【連載】「視線の病」としての認知症 第10回「視線の病」に気づく text 川村雄次 (NHKディレクター)

翌朝、私は南波たちに自分の考えたことを話した。あまりに多くのことを言おうとしたので、どれだけ伝わったか分からないが、自分たちが持っている「認知症らしさ」の既成概念にあてはまるようなものを探すのをやめ、クリスティーン自身がやろうとしていること、彼女が無理をしてでも挑戦しようとしていることを、ひたすら見つめようと提案。それでやってみることになった。 

この日クリスティーンは、車で1時間ほど行ったブリズベン市内にあるクイーンズランド州議会議事堂に向かった。ここで開かれる、オーストラリアアルツハイマー病協会の新しい支部の設立を祝う式典で講演する予定だった。私は南波たちに、彼女の「挑戦」を見つめる好機として捉えようと声をかけたが、クルー全体の気分がすぐ撮影に前向きに切り替わったわけではなかった。

式典は、州知事挨拶に始まって、アルツハイマー病協会の人や医師などの講演が、午前中から夕方まで続く。その中でクリスティーンは、オーストラリアで初めて「私は認知症である」と声をあげた人として注目されていた。

認知症になる以前のクリスティーンは抜群の記憶力で、講演に原稿を必要としなかったが、2004年の時点では原稿なしには話せなくなっていたし、目で読んだ文字を声にして出すことにも困難を感じていた。また、人混みと騒音が苦手になっていた。ただ講演を行うだけでも大きなストレスを抱え込み、疲労困憊してしまう。この日はさらに、直前の予定変更が追い打ちをかけた。当初予定では、彼女の順番は休憩後で、話し終わったら次の講演者が話している間、ゆっくり休めるはずだったが、休憩前に話すことになったのだ。話し終わるとすぐお茶の時間になり、クリスティーンは大勢の話し声がワンワン反響する部屋で、人びとに取り囲まれ、質問攻めにされた。質問する声は喧噪にまぎれて、カメラの横にいる私には全く聞こえなかったのだが、彼女はその一つ一つを懸命に聞き分けて答えていた。「がんばっている」というよりは「がんばりすぎ」な感じで、身振りや表情も声も固くとがってきて、見ていて痛々しかった。

翌日、クリスティーンは激しい偏頭痛のためベッドから起き上がれなくなっていた。私たちが家を訪ねると、ポールが寝室から出てきて状況を説明してくれた。彼がコップに水をくんで戻る時、私たちも許しを得てついて入った。はっとしたのは、部屋の暗さだった。光がつらいので、遮光カーテンを閉め切っていて、昼なのにほとんど真っ暗なのだ。ポールが鎮痛剤をのませ、マッサージする。クリスティーンは前日とはまるで別人で、疲れ切っていて、ベッドの上に座るのも大変そうだった。ポールは、頭痛がひどいようなら病院に行き、首に注射してもらうと言っている。講演の後、しばしばそういうことがあり、その都度「脳細胞が減る」と言われているという。次女のリアノンも看病のため寝室に出たり入ったりしていたのだが、「もう講演はさせない。」と口にする。認知症が進んでしまうことを心配していた。クリスティーンが部屋にこもっていると、家中が光も音も失ったように、暗く静かだった。

そこまでしてなぜ講演するのだろう?自分の現在の能力に見合った暮らしをして、健康に穏やかに長生きするのではいけないのか?私たちは話し合った。彼女は、たとえ無理をしてでも「何か意味のあること」をしたいのではないか。他の人たちの役に立ち、記憶に残るようなこと、自分にとっても生きがいになること。そのためならば健康を害し、認知症が多少進んでもいいと思えるくらいのことを。私たちはそう推測した。いつしか彼女が求める「意味」について考えるようになっていた。

クリスティーンは、まる2日間、寝室でものも食べずに過ごした。痛みがひかないので、救急車で病院に行き、首にモルヒネを打ってもらったのだという。

講演3日後の朝、私たちはカメラを構え、クリスティーンを起こしに行くポールとともにおそるおそる寝室に入った。不思議とそこにいることに違和感や苦痛を感じなかった。どうしてこんな苦労を我が身に引き受けるのかと、彼女の内面に注意を向けるようになっていたからだろうか。寝室に入り込んだこの時から本格的なロケが始まったのだった。

撮影に当たって私たちが頼んだのは、ただ家の中にいさせて欲しいということと、私たちに話しかけなくていいい、ということだった。クリスティーンは「無視すればいいのね!」と自分の役割をのみこんでくれたので、私たちもまた、彼女たちが「お客さん」として迎え入れてくれているその役割に徹した。そして、調度品の少ないガランとしたこの家の中で、ゆっくり静かに流れる時間を、黙って感じていた。そして時折、クリスティーンの言葉や動きに誘われてカメラを構え、テープを回した。

クリスティーンは、一緒にいると人をうれしく楽しい気持ちにさせてくれる人だ。例えば朝食時、食卓に腰掛けた彼女が喜びの声をあげる。「ああ、鳥の声!」。そして光の注ぐ窓の外を見る。庭木の枝に、前の日と同じように鳥たちが舞い降りている。そこには、暗い夜が明けて新しい一日が始まることの嬉しさがあふれている。そんな声を聞いてポールが微笑み、朝食のパンやチーズをテーブルクロスの上に並べていく。彼女といると、一日中そんな楽しい驚きと発見の連続だ。彼女と話していると、知的なユーモアと洞察が泉のように噴き出して、ついつい時が経つのを忘れてしまう。私たちはクリスティーンと一緒に過ごす時間が楽しく、待ち遠しくてしかたなくなってきた。

