“男女の関係” がリアリティを作る!?
原 それでねえ、じつは監督、明日、監督に聞こうと思っていたテーマをですね、今聞きます。非常に聞きにくいことを聞きます。あのですねえ、まさにエロスの問題と関わってくるんですがねえ、今村昌平っていう映画監督とですねえ、浦山桐郎という監督がいるんですよね。で、僕は浦山桐郎という監督の助監督を一本だけやったことがあるんですよ。で、そのときにですね。浦山さんはですね、こんなことを言っていたんですよ。浦山さんはね、女優とね寝ちゃいけないんだ、っていうセリフを言ったことがあるんですよ。で、それはですね、イマヘイさんに対するひとつの、浦山さんの批評なんですね。で今村昌平っていう監督はですね、とてもモテる監督なんですよ。実際に、いつか直接今村昌平に僕は聞いてみたいと思っているんですが、これは浦山さんからの話なんでね、本人に聞かせればまた違うかもしれませんが、今村昌平というのはまあ女優と寝ると。性的関係を持つと。で、その役者の肉体という問題を立てたときに、監督と役者、男優はまあちょっと置いておいてですねえ、監督が男の場合、女優さんは女ですねえ、性的関係という可能性が絶えずある。で浦山さんが、女優と寝ちゃいけない、というふうに言ったんですね。だけど、それでしかしこれに裏がありましてですねえ、浦さんはですね、残念ながら女優にモテなかったらしいと。ほんとうはやりたかったんだけど相手にされなかった、と言うのがあるんで、そのセリフをどういうふうに聞いていいのか、またちょっと混乱してくるんですけどね、実際に寝たケースもあるらしいという噂を最近聞いたんでね、またそのセリフもフィクションなのかという問題になったりして、ややこしいのですが、一応その問題の立て方として、その性的関係を持つことによって、役者というか女優さんが芝居を要求する時のね、なんというんでしょうか、監督の持っているあるイメージを伝えて、演じてもらいたいイメージがありますよねえ、伝えますねえ、それでやってもらう、そこのプロセスにおいて、その性的関係があることの方がよりリアルにですね、伝えていけるということはあり得るのかどうか?
深作 どうでしょうねえ。それはねえ、全くね、それを注文する監督の、ドラマの作り方、それから注文を受ける、今の場合は女優さんですね、女優さんの芝居の作り方…。
原 と関わってくる…。
深作 それに関わる問題なのであって、寝ちゃいけないとかね、寝るべきだとか、べきだっていうのもこれはまた変な話だし、そこからね、また新しいなんと言うのかなあ、ドラマの創造が生まれるのかどうかというのはね、これは全くこの…。
原 別問題!
深作 別問題じゃあないでしょうかねえ。
原 別問題ですか。じゃその別問題というのを別にしておいてですね、私は二本目の、あした上映される映画がですねえ、『極私的エロス・恋歌1974』。かつて性的関係があった女の映画なんですね。で、映画を前提にしたつきあいじゃありません。しかし、あるふたりの恋愛感情がピークになって、まあ彼女は独立志向といいますか、自立していこうとした。で離れたもののまだまだ引かれあう気持ちが残っていたんでしょう。女の方から映画を撮って欲しい。こっちもまだ引かれている部分がきっとあったんでしょう。じゃあ撮るよといって映画をスタートさせた。映画を撮るという関係において、男女の関係がその後何年か続いていくという、そういうシチュエーションで成り立った映画なんですね。
だから監督と女優という関係をですね、なんと言いますかね、男女の関係とね、別に映画ということをとりあえず外す、しかしカメラを通した関係、映画という環境におけるひとりの男と女の関係の在り方としてね、いったい、そこの男女の関係の持つアリティというか、さっきからリアリティという言葉を言っていますが、でも僕らがいつも非常に求めているのがリアリティ、リアリティということでしょう? 要するにいつも大事にしたいのはリアリティを追求したいとか、本当にこれはリアルなものかどうか。そのリアルを追求する時に、えーちょっと僕もどう言って説明していいかがかなり混乱しているんですが、しかしね、僕は迷っているのはまさにそこなんですよ。そこのところが解けないもんだから、ずっと、この一年間、悶々と悩んでいるんですけどね。ええ。
