【連載①】原一男の「CINEMA塾」’95 深作欣二×原一男「ヴァイオレンス篇」

アクション映画の真髄

原 そうですか。アクション映画ということについてなんですけれども。アクション映画のいいところは、ギザギザしてるという表現なさってましたかね? ギザギザしてるところがいい、と?

深作 ああ。タランティーノが相手だったかな。ええ、そうですね。

 それでですね、僕は自分が映画をつくるときですね、どっかでですね、刺を仕掛けてやろう…と。

深作 なに?

 刺。つまり毒をしかけるという言い方でもいいんです。で、世間の反感を買う部分をですね、かなり意識的にっていいますか。つまり、反感を買う部分にこそ、自分のカメラを向ける部分っていいますか、標的はそこにあるって思ってる部分、どうもあるんですよね。それはある程度、映画をつくるときに読めますよね。それは怖いですよね。そういうモラルが多分、できあがった映画に対して攻撃してくるだろう。そういうシチュエーションを読むわけですね。それは、とても怖い。しかし、怖いからこそそこへ突き進んでいく。もちろん、自分たちの主人公と一緒に映画を作っていく時に、その主人公に対してですね、理解してほしいという気持もあります。しかし、半分は主人公に対して反感というね、そういうリアクションが来るだろう。だから、いいんじゃないかっていうふうな、基本的にはそういう志向を持っているって、はっきり思ってるわけですよ。で、監督の仰るギザギザっていうのは、まさにそれと基本的に同じだろうと思っておりますが。

深作 そうですね。そういう意味で、たしかタランティーノを相手にしゃべっていたときに、そういうこと言ったのかもしれませんが。つまり、きれいに慣らされた予定調和的な世界じゃなくてね、たえず論理をこえてグサッとわれわれの、見てるわれわれのどこかに突き刺さってくるためには、やっぱりなにがしかのアクション、暴力に根ざしたアクション、それは必要だと思うし。だから、暴力映画ってのはおもしろいんだと思ってるんですが。原さんのドキュメンタリーを見ていてもですね、やはり随所にそれを感ずるんですよね。それもすごく。俳優さんの芝居を想定して脚本に書かれたわけではなくて、突然彼あるいは彼女たちがね、先程申し上げたような形でもくるわけですから、そういう表現があるから、すごく感動するし、ショックも感じるし。まあ、ショックがあるから、それが感動につながるんだと思いますけれども。原さんが仰っているアクション・ドキュメンタリーっていうのは、そういう意味あいもあるんでしょうね?

 もありますね。基本的に僕はアクションっていったときにですね、人と人との関係っていう言葉をいつも使って考えていくんですね。関係ということ、関係の変化っていう、まあ70年代ですから、そういう表現を使ってたんですね。つまり、関係を変える。関係自体を動かしてやる、やりたいっていうか、日常は関係が固定されてますよね。つまり、天皇制ってことで、理屈でいえばそういうことになっていますけれど、そういう関係を根っこのとこで揺るがしてやりたい。揺るがす為にこそ、ショック療法といいますか、そこに狂気を持ち込む。そういうものとして自分のカメラがある。あるいは、自分のつくる映画が機能していくはずである、そういう思いですね。それでね、さっき深作監督の場合はもちろん劇映画です。で、ご自分のなかの怒りという心情をですね、基調に映画をつくっていくときに、役者という肉体を通さなきゃいけない。その辺はどんなふうに悪戦苦闘していくのか。つまり、監督の作品は実在の人物を描いた作品っていうのは結構多いですよね。だったら直接ドキュメンタリーでやればいいじゃないかっていう考え方も、でてきますが、考え方としては。そうじゃなくて、劇映画という形にこだわるというか。

