記録映画界の雄・小泉修吉さんが2014年11月12日に亡くなられた。「長い間おつかれさまでした」という言葉とともに、ご冥福をお祈りしたい。小泉修吉はドキュメンタリー映画作家であり、グループ現代の会長、民族文化映像研究所の事務局長としても知られている。60年安保の学生運動、記録映画社時代を経て、映画同人「グループ現代」を設立後は、『農薬禍』(67)、『老いる―5人の記録』(79)、『自然農』(95)といった農村を舞台にしたドキュメンタリー映画を撮り続けた。
また、映画プロデューサーとしての世評も高く、グループ現代を活動の場として、近年も『サワダ SAWADA』(97)五十嵐匠監督、『六ヶ所村ラプソディー』(06)『ミツバチの羽音と地球の回転』(10)などの鎌仲ひとみ監督作品、『森聞き』(10)柴田昌平監督などの作品があり、次々とドキュメンタリーの話題作を世に送り出し、潮流を作り出してきた仕掛け人であった。(「neoneo」本誌01号に掲載したインタビューを、追悼記事としてここに掲載する)。
『農薬禍』とグループ現代
――早稲田大学のロシア語科を卒業した後、上野耕三の「記録映画社」に入ったそうですね。記録映画社は、農村教育用の教育映画やPR映画を作る制作会社ですね。
小泉 私は全学連の学生運動をやっていたので、大学を出たときはもう29歳になっていました。そのときには60年安保の学生運動は潰れており、就職もできなくて何かないかと探していたら、記録映画の助監督のバイトがあった。上野耕三さんのところで働いたんですが、頭でっかちの学生運動家が実際の人々の暮らしの中に初めて飛び込むわけですから、おもしろかったですね。当時の記録映画は今と違って助監督が3人もいて、ファースト、セカンド、サードと階級制があって、私は一番下のサードでした。記録映画社にいたのは1年半くらい。学生運動あがりで生意気だったので、苦節10年で監督になるみたいな徒弟制度に反発を覚え、「映画作家だと名乗ってしまえば、それで作家なんだ」という考えを持ちました。
1年半いたら、記録映画社で監督作品を撮るチャンスが巡ってきました。短編のPR映画で、八王子の織物工場で少女たちを募集するための求人映画でした。それだけではつまらないので、少女たちの日常を描き、脚本はポール・ローサの『ドキュンタリィ映画』を訳した厚木たかさんに書いていただきました。当時はドキュメンタリー映画という言葉がなく、文化教育映画と呼ばれていましたが、讀賣新聞で「ここには紛れもない青春のリリシズムがある」という記事が出て、密かにほくそ笑んだ記憶があります。
――67年に「グループ現代」を設立したということですが、その経緯を教えて頂けないでしょうか。
小泉 その後フリーの助監督になって飯を食べるようになりました。そのうちに若い人たちが集まって自分たちの作品を作ろうという主旨で、記録映画を志す文学同人ならぬ映画同人を作ることになったんです。大学時代の後輩でカメラマンの平福貞文、記録映画社にいたカメラマンの岩永勝敏ともう1人、鉄道マニアの人も加えて4人で「グループ現代」という名前で始めました。何か特定の理論や運動を目指すのではなく、1人1人が持っている作家としての能力を発揮する場を作ろうという狙いです。だから、誰か志があって映画を作りたい人がいたら、みんなでそれに協力し成立させようという同人ですね。平福貞文がサラブレットの馬を撮りたいというので、最初に作ったのが『パナソニック―サラブレッド六歳の記録』(66)という短編映画でした。
――同じ67年に『農薬禍』を自主制作で監督しています。『農薬禍』はレイチェル・カーソンの『沈黙の春』に触発されたそうですね。長野県の南佐久郡で取材して、特に佐久総合病院の若月俊一院長の協力があったそうですね。
