核はね、美能さんがおっしゃっているわけです、その人妻の話は。それで人妻を連れるということについての、あるいはやくざに惹かれる人妻ということについての分析というか、私の解釈というか、思いがライオンを連れる女性というイメージにつながっていくわけなんで、そういうことを言い出すと、ほんとうに、ドキュメンタリーとフィクションの境目というのはどんどん無くなっていくわけですけれども、あれでしょうねえ、今早急に結論を出す必要も無いと思いますが、やはり欲望ですか? あるいは願望ですか? それがどういう人間の中にもひとつのフィクションをね、構築する…この媒体、触媒になるものなんだと。だからどういう人も、つまり表現などという軟派仕事を業となさらない方でも、そういうフィクションはお持ちなんだと。というふうに言うべきなのかもしれないですよね。

 ただ虚構のですねえ、その人なりの紡ぎ方にですねえ、実は個性があってですね、言ってみれば、たとえば井上さんならですねえ、ああ井上さんならこういう虚構を作るのかっていうような感じがありますね。そこでまさに個性が見えてくるというか。で井上さんの場合はですね、さっきコンプレックスの話もしましたが、井上さんの、じゃあ人生って一体なんなのかということになってくるんですが、さっき『青い山脈』の話とかですねえ、帝大生と駆け落ちする自分の母親のこととか少しお話ししましたけど、結局井上さんにとってはそういう虚構を紡ぎだすその奥に一体何があるかって、当然僕らも追求したくなりますよね。で僕らが追求したことがそれこそ今の話じゃありませんけれども、それが真実とは断定できませんよ。しかしいちばん、もしかしたらそうかもしれないって僕らが納得している話があるんですが、それは、井上さんがですね、間違いなく4歳の時に捨てられているという事実は間違いなくあるんですね。その後何年かして井上さんはお母さんにやっぱり会いにいっているんですね。で会いにいったときにですね、井上さんはお母さんに拒絶されたということは間違い無いんです。その拒絶されたシチュエーションはまたいくつか物語があって、どれが本当かは分からない。しかし拒絶されたことは本当である。

そうすると2度お母さんに捨てられた。でお母さんとの関係がですね、とっても井上さんにとっては、これは実は谷川雁さんの分析なんですが、お母さんというのはとても人間が、情緒的な部分をですね、構築していくベースになるもんなんだと。それが2度までも捨てられててですね、どうしようもなく欠如している。それを埋めるためにね、いろんな女性と関係を持っていく。しかしそれは所詮叶えられないもんだと。で叶えられないということを知りつつ、しかしそれは求め、求め、求め、求めるもんだと。それがやっぱり井上にとっての一生なんだよね、っていうのがまあ、谷川雁さんの井上光晴論なんですね。で、そうしてくると、その虚構とですね、言ってみればそこでまあ、はじめて真実という言葉を使えると思うんですが、虚構と真実の関係がですね、少しひとつ実態として捉えられる感じがしますよね。

深作 あのう、帝大生と駆け落ちしたとかね、『青い山脈』が出てくるとか、そういうことはあるわけでしょう? いろいろね。学歴の問題も含めて、そうなんでしょうが。まあ壇さんもね、お母さんが檀さんたち3人だったか、4人だったか、兄弟だの、つまり子どもを残してお父さんと別れて、学生と駆け落ちしてしまうというようなことがあって、そのことがかなり檀さんのひとつの創作活動のバネになっていることは確かだと思うんです。で、単純にそれがねえ、女性関係に結びついたかというと、そうでもない、そうでないところが、それだけじゃあちょっとねえ話ができすぎていてつまらないし、『火宅の人』との結びつきなんていうのもねえ、それだけではつまらない。えー後年、お母さんとの関係も戻って、一緒に住んでおられるわけですけれども、それでお母さんが再婚なさった相手の何人かの子どもさんを引き取って自分で面倒を見ていたり何かもしていますからね。

ただやっぱりなんていうのかな…その兄弟たち、つまり檀さんの異母兄弟にあたる人たちの話を聞くと、やはり影響はあった。つまりお母さんに子どもの頃捨てられた。それで母の愛情に飢えていたところから、おそらく出発したであろう嫉妬深さ…やきもちがすごく強かった、というようなことはね、おっしゃっているわけですが、そのやきもちが、この奥さんに向くかというと、そうじゃなくて奥さんの方に向かないでですねえ、愛人の方に向くっていうのもこれまたねえ、檀さんらしいところなんで。

 ああ、なるほどね。

深作 『火宅の人』の場合もそうなんですよね。まあそういうものなのかもしれません。男のやきもちというのはね。女房にはあんまり向かないで愛人の方に向くっていうのは、それは執着の度合いにも当然よるものだろうし。