【ドキュメンタリストの眼⑫】追悼・小泉修吉(記録映画作家、グループ現代)text 金子遊

自主上映運動、民族文化映像研究所

――その後に『ある村の健康管理』(69)、『農薬の慢性中毒実験』(70)と製作、監督作が続いています。

小泉 文部省の社会教育の一環としてやっている教育映画配給社というところがあって、私が農薬問題の記録映画を作っていると聞きつけ、企画を持ってきたました。『ある村の健康管理』はグループ現代と教育映画配給社との共同制作の映画です。この映画では、佐久総合病院の先駆的な地域医療を撮っています。山村の無医村に入って、そこで人々の健康診断をして管理し、それを年間通じて行う。それをドキュメンタリーというよりも、社会教育映画として記録しました。教育映画祭の最高賞をもらいましたね。『農薬の慢性中毒実験』は、純粋にグループ現代の作品です。『農薬禍』のラストシーンは農薬の慢性中毒実験がはじまったところで終わっています。その実験で何が行われたのかを追跡したのがこの映画です。

『農薬禍』はスポンサーのいるPR映画ではなく、社会教育映画でもなく、純然たるドキュメンタリーとして作りましたが、その時代、ドキュメンタリーを上映する場所がどこにもありませんでした。試写会をやっても誰も見に来なかった。そこでメディアの力を使おうと思って、朝日新聞の記者に手紙を出し、会社の前で待ち伏せしました。それで記者の人が見てくれることになり、東映の試写室を借りました。映画を見たあと、朝日新聞の記者は感想もいわずに帰ってしまった。これはダメかなと思っていたら、2、3日後に電話があって記事を書いたから見てくれと言われました。

小さな記事でしたが、当時の朝日新聞の文化欄の記事には社会的な影響力がありましたね。『農薬禍』を見たいという人たちで、電話が一日中鳴りっぱなし。そこで、現在のグループ現代がやっているような自主上映という発想になったわけです。地元の教育委員会とか図書館に16ミリフィルムの映写機があるので、それを主催者に借りてもらい、そこへこちらからフィルムの貸し出し料をもらって送るという形態です。農協の婦人部からの問い合わせが多かったです。農村で働く女性にとって、農薬の害は切実な問題で、全国の連合会が取り上げて上映活動をしてくれました。世界救世教という新宗教が戦前から有機農法をやっていましたが、そこが8ミリフィルムにしてくれれば買うというのでプリントを作りました。段々と上映活動が広がり、その収益で映画制作の借金を返したら、手元に当時のお金で30万円残りました。当時では何百万円という大金です。そのお金で映画同人グループ現代を株式会社グループ現代にして、製作会社にしようということになったんです。

――68年~70年には姫田忠義の監督作品『山に生きるまつり』の取材に同行し、製作を担当しています。76年に姫田さんと一緒に「民族文化映像研究所」を設立していますね。

小泉 グループ現代の事務所は、新宿の6畳一間のアパートでしたが、いろんな若い才能が集まってきました。その頃、記録映画社時代からの友人であるカメラマンの伊藤碩男君が構成作家の姫田忠義を紹介してくれました。彼らは民俗学者・宮本常一のお弟子さんでした。日本観光文化研究所というところで宮本先生が所長をやり、若い人たちが「歩く・見る・聞く」という雑誌を出していた。宮本さんは日本の稲作文化以前の山の民の暮らしに注目していて、北九州にすばらしい山の民の祭りが残っているから記録しないかと言ってきました。猪を飼い、その首を神に捧げて、ひと晩中舞い続けるという祭りです。

僕には『農薬禍』で農村に入って日本の原点を見るという体験があったから、その企画に惹かれました。それで一緒にやることになり、グループ現代の中に姫田忠義、伊藤碩男、小泉修吉の3人で「日本文化のふるさとを記録する会」というのを民俗学的な映像を作る集団をつくり、『山に生きるまつり』を製作したんです。姫田忠義さんが交流のあった二風谷アイヌの萱野茂さんの申し出を受けて、『アイヌの結婚式』『チセ・ア・カラ―われらいえをつくる』(74)という映画では、アイヌの生活文化を記録しました。特化した方がいいだろうということで、民族文化映像研究所を立ち上げ、姫田さんが所長、僕は事務局長、伊藤碩男さんが技術部門の責任者になった。アイヌのイヨマンテの儀式や農村の焼畑文化など、民族文化映像研究所では100本以上の作品を作りましたね。

