【連載】「視線の病」としての認知症 第10回「視線の病」に気づく text 川村雄次 (NHKディレクター)

クリスティーンとポール

「視線の病」としての認知症
第10回 「視線の病」に気づく

【前回 第9回 はこちら】

クリスティーンが帰国して半年経った2004年4月19日の夜。私は、2人のスタッフとともに成田空港の待合室にいた。ドキュメンタリー番組のロケのため、ブリズベン郊外にあるクリスティーンの自宅に向かおうとしていた。

私たちは、2003年にクリスティーンが来日する前から、講演旅行に同行して番組を作ったら、次はオーストラリアでの日常生活を取材する本格的なドキュメンタリーを作りたい、と話し合っていた。クリスティーンは、日本語に訳された『死ぬ時、私は誰になっているのだろう』(原著は1998年刊)に続く2冊目の本を執筆中であり、2004年中に書き上げて出版する計画が進行中だった。

認知症を病む本人がどうやって本を書くのか?また、何を書くのか?
当時の日本の私たちの想像を絶しており、多くの人たちが関心を寄せていた。
私たち3人は、その「知りたいという意志の集合体」を代表して取材に訪ねるような、重々しい使命感を持っていた。「認知症の本人の視点から認知症を描く、世界で初めてのドキュメンタリー」を作ろうと考えていた。

主張や利害が対立する時、「弱者」とされる側の視点に立つドキュメンタリーの系譜がある。その代表が、土本典昭監督の水俣での連作や小川紳介監督の三里塚での連作である。私は学生時代にそうした作品を見たことからドキュメンタリーを志したので、長年「何も分からない人」として下に見られ、その声が「意味をなさない」「聞くに値しない」という扱いを受けていた認知症の人について、「本人の視点」に立って撮るのは、しごく当然のことだと思われた。視点を定めることは映像の力の源なのである。クリスティーンが書き、語る言葉がその足場になるはずだった。

また、「本人の視点」で暮らしを見つめることで、本人の感じている不自由さとそれに対応するケアの工夫といったものを明確にすることが出来たら、彼女がどうして従来の認知症の常識と全く違う生き方を出来ているのかも分かってくるだろうし、日本の人びとに大きな刺激を与えるだろう。小澤勲さんや石橋典子さんなど「知りたいという意志の集合体」のために、そんな映像と音とを撮っていこうと考えていたのだ。

私はクリスティーンとポールにあてて以下のようなメールを書き送っていた。

<クリスティーンへのメール>

数日前、ご著書を読み返し、あなたが単に認知症の恐怖を克服しただけではなく、さまざまな経験を通じて、新たな自分を発見していかれたことに感銘を受けました。また、お送りいただいた今回の講演原稿から、その発見の過程をさらに深めておられるのを見出しました。実際に、こうして以前より深く充実した人生を生きることができるのだということを示すことは、認知症の人へのケアだけでなく、社会を変える力になるだろうと期待します。(2003年夏のメール)  

なぜドキュメンタリーを撮りたいのかという意図を伝えるためのメールなのだが、様々な考えが交錯している。単に「認知症の本人から見た世界について知りたい」とか、「ケアの手がかりになるだろう」とかいうだけでなく、それが「社会を変える力になるだろう」と書いている。その時私が背負っていた「知りたい意志」には、「社会変革の意志」が含まれていた。それは、「生きにくい社会を生きやすくする」という次元にとどまらず、「より深く充実した人生を生きられること」を求めようとしていた。この時期、石橋さん、小澤さんなど多くの人が、そういう関心や欲求を持っていたのだ。

私たちは夜通し空を飛んで赤道を越え、4月20日の朝、ブリズベン空港に着いた。シドニー在住の女性コーディネーターと落ち合い、彼女の運転で「天国の待合室」ブライビー島のホテルに移動した。(ポールは、前回宿泊したドライブインとは違う、長期滞在者向けのホテルを紹介してくれた。繁忙期ではないので、格安。快適だった。)クリスティーンとポールは、私が前回訪ねてから1年2か月の間にブライビー島から、対岸のビーチメアという町に移り住んでいたので、翌日からほぼ毎日、海峡にかかる長い橋を渡って、夫妻の家に通うことになった。

4月のオーストラリアは秋である。だが、緯度が低いこの地域は一年中温暖で、秋らしさを感じることはなかった。島から橋を渡ると、ユーカリの林が平たく広がっているのだが、葉っぱがまばらなので、緑のうるおいよりは乾いた土の感じがする。「オーストラリアは世界で一番乾燥した大陸」だとポールが言っていたが、きっとそうなのだろう。林の間に、ユーカリを切り倒して作った農地や宅地が開けていて、羊や馬がゆったりと草を食べているのだが、その草も緑濃くはない。

クリスティーンの新居はそんな、だだっ広い乾いた土地の中にあった。新居と言っても中古である。敷地内に自然の池があり、馬を3頭飼っているというと、日本の私たちは富豪の豪邸を連想するが、オーストラリアでは普通のことなのだと、コーディネーターが教えてくれた。訪ねると、平屋で、広めのLDKと6畳ほどの小部屋が4つ。裏庭に天井の高い物置小屋がある。ドラマ『大草原の小さな家』の農家のような、こじんまりした住宅だった。クリスティーンとポールは、ここで前夫との間の娘で大学生のリアノンと3頭の馬、3匹の猫とともに暮らしていた。

クリスティーンの新居 

オーストラリアに着いて3日目、私たちはクリスティーン宅で撮影を始めた。

カメラはまず、真っ青な空に伸びるヤシの木の根元の、小さな家を捉える。室内に入ると、青いワンピースを着たクリスティーンが歩いてくる。認知症と診断されて9年経った彼女こそが主人公だった。

クリスティーンは木の食卓に腰掛け、朝の日課にとりかかる。その日の予定をポールとともに確認するのだ。彼女は忘れてしまうというだけでなく、何をどういう順番でやるか計画することが難しくなっていた。掃除、洗濯、原稿執筆、メールを書くことなど・・・。もともとはオーストラリア連邦政府の官僚で、抜群の記憶力と判断力で「白い稲妻」と呼ばれた彼女のため、元外交官の夫ポールが、本人の希望を聞き取り、メモにまとめ、手渡した。

ポールが用を足すため車で出かけていくと、ひとり家に残ったクリスティーンはメモを頼りに掃除を始めた。だが、モップをバケツに突っ込んだ時、ふと気になることが起きてそのまま忘れてしまって戻らない。やがて彼女は原稿を書くためパソコンに向かったが、バケツのモップはそのまま。カメラは、書斎のクリスティーンの背中からバケツのモップに視線を移す。認知症によるもの忘れの一例のようだった。また、ポールの留守中に電話がかかってきて番号をメモしても、間違いだらけなのでかけ直すことが出来ない。そんな様子も映像におさめた。

私たちは、クリスティーンが毎日「出来ないこと」「難しいこと」とぶつかりながら、それをどうやって切り抜けているか、ポールはどんな手助けをしているかを説得力ある映像と音とで伝えたいと考えていた。それが当時の「認知症ケアの常識」を変えるきっかけになると考えていた。そのためには、「彼女は認知症か?」という問いに明快な答えを与えることが、取材の重要な課題だった。それがなければ、彼女がどんなに素晴らしい話をしても伝わらないだろうから。バケツにモップだけでは説得力に欠けると、私は思った。そこで、もうちょっと別の絵を狙おうと言った。

▼Page2に続く