劇映画から見たドキュメンタリー
原 えー、男のやきもちという問題に関しては、まあこれは『(極私的)エロス』で明日のテーマに持っていくとしましてですねえ、檀一雄、あるいは井上光晴から少しづつですねえ、映画を撮る、まあ僕はドキュメンタリーを撮る人間、監督の場合は劇映画なんですが、映画を撮るという、つまり映画っていう表現は何なのか、というところに少しづつですねえ、僕もよく分かっていてしゃべってるわけじゃなくて、分からないからいろいろしゃべりたいんですが、少しづつ自分を語りたいと。
深作 話さないといかんでしょうねえ? あまり話したくないところもあるんだけど。
原 しかしどうもそこを語らないとですねえ、やっぱり語ったことにならないだろうということがあるんで、少しづつ人をダシにしながらですねえ、正直に自分を語るところまで今来つつあると思ってはいるんですがねえ。さっきもちょっと僕は言いかけましたけどもねえ、まさにカメラを持って、日々まあ他人を描いておりますね、僕らの場合。井上光晴とか、奥崎謙三とか、まあ女を撮ったりします。確かに現実の人間、生身の人間なんですが、それでも日々自分のカメラがですね写し取ってくる映像、ですねえ、えーすごくですねえ、ぼくらの主人公っていうのは演じているっていう感覚を非常に強く持っているタイプの人間たちなんですよね。で、僕の方もですねえ、そういう意識を増幅させるような作り方をするんですよね。
深作 はいはい。
原 で、僕はそういう人物たちを撮りながらですねえ、最近ですねえ、僕自身がカメラを回しているんですが、僕が回しているカメラを僕自身が突き抜けてですねえ、カメラの前に出たいと。僕自身がなんか、強烈にカメラの前で演じてみたいという欲求もまたものすごく強くなっているんですよねえ。
深作 はい。
原 で、その総体としてカメラを持ちながら、僕らの場合、一本の作品がまあ3年とか5年とか結構時間をかけてやるんですが、そんなふうな思いを日々持ちながら、生きている時間それ自体がね、嘘っぱち、という感覚じゃないんですね、つまり虚構を生きている、という感覚ですねえ。で、まさに虚構を生きているという感覚それ自体がまさに生きている実感なんですね。実感っていうふうな言い方するとね。
深作 なるほどなるほど。
原 で、それを確かめるメディアというか方法としては、ドキュメンタリーっていうのは一番自分にとってしっくりくるというか性に合っている、っていう感じはするんです。僕は今まで、ほんとうに劇映画をやってみようという発想をしなかったんですよ。できなかった。で、本当に正直に言いますとですね、たとえば熊井啓の映画の現場で、まあ熊井さんが監督で僕は監督補佐、実際の仕事はチーフ助監督みたいな仕事をするんですけれども、台本をもらって読んでですね、セリフを読みますね。何の抵抗も無く仕事としてはこなしていくんですよね。だけどいざ自分が自分の責任において脚本を作ってですね、一行セリフ書きますね。そうすると本当にこのセリフでいいのか、ものすごく自信が無いんですね。で、そこの自信が無いから、僕は劇映画は撮れないんだろう。で、ドキュメンタリーにこだわるのはそういうことなんだろうという気持ちがあるんですね。
深作 ああ。
原 劇っていったいなんなんだろう?っていう、根底的なところでですね、よく分からないなあという思いを持ち続けているんですよ。ドキュメンタリーなら分かるんですよね。
深作 うん。
原 で、僕は今回深作監督に、この場にぜひ、来ていただきたかったのはですね、深作監督はどうもドキュメンタリーに関心を持っているらしいということが分かったんで、実は、それが一番、真の狙いなんです。それは結局劇映画の監督から見て、ドキュメンタリーとはなんなのか、当然、疑問があるとは思いますが、そこらあたりをちょっと語り合いたいんです。
深作 今おっしゃられたことなんですが、つまりセリフを自分で書こうとするとそれがね、本当にこれはいいセリフなのか? いいセリフというのは妙な言い方なのかな? 自分の描きたい世界の中で一番描きたい真実を語っていてくれる、それが嘘か本当かじゃなくてね。真実を語ってくれているのかどうか。まあそれをいいセリフと言っていいと思いますが、それでいうとどうなのかというと、わたしも自分の映画の脚本を書きながら、思わず知らず興奮して書き飛ばしてゆく、それからまたつかえてどうしようもない、それをまた乗り越えていく。いろんな作業を重ねながら、やっぱり自信が無いんですよ。