深作 ええ…まあ。
原 ちょっと、非常に難しいなあ。
深作 ちょっといいですか? まあ『極私的エロス』のお話しになりますが、男と女の、あの映画を拝見しながらね、男と女の関係としては拝見できなかったわけですよ。
原 ほう…
深作 結果としては、男と女のひとつの帰結としては、あるなと、それで結局、出産の場面に集約されていく、この男と女の関係ということではあるわけですが、出産の場面というのは男と女のね、ひとつのドラマの帰結というよりはですね、それが新しくね、男に女性の側から出産という非常にドラマティクな状況を通しての、形を通してのね、いろんな意見と言いますかね、異議の申し立てであったり、ある受容というか許容というか許しであったり、そういう意味でのドラマは感じました。求める形ではなくて、帰結として絶えず提出されていたと。例えばあの中で、武田君と言われましたか、取り上げて、なんだかんだのせいで、産湯をつからせながら、ふとあなたの方を、カメラの方ですね、カメラを持っているあなたの方を見て「原くん」なんて言うんですよね。それで唯一映画の中ではね、彼女がコケティッシュな目使いをしていた。そういうところで思わず、はっとされる場面、例えば、いろんなことを感じたわけですけれども。それは、だから、男と女のドラマをあの中で描かれていたかというと、また描く方もそのつもりが必ずしもなかったんではなかろうかと思うぐらいに、それは感じなかった
原 うん、うん。
深作 ということと、もうひとつね、今監督と女優さんの問題になっていますが、男と女のドラマというのは当然、その脚本に基づき、それを演ずるのは当然俳優さんですわな。男優さんと女優さんですよね。そうするとこの男優さんと女優さんというのはね、その台本に基づいたひとつのこの性的関係があった方がいいのかどうかという。これはちょっと論外でしょう。
原 ただね、井上さん。つまり井上さんが自分の作品を書いていくときにですね、もちろん全部が全部、実人生をですね、虚構化していった作品ばかりだとは言いません。しかし何らかの形でリアリティのあるもの。で、一番リアリティのあるものというのは自分の体験したが一番リアリティがあるといえますね。自信を持って描けると。で、僕はお聞きしたいのはですねえ、作品に込めたいと、ほんとうにまあ深い部分から表面的な部分まで監督としての生きざまというのがありますねえ。いろいろな欲望を持っていますが、その欲望を作品に込めますわねえ、これはもう本当に基本的に。そのときに、どういうふうに込めていくのか、と言うことなんですよ。それを自分の欲望といった場合に、自分の欲望とか権力の欲望とか実にいろいろありますよ。で、一番おもしろいのが男女の問題なもんですから、それに絞って今は話を進めているますが…。
深作 ええ、ええ。
原 自分の実感。で自分のそういうリアルな感じ方をですねえ、なんと言いますか、映画の場合、井上さんの場合ちょっとまあ別の角度から説明しますけれども、井上さんは自分は嘘八百を書いていきたいというふうに映画の中でも言っています。自分は虚構に生きたいと。言っておきながら井上さんの作品の、全部をあれは私小説なんだよねえっていう言い方をする人もいるし、僕らもそう感じるんですよね。そこの問題が、映画監督にとっては作品と自分の、まさしく生身の部分の関係はいったいどうなのかということをお聞きしたかったんです。
深作 分かりました。あのねえ、私自身のね、経験というか、あれからすれば、現実に進展していく関係、その映画の中でこの私は監督だから、ある女優さんと、監督と女優さんとしての関係は否応なく生まれてきますよねえ。
原 うん、うん、ありますね。