 

林竹二記録・授業シリーズ

――77年に2本の林竹二記録・授業「人間について アマラとカマラ」、「人間について ビーバー」を撮り、78年には記録・授業「開国」があります。監督は四宮鉄男さん、小泉さんは製作・企画・構成です。どうしてこの教育哲学者・林竹二さんを追うことにしたのでしょうか。

小泉 グループ現代は、若い記録映画の作り手たちに場を提供するということで、いろいろな人が出入りしていました。ある日、岩波映画にいた四宮鉄男が、林竹二の『授業・人間について』という著書を持ってきて、これを映画にしたいと言うんですね。いま流行の対話型や参加型の教育論とは違い、林さんの授業は子供にきちっとした論理や理性で教えるところが独創的に思えました。だから、林さんの授業では子供が手を挙げると、その子を徹底的に問い詰めていく。これを授業の現場でドキュメントしようということになった。僕と四宮鉄男、それにグループ現代で仕事をはじめた脚本家の惚川修、学生時代から知っている三木実に加わってもらい、4人で「映像と教育を考える会」を結成。交通費やフィルム代など製作資金はすべてグループ現代でもちましたが、スタッフのギャラまでは払えませんでした。

羽仁進さんに『教室の子供たち』(54)、『絵を描く子どもたち』(56)という有名な記録映画あります。あれも16ミリフィルムですが、羽仁さんは子どもたちにカメラを意識させないため、撮影の前からフィルムを入れないでカメラを回して慣れさせたという逸話があります。僕たちはどうしようか、と考えた。僕たちは4台のカメラで、記録の同時性に賭けようということになった。カメラは時には暴力的なものになりますが、果たして4台のカメラが教室に入り、子供たちの自然な姿を撮れるのかという疑問もありました。変な理屈ですが、僕たちがいてカメラが4台あって、そこで林さんが話しをするということ自体が、ひっくるめて授業の構成であると考えることにしました。僕たちも一緒にその場所で林さんの授業を受けるということです。

あの時期は同時録音になっており、400フィートマガジンにフィルム1本を装填すれば、10分まわせた。フィルム交換には3分かかる。ですから、4台のカメラが必ず回るように時間差をつけました。次にそれをどうやって上映しようかと考えた。4台のカメラで撮影し、録音したものを丸ごと編集しないで繋ぎ、1台のカメラあたりに1本ずつ、映画フィルムを4本つくりました。それらを同調させて、4台の映写機を使い、4面マルチスクリーンで上映するという形態でやりました。そうすると、映画を見る観客が、その映画が撮られた現場に見ることによって参加することができるのではないか、という理屈です。4面マルチスクリーンで同時に上映していると、人間には限界があるので、どこかの部分を選択的に見ざるを得ません。観客が4台のカメラで撮られた映像を見ながら、自ら見る行為のなかで編集をすることになる。1人1人の観客が、それぞれの映画空間を体験するだろうという考えです。

上映は公会堂やホールなどの公共施設を使いました。4面マルチで上映できる設備はもちろんないので、組み立て式のスクリーンを鉄骨で作りました。それを林竹二さんの講演付きで、全国で巡回上映をしていきました。ワゴン車を買って、スクリーン一式と16ミリ映写機をいくつか、それにシンクロシステム、スピーカーとアンプを載せて、東京から静岡や名古屋、九州まで行って裏日本をまわって帰ってきた。それを一通りやったところで、四宮鉄男に編集をやってもらい、いま見られる形になっている『林竹二記録・授業』として1本の映画にまとめてもらいました。

――そのような撮り方にしては、子供たちの表情が自然ですね。

小泉 4台のカメラの位置は決めてあるけれども、カメラマンには「授業に参加しながら、その時々に撮りたいものを撮ってくれ」と言いました。そして、いったんシャッターを入れたら止めないで10分間フィルムをまわしきってほしいという条件をつけました。子供たちのよい表情を狙うのではなく、授業に参加したカメラマンの体験を映像化してもらいたかったのです。今のビデオの撮りっぱなしのカメラマンと違い、相当戸惑ったみたいですね。フィルムのカメラマンというのは、決められた一定の尺のなかで決定的瞬間を撮ろうとするものです。しかし、ドラマティックなものはいくらでもあるでしょうが、果たして本当にシャッターチャンスなどというものがあるのかという疑いが僕にはありました。

林武二記録・授業シリーズ(77)

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