深作 いや、こだわると言うよりはですね、私自身が商業映画の基本のなかで育ちましたし、それ以前に商業映画にいろいろ触発されながら、映画を撮ってみたいと思い続けてきて、ドキュメンタリーという方向は僕のなかでついぞ出てこなかったんですよね。いろいろ映画をみる形のなかでも、もちろん戦争中のいろんなニュース映画とかね、そういうドキュメンタリーふうの映画もあったんですけれども、やっぱり一番ひかれたのはドラマだった。いわゆるフィクションだったので、それでそれにむく材料といいかますかね、映画にむくというよりは自分自身が感動できる材料というものを小説なら小説さがすんでも、読んでいきますわね。そういうときに作り物よりは、どうも実在、いわゆる私小説の方がね、なんとなくというのかな、やっぱり信頼できるんですよね。そんで、それはやっぱり小説家自身が嘘ついているんだという認識もちらちらしないではないんですけども、一応そういうふうなところを通して迫ってくるものに対して、ある信頼で答えなきゃならない。というところから、たとえば檀一雄さんの作品とかですね、いろんなかかたち。別の例でいえば、つか君の作品のような嘘っぱちさだけは、ちょっと非常に入りにくい側面もあったわけですけれど、嘘でなにが悪いかというなのが、つか君なんかにね、散々されたわけがあるわけですが、それもまた、フィクションというテーマであとでお話するとして、やっぱりどっか本当らしさがないと、自分の表現というのはひとつの迫力を持ち得ないだろう。その本当らしさって何だっていうところで、いろんな悪戦苦闘ありますわね。たとえば任侠映画がどうも嫌いなのは、たとえば鶴田浩二が金子信雄をやっつけるときのスタティックなカメラっていうのは、どうも我慢できなくてですね、やっぱりどっか狂っているはずだと。ほんで、狂い舞いを描くのがヤクザ映画のみならず、人殺しの現場のね、なんか方法であろう。そんときに、じゃあ自分の体験から探しますわな。決闘の思い出よりも、そんなとき非常に役に立ったのは、この血のメーデーとかね、それからいろんな家庭んなかで、警官…。あの頃ね、非常に悔しい思いを今でもしているのは、あの頃の学生っていのは引っぱたかれるしかないんですよ。つまり、ヘルメットもなければ何にもない。角帽しかないんですからね。そいで、座り込んでボンボンボンボンごぼう抜きにされるのを、無抵抗でいるしかない。ときにはピストルを撃ってくるのをですね、頭抱えて逃げ回るしかない。なんでそんなことやったんだろう。もっと70年代の学生みたいにですね、ヘルメットと角材で武装して立ち向かって何が悪かったのかと。やっぱり日共の闘争方針がね、そういう風になってなかったからなんだけれども、あれは腹に据えかねることだったんですが。そういうときのアレっていうのは、映像ってのは止まってないですよね。むこうから警官がくる。引っぱたかれる。逃げまわる。たえず自分の視界っていのは揺れているわけで、それはやっぱり、ニュースカメラマンが撮ったあの手持ちカメラの激しい感覚、流動感。原さんも、記録映画のなかでやってますけれど、そういう方法でないと自分で暴力映画撮っている感じがしないんですよね。だから、あれは体験だなって思ってますけれども。

手持ちカメラの生理感覚

 はあ、そうですか。まあ、大変かどうかは置いておいて、手持ちカメラのね、シネスコ、ワイドのあれはニュース映画からきてるんですか?

深作 ええ。ニュース映画だったですね。

 ああ、そうですか。僕はですね、一本目の映画は『さようならCP』っていう、16ミリカメラを、明日から彼女と映画を一緒に作ろうと決めまして、それまでカメラ持ったことがなかったんです。で、明日から撮影というその前日にですね、テレビ局へ行きまして、カメラマンからフィルムの詰め方を習いましてですね、そいでいきなり撮影をはじめたんですよ。そのときに、観念的には絶対、これから作るであろう自分たちの映画はですね、もう映像は手持ちでないといけないって、かたくなに思っていたことがあるんですね。で、それはですね、自分の生理、それから自分の思考のリズム、鼓動っていいますかね、それこそがですね、まさにこの映画のテーマでもあるっていうふうにも思いこんでいた。これは絶対手持ちなんだというなことで、実は手持ちからスタートしたんですね。それがですね、1本の映画のなかででもそうですし、いままで4本やってきてっていう流れのなかでもそうなんですが、最初手持ちっていう発想をするんですよね。それが段々とフィックスになっていくんですよねえ。一応キャメラワークに関していいますと、僕は自分でカメラをまわすから、その辺のこだわりはあるんですが、監督の作品を見ててですね、手持ちに関して、これは一体何なんだろうと。で、今おっしゃいましたけど、やっぱり監督の生理だろうというふうに、こちらもまあ思いますわね。それで手持ちのですね、カメラワークがですね、いろんな作品を見ていくとですね、仁義、今日の『軍旗』も手持ちがありますよね。その後の『人斬り与太』のニ作品も手持ちがありますね。それから『仁義なき戦い』は、これはもう手持ちで有名になりましたね。そのあと『仁義の墓場』っていうことになってます。その手持ちがですね、一番洗練されて、しかも鮮烈なのは『仁義なき戦い』のシリーズですよね。それから、ずっと後半になっていきますが、作品によって手持ちが必ず出てきますが、やっぱり少し減ったり増えたりしてますね。それで、後半の『華の乱』、それから、なんだっけな『火宅の人』にも少し出てきますね。そういうことで、手持ちのぶれた画面っていうのが、いつも映画を見ててね、今回はどれくらい出るんだろう? 微妙にやっぱり違うんですね。それはさておいといて、一つ僕がお聞きしたかったのはですね、キャメラマンが代わりますね。瀬川浩さんですか、軍旗の場合は。そいで『仁義なき戦い』は仲沢半次郎。

深作 吉田(貞次)。

 吉田さん。

深作 ええ。『人斬り与太』じゃない、『仁義の墓場』が仲沢半次郎さん。

 それはお二人とも東映のキャメラマンですよね?

深作 そうです。

 瀬川浩さんはフリーの方ですよね?

深作 そうです。

 どっちかっていうと、ああいう映像は撮ってない方ですよね?

深作 そうですね。

 手持ちのね。それから、後半、木村大作にキャメラマンが代わりますね。あの方もどちらかというと手持ちを使わないキャメラマンですよね。にもかかわらず、手持ちのですね、キャメラは微妙の違いはあってもですね、やっぱり深作映画の独特の手持ちのキャメラワークになるということはですね、キャメラマンとの駆け引き、確執というんでしょうか。それではどのようにですね、僕は自分でキャメラを回すもんだから、監督とキャメラマンの