深作 それが性的な関係を孕むかどうかというのはちょっと置いておいて、それ以前に脚本というのが、ほとんどそうでないのもありますけれども自分で書いている。それから他人の脚本を読んで、それを自分なりに解釈しますね。そしてそれを映像化の段階でいろいろスタッフにも俳優さんにも注文したり、キャスティングそのものにも自分のなかで、この役はこの人がいいんじゃないか、いやこっちの人がいいんじゃないかとないかといろいろ迷っていく。その迷うポイント。あるいはその脚本を書きながらですねえ、やくざ映画を書きながら、ある男と女の関係を定着させていくときの、なんというのかな、バネというのか、それは、もちろん耳学問はあります。聞いた。取材して歩く。さっき美能幸三さんにいろいろ聞いたかたち、とか、しかしそればかりではなくて、一番濃密に男と女の関係が自分で自信を持って描けるというのは、自分が経験したことですよね。
原 そうですね。
深作 何十年も前に、いや、それは去年かもしれないし、5年ぐらい前の過去のことかもしれない。で、もっと先のことかもしれない。いろんなことの記憶がね、僕の中にたくさん、まあ発酵しているわけですよね。ためこまれて。それがある場面に、ある場合に突然ふと、ほとんど必然的に飛び出してくると言いますかね、それで、あの話はいい話、いい話というか、自分の過去の経験をいい話というのはおかしなことだけれども、例えばいい話だ、これ使ってやろう、いや、もっと取っておこうとか、それがふさわしくないからこれはキャンセルだとか、やっぱりいろんな恥の上塗りをしてきますよね。生きるということは、それでその恥の記憶さえも、甘い昨日の喜怒哀楽のドラマではないけども、ほとんどが僕の中であるのは喜と楽は無いですね。怒と哀の積み重ねしか記憶の中に残っていない。怒りと悲しみしか。そしてその中では、自分自身が受けた裏切りとか悲しみではなくて、人を裏切ったことの後ろめたさがかなり大きく残っているから、例えば、なんと言いますかね。関西の言葉でぐず悪いと言いますかね、そういう記憶というのが研ぎすまされてきて、研ぎすまされているというとちょっと格好良すぎますな、貯められてきて、発酵してきたときにはじめて描けるようになるわけで、生な形としてはとっても描けないですよね。例えば昨日今日できた女性との関係なんていうのは、とてもそれは、僕の場合にはものにならない。生すぎて。
原 はあ。そうですか。
深作 つまりある一定のね、期間を経ないとうまい酒にならないのと同じことで、僕の場合には使えないわけですよ。そうするとですね、監督と女優がある作品を通して、形の中でできる、つまり関係が生まれる、異性の関係が。それを否定はしないし、そのことによってね、きっと芝居の質が変わってくるということもあるのかもしれないし、それからまた、なんていうのかな、監督がある苛立ちといいますかね、どうしても捉えきれない、全人間を捉えたいと思いますからねえ、監督というのは。女優さんは女優さんで全人間を捉えたい。つまりは、捉えたいというんじゃないんだなあ、描けないのは全人間を捉えていないから描けないんじゃないかというようなことをまた考える。
原 はあ。
深作 イマヘイさんがどういう捉え方をなさるか分からないし、浦ちゃんがどういうふうにそれをのたうったのか知りませんよ。知りませんけれども、きっとドラマに、つまりキャスティングしたときにはですね、このドラマのためにこの女優さんは、ほんとは男優さんもいるわけだけれども、女優さんは最高だと思ってしたわけでしょ。それが現実に現場に入るとうまく行かない。こんなことは常識ですよね。うまく行かない理由も一生懸命探しますよね。それでこっちがこの発する注文は全部観念的なものですよね。言葉を通すから。そうすると、ますます苛立ってくる。なんかこっちの注文がね、言葉を通しているからいけないんだと。言葉でない関係ができればね。もっと…ところが人間そう簡単なもんじゃありませんからね。女房だって空気みたいな存在になるためには何十年もいるわけで、それは人によると思うけれども、男と女が、ある関係が成立したからといって、すぐうまい酒になるはずのもんではないし、今のドラマの例に即していえば、次の日、目から鱗が落ちたようにですね、その関係故に、その女優さんの芝居がですね、うまくなるとは僕はとても信じられないし…。