【Interview】嘘のない感情を描くために演出を仕掛けた―『わたしたちに許された特別な時間の終わり』太田信吾監督インタビュー

 
言葉より行動が物語っているもののほうが強い

――太田さんはプレスシートにあるインタビュー(パンフレットにも掲載)で、将来に対する考え方が微妙に違う2人がもつれ合いながら音楽をやる姿を描く。それが当初の構想だったとおっしゃっています。そこに壮太さんの“演出”によって、太田さん自身が入り込み、3人でいることが前景化されたんですね。

僕は妙に、3人の仲間関係に対する執着があります。若い、それこそ夢を追う時期に3人でつるんでいると、正三角形の形は成立せず、必ず2対1の関係になる。それはいつもキツかった。太田さんは、3人の関係劇であったことに、どこまで自覚的だったのでしょうか。

太田 映画にしよう、これは映画になるかも、と思ったのは蔵人が入ってきてからです。最初は僕と壮太だけだったんですけど、久しぶりに蔵人が連絡を取ってきて。

彼は壮太とは価値観が違います。映画という場が無ければ、本来接点はない。そんな2人が、一緒に音楽をやっていこうとなった。

壮太は壮太で、どう音楽を続けていけばいいか分からない、と悩んでいる時でしたから、蔵人の持ち前の明るさによっていい道が開けるんじゃないかと。価値観が違う同士が一緒にいることは大事かな、と思って。そういう意味では、3人の関係ということに意識はありました。

 ――カメラを回し始めてから、蔵人さんが入ってきたわけですか。

太田 はい。壮太の実際の引っ越しの時、誰か手伝ってくれる奴いないか、となって。誰を紹介しようかと考えて、蔵人がいいんじゃないかと。実際に紹介したら、けっこうウマが合ったので。

――……え、太田さんの紹介だった? でも2人は軽音楽部の先輩後輩でしょう。太田さんも同じ高校で壮太さんの後輩ですが、蔵人さんと壮太さんも、もともと付き合いがあったのだと解釈していました。

太田 僕と蔵人は同級生なんです。僕等が高校に入った時は、壮太はすでに退学していましたから、蔵人と壮太は映画の前までは直接の面識は無くて。

――そうでしたか。じゃあ太田さんにとっては、1対1の撮る・撮られるの関係が続くのはキツい、だから明るい存在を求めた、という面も?

太田 そう、ですね。どうしても、壮太と僕の2人だけでいると悶々として(映画にするための)解決策が出ず、時間がダラダラと過ぎていくこともあったし。お互いの傷を舐め合うような、あまり生産的ではない時間も多かったんです。

3人でいることで、意見をぶつけ合う時間が増えましたから。それを映画として見せることで、見る人に(自分はどうだろう)と、考えてもらえるものになると思いました。

――壮太さんは高校の先輩で、メジャーデビューの一歩手前まで届いた、いわゆる地元のカリスマ。十代にとっては遠くのスターよりも強烈な、引っ張られる存在です。それゆえ後輩に与えるプレッシャーも厳しい。
「壮太・蔵人(被写体)―太田(撮影)」(※図1)の2対1のバランスが、時折、「壮太(いない)―蔵人・太田(彼のことをぼやく)」になります。この変化の綾が、なんとも面白いところです。
そして3人の関係は、壮太さんがいなくなった後も「没後の壮太―現在の太田・蔵人」(※図2)という、別の共働のかたちで続いていきます。ナレーションを読む時の蔵人さんは、あれも、ほぼ演じていますか?

   


太田
 別の人の家を蔵人の家と見立てて撮り、僕が書いたナレーションを読んでもらいました。

でも、彼が(後半、壮太とのユニットを解散して)長野県の天龍村に移住した心境を振り返るところで、「こんなこと俺は思ってなかったよ」と言い出したのは本当というか、台本には無かったリアクションです。その姿も含めて映画に入れ込めば、嘘は無いかなと。

ただ、蔵人はこのナレーションは嘘だと言うんですけど、当時の映像を見ると「長野に行くことで表現を続けられる道を探したい」という意味のことをカメラの前で話しているんです。時間が経つと同じ自分でも、どこか他人になってしまうんだな、と映像を見て分かるところがありました。

――現在の蔵人さんは、壮太さんといた頃のことをナレーションで語りますが、今、壮太さんをどう思っているか語る場面は、映画の中では一つもありません。撮って結局は使わなかったのか。それとも、太田さんは聞く必要はないと思っていたのでしょうか。

太田 映画に入れたいという気持ちがあって、言葉として撮った場面はけっこうあります。ただ、言葉より……インタビューで言葉として語っているよりも、(終盤の)殴り合いの場面、坂田さん(自殺した少女/を演じる「坂田さん」本人役)に「身近で死を見た者の前で、よくそんなことが出来るな」と怒る。その行動が物語っているもののほうが強いかなと思って。壮太の存在を今も感じながら、周りの人への接し方が変わってきているところを見せたほうが。僕の(フィクション部分での)キャラクターのほうが、壮太への思いを語っているので。

――映画を再開して、久々に蔵人さんと再会する駐車場の場面。英語を喋るキャラにしないと会話もできないようなナイーブな蔵人さんが、すごくズケズケとした態度でスタッフと会う。あそこはメチャクチャ面白いですね。あんまり人見知りだから、初対面の人には強気で図々しく接するしかなくなる。そういう人っているから。あそこはさすがに……、

太田 あれも……作りこんでいます。

――ああ(笑)。

太田 車も僕のですし、場所も彼の住まいとは全く違う場所ですし。

――でも、蔵人さんは現在になると、口調や態度がガラッと変わるでしょう。「太田君」が「太田」になるし。

太田 あれは、彼自身の変化だと思います。僕は(再開後は)呼び捨てにしてくれなどと特に指示はしていないので。天龍村に行った後、彼は土木作業の仕事を始めたんです。親方に殴られるような荒っぽい現場で働いているので、それもあって暴力的なキャラクターに変わってきているなという印象がありますね(笑)。人間はかなり周囲の関係や環境に左右されるんだなと。もちろん、(映画でも出産場面があるように)父親になったことも、蔵人にとって大きいと思います。

映画『わたしたちに許された時間の終わり』より

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