だが、クリスティーンは噛むこと、のみ込むことも意識しないと忘れてしまうという。料理はもう全く出来なくなった。洗った後のスプーンとフォーク、ナイフを分けるのも大変だ。旅行に出るため荷造りしようと思っても、何と何が必要か、全部で何日分の着替えが必要か、整理して考えることが出来ないので、荷造りをするにはポールの助けが必要だ。また、来客と知的な会話を楽しんだ後には、「正常なふり」をすることに疲れ果て、偏頭痛が出、数日の間寝込んでしまうこともある。あの晴れ渡った青空のような性格が一転して、夫や娘に対して怒鳴ったり毒づいたりして、嵐に変わることもあるという。

確かに認知症でなくても、そんな人はいるだろう。だが、彼女は元々そんな人ではなかったのだ。彼女よりもっとひどい物忘れをする人だっているだろう。だが、彼女は元々クレジットカードの16桁の番号でも、運転免許証の番号でも何でも直ぐに暗記してしまう人だった。そして、掃除、洗濯、料理などいくつものことを同時にこなせる人だった。今はゆっくりと言葉を探しながら思慮深い話をするが、以前の彼女は、その何倍もの情報量を機関銃のような速さで撃ち出していた人なのだ。そうした機能が刻一刻と確実に衰えていくことを、彼女は冷静に見つめ、苦しんでいる。

クリスティーンという「人間」がどのように生きたいか、人に対してどういうことをしてあげたいかという意志を私たちは感じた。その意志が彼女の人生、生活の「流れ」を作り、私たちはその中に身を浸していた。それはこの上なく心地よいものだった。ところが、クリスティーンは、この「流れ」を作り出すことに難しさを覚えている。「流れ」をうまくコントロール出来なくなり、自分自身が台無しにしてしまい、人に居心地の悪い思いをさせることがあるのを感じている。したいのに出来ない、出来ていたのに出来ない、自分が本当にそうしたいのかどうかも分からなくなってしまう・・・。私たちに、クリスティーンの苦しみが見え始めた。それは、悲しみを伴うが、不快感とは無縁な経験である。

こうしてようやく私たちはドキュメンタリー作りのスタートラインに立った。自分たちが立つべき位置を見つけたのだ。それは、「認知症の本人の視点」ではなく、「認知症の人が生きる人生の旅路の傍らを一緒に歩く者」としての視点だった。

クリスティーン家の食卓

5月、私たちは3週間の第一次ロケを終えて一時帰国した。第二次ロケは、クリスティーンが執筆中の本を書き上げるであろう2か月後を予定していた。その間、私は編集室にこもり、撮影した映像を頭から順番に見直した。

NHKの先輩たちは、編集室を「第二現場」と言う。第一現場はロケ現場。そこで撮ったものを見直して、その意味をもう一度発見し直し、組み立てるのだ。この過程で重要な役割を果たすのが編集者で、今回は鈴木良子さんにお願いしていた。鈴木さんは、映像が撮られた前後や周囲で何が起きていたのか私に質問しながら、若い南波と吉川が一日中カメラを回し続けるような勢いで撮った膨大な映像と音を、飽きることなく見ていった。「すべてに意味がある」というのだ。首都キャンベラで出会い、結婚した元官僚の夫婦が今、温暖な海辺の町で暮らしていること、家の大きさや間取りなど、暮らしの一つ一つに全く無駄なものがない。芸術になっている、と。鈴木さんと一緒に映像を見直すと、現場で気づいていなかったこと、考え及んでいなかったこと、つまりは自分たちの至らなさに気づかされることの連続だった。

鈴木さんはNHKの職員ではないが、NHKのテレビドキュメンタリー草創期から工藤敏樹などのディレクターたちと歴史に残る数々の名作を送り出してきた人である。認知症についても、『二度童子の館 ボケ老人ホームの記録』(1982年)、『どんなご縁で ある老作家夫婦の愛と死』(1988年)など、一度見たら忘れられない番組をいくつも手がけていた。また、実人生での経験もあったのだが、認知症と初めて出会うかのような新鮮さで私に質問を重ねながら、ラッシュ映像を見ていた。庭で鳴いている鳥、咲いている花の名前まで質問するのだ。

そうしたやりとりによって私が目を向けさせられたことの一つが、「暮らしの豊かさ」だった。「裕福」ということではない。彼らの暮らしは、私たちが「認知症介護」という言葉で連想するものと対極にあるようだった。「介護負担」「自己犠牲」といった重く暗いイメージと異なるものがたくさんあったのだ。いわば「認知症や介護に支配されない暮らし」を感じていた。「自分の生活や人生を自分で支配していることの豊かさがある」と気づいたのだ。

鈴木さんは、「未知の病」という言葉も口にした。それは、私がこの間、認知症について勉強し、オーストラリアでロケを始めたとたん壁にぶち当たった時に感じたことを見事に言い表していた。認知症は多くの場合、何が原因で起こるのか分かっていないと同時に、的を射たケアを十分に得られた時、どういう経過をたどるのかも分かっていない。「未知」という言葉の中には、「恐ろしさ」と同時に、「可能性」や「希望」が含まれていることを、私は明確に認識した。

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