それで自信が無いということをね、誰にも打ち分けるわけにはいきませんよね。プロデューサーに言うというと妙な心配をかける。まだ決まってもいない俳優さんを連れてきてちょっと読んでくれというのも、これもまた違うし、それでまた単にそれを肉声化してくれたって、それが果たしてその問題の解決になるかどうかは全然別ですからねえ、そこでのた打つわけですが。それで自分でその虚構を描きながら、虚構でいいんだと思って劇映画を撮っているにもかかわらず、これでいいのか? これでいいのか? あまりにも嘘過ぎやせんか? ご都合が良すぎやせんか? もっともっと面白い人間になるべき…なるはずなんじゃないか? 僕の、人間を見る目が甘すぎるんじゃあないか? いろんなことが気になりだすと、何も撮る気も書く気もしなくなるわけですよね。それでドキュメンタリーを見る、こ全然別な、ね。そうするとね、なんていうのかな、その前になんぼなんでも嘘過ぎやせんか、さっき嘘八百うんぬんというようなことを言いましたけれども、それは自分がドラマを作りながら、この中でこの作りものも俺は作っているんだというようなことも、きっと間違いなんじゃないかというようなことね、取り組み方の。だから別な土俵を設定しないと、今この突き当たっている疑問は解消されないんじゃないか、ということを何度か考えたことがある。それでまあ、昨日写したばかりの映画で『軍旗はためく下に』がありましたけれども、これもリアリズムをね、リアリスティックな、ドラマとして戦争というものを取り組んでみたいと思ったことがあるわけですが、ニュース映画というよりは報道写真ですね。報道写真をずいぶん撮っているわけです。それで報道写真を撮っているときにはですねえ、すごく安らかなんですよ。楽しいし。
原 ええ、ええ。
深作 僕は俳優さんとはねえ、劇映画の監督としては俳優さんとつきあうのが楽しくて当然なのに、それを撮っている時にはね、『軍旗〜』を撮っているときには、ほんとうにね、俳優さんとつきあうのがだんだんだんだん苦しくなってきて、それで、この写真を撮っている時だとすごく楽しかった。
というのはですねえ、私自身がこれは昨日正直に申し上げましたけれども、戦争を体験してないわけですよね。戦場を。内地の銃後の戦争は体験していますけれども。空襲とか、逃げ回るとか。戦地での戦場は体験していない。だから想像力を働かすしかない。そうすると、これでいいのかということもあったり、それからいろんな俳優さんもまたみんな戦争を体験したことの無い人ばかりなんですよねえ。これでいいのか、これでいいのか、というような疑問で苦しくなってきて、しまいには八つ当たりですなあ、あなた、よく芝居ができるなあとかね、丹波哲郎とか三谷昇とかねえ江原真二郎とかをとっ捕まえて、こらもう言いがかりですよね、もうこうなると。知らないことを良く芝居できるねえ、あんた、みたいな。
写真は余計な芝居はしてくれない。しかも写っていることは間違いなく、それはたとえば死体なら死体なんですけどね。死骸のまねをしている、俳優さんが死骸のまねをしているわけじゃない、その重さというのはやっぱりある。それがねえ、すごく『軍旗はためく下に』を撮っていて辛かった覚えがあって、それがねえ、ドキュメンタリー志向の始まりだったかなあと。
原 はあ!はあはあはあ…
深作 だから、その次の『仁義の墓場』にも、それが尾を引いていて、子どもの頃の写真なんかが出てきますでしょ? あれは渡(哲也)君にですねえ、子供の時の写真を持ってきてくれと。借りて撮ったのもありますけれども、ぎゃあぎゃあ泣いている写真なんか撮るわけないから、残っているわけ無いから、あれは別な子どもの写真ですよね。とりあえずその写真でいこうと。もうそこから始まると。つまり任侠やくざとか、そういう作り物の世界とは違ったね、なんとなく実在したやくざにふさわしいこの世界が構築されるんじゃないか。これもあてどないフィクションの中でのたうっていることの、ひとつの試行錯誤だったんですけれども。それでまあ、原さんの作品なんか観るでしょう? そうすると先ほどおっしゃったように、その人物が、実在した人物が自分に扮して自分のせりふをしゃべっているわけですよね。少なくともそれは原さんの書かれたセリフじゃないですよね。ご本人たちのセリフな訳で。いろんな表情やセリフにしても、まあ奥崎さんに言わせればねえ、お芝居には違いないけれども、俳優さんがやっているお芝居では無いわけですよね。そこに荻野目くんという俳優がいるからちょっと具合が悪いんだけれども、違う違うと言うと、そんな自信の無いことでね、あなた監督なんかしているのかと。いつか現場で食ってかかられたことがあるけれども