小泉 私は社会的な問題や環境問題に関心がありました。次に何を撮ろうかというときに、私が手をあげて撮ったのが『農薬禍』です。63年にレイチェル・カーソンの『沈黙の春』の日本語訳が刊行されたのを読んで、衝撃を受けました。この本はアメリカに象徴される現代文明の問題について書いた思想書でもありましたが、それでは日本はどうなのかと省みるようになった。当時は水俣病が大きくクローズアップされており、土本典昭監督が水俣病のシリーズを撮りはじめた頃です。あるとき信濃毎日新聞に、長野県の佐久総合病院の若月俊一院長が農薬被害について調査研究をはじめた、という小さな記事を見つけました。グループ現代の後援者で、私が師事していた脚本家の古川良範さんが若月院長の知り合いでした。古川さんは佐久病院で農村医療に関する社会教育映画の作品をすでに作っていたんです。
古川さんと平福君と信越線の小諸駅からバスに乗り、佐久総合病院の若月院長を訪ねました。若月先生は協力しようと言い、寮の空いている部屋へ住ませてくれた。これが大きかったです(笑)。それから食券をくれて、職員食堂で食べていいと言いました。これで映画は半分できたようなものでした。カメラは16ミリフィルムの報道ニュース用のフィルモというカメラで、25ミリレンズが1個ついているだけで、ゼンマイを巻いて30秒しか撮れない。自主制作ですから自分たちが働いて稼いだお金で作るわけです。半年間、毎月南佐久郡へ通い、毎回1週間から10日は滞在したので、延べ2ヶ月くらいの撮影日数だったと思います。編集録音する仕上げの資金は後にグループ現代を一緒に立ち上げたプロデューサーの西原春人さんが出してくれました。
――『農薬禍』は農民たちが受けている農薬の害の驚くべき実態を、丹念に解き明かしていく巧みな構成になっています。グループ現代のカラーを決定づけた1本なのではないでしょうか。
小泉 僕は都会育ちだから、初めて農村へ入り、その場所の現実に曝される中で、見聞するものの多くが新しい体験でした。テーマに関しては勉強もしましたが、とにかく農村の中に入っていき、その場所のリアリティを映像に忠実に記録しようとした。それまでの記録映画は構成を先に考えて、それを語るために撮りにいっていたのですが、僕はまずは撮りに行こうというスタイルでした。そうすると様々なことを現場で体験しながら、撮るものが段々と深まっていく。もう1つの持論は、ラッシュを何度も見るということです。映像をよく見て、映像と対話し、映像のすべてを自分の体のなかに入れる。編集するまでに、ラッシュを5回も6回も見るんです。若くて体力があったからできたのかもしれませんが、そうやって僕は記録映画の作家として出発したわけです。
――EPNや有機リン剤による農家の人たちの健康被害、あるいは農薬の散布中に倒れて亡くなった小林さん、同じく四肢麻痺になって亡くなった古沢さんの実例などが映画では報告されます。農家の人たちも農薬の恐ろしさを知ってはいるが、だんだんと虫が薬に強くなり、見かけのいい野菜を作って都会の人たちに売るために仕方なく農薬を使うという構造も見えてきます。
小泉 院長の若月俊一さんは農村に入って農村医療を進めるときに、患者さんを治療するだけではなく、環境自体を変えないと病気は良くならないと考えたんです。それで農民たちを啓蒙するために、最初は劇団を作って自分で台本を書き、重労働で手が強張ってしまう健康被害の話とかの芝居を作り、村々へ巡回治療するときに上演活動もしていった。そして時代が変わり、60年代の後半にはメディアを芝居から映画へ変えて、フィルムを導入していたんです。実は佐久総合病院のなかに映画部があり、彼らは自分たちでも16ミリフィルムを回していました。僕はその映画部の人たちと協同して映画を作ったんです。農村における農薬の構造が見えたのは、バックに佐久総合病院の支援があったことが大きいのではないでしょうか。たとえば、患者さんが亡くなると病院に連絡が来ます。医師がすぐに飛んでいきますが、そのときに「一緒に来るか?」と聞かれます。病院の人が行ってご家族や関係者の人にお願いすれば、撮影の許可が得られるんですよ。そういったものは、都会からきた若造がすぐに撮れるようなものではありません。