原 ああ、そうですか。
深作 それはフィクションを作っていると、完全なフィクションなんかあり得ないんだよ、なんて理屈にもならん理屈を言ってすり抜けた覚えがありますが、だから俳優さんを信じていないとかね、監督はあまりそういうことを言っちゃあ、この先の商売に差し支えるんですが、そういうようなことにですねえ、ふと自分の足が戸惑ってしまうというようなことは、ドラマばかり撮っている今までの中であったと。そうすると、ああドキュメンタリーを撮りたいと言っても、これは単に自分の想像力の不足を補うだけのねえ、逃げ場をさがしているのかな、俺は、と。と言うと、またつまらなくなったり、必ずしもそうでない、そればかりではない世界がねえ、ドキュメンタリーの中にはあると。その世界にはあると。まあ、となりの芝生が青く見えるということに類するのかもしれませんが、必ずしもそればかりではないひとつの世界がそこにはある、チャーミングな世界がある。
それでそこから先にですねえ、いろいろ撮ってきた映画を、映像をつなぎ合わせていくところで、自分のフィクションは始まるにしても…それで始まると思うんですよ。編集という段階でね。そこで疑いもなく原さんという人間はそこでまた出てくると思うんですが、やっぱりその描く対象と、その撮った監督との一番望ましい関係といいますかねえ、信頼できる関係といいますかねえ、それは、そういう結びつきかなあと思わないでもないというところがある。だからドキュメンタリーへの僕のあこがれというのはねえ、そういうところがまあかなりある。それは考えてみたら自業自得みたいなところがあって、たとえば任侠映画は僕は嫌いだと。任侠美学に基づいた、あんな嘘っぱちの世界は嫌いだといいながら、別の嘘な世界をやってきたわけでしょう? それで本当らしく見せるためにというか、手持ちカメラで云々ということも昨日申し上げましたが、そんなことは、技法の策なのであってね、ええ。
原 うーん、しかし、まあ、ジャンルとしてドキュメンタリーをやってきた側から言いますとね、ドキュメンタリーって生身の人間を映し、しゃべっているひとは一応まあ本人がしゃべっているわけだけど、しかしリアリティのないドキュメンタリーもまた多いんですよね。リアリティをほとんど感じられないドキュメンタリー。じゃあリアリティって一体なんなのかって出てきますよね。それで監督のやくざ映画を僕らは支持して熱狂したのはリアリティをやっぱり感じているから支持するわけですよね。
深作 なるほど、それはありがたいですねえ。
原 それでリアリティの感じられないドキュメンタリー、つまり本物の人物を撮り、実際の社会の中で撮れば全部がリアリティがあるかっていうと決してそうじゃないんですよね。つまりたとえば僕は、『さようならCP』という一本目の僕らの映画です。で、それを撮る前にですね、実は一番分かりやすいんですが、障害者映画、福祉映画っていうフィルムがですね、もうほんとに山のようにあるんですよね。で、どれも嘘じゃないか、それこそ、悪い意味でですね、否定的な意味で全部嘘だって僕らには思えたわけですね。
深作 なるほど、なるほど。
原 ドキュメンタリーにもかかわらず。で、それを嘘だっていうのは…何かっていうと、とてもフィクションなんです。全部が。それは撮っている側が、撮られている世界というのはもちろん撮っている側の反映というか結果ですから、撮る側の人間が、ある観念でもってしか世界を見ていないと。だから、嘘というよりも信じられないっていうか否定すべきフィクションなんですよね。
深作 うん、うん
原 だから、否定すべきフィクションと、で僕らが新しく作り出したいリアリティのあるフィクションとの、まあいってみれば相克というんでしょうか? そんなふうに思う。そんな風にいえば少しは分かりいいかもしれませんね。
深作 そうですね。それはそう。原さんはドキュメンタリーを作られる。またそれにこだわってこられたことからリアリティのあるフィクション、あるいはないフィクションということをおっしゃられたんでしょう。それは確かに劇映画ばかり関わってきた私にも同じように、リアリティは当然ありますわな。劇映画は、もっともっと端的にそれが出てくる。リアリティの感じないフィクション、リアリティの感じられるフィクション。まあそれを、鍵をリアリティという言葉でくくっていいか、これは別問題ですけれども、そう、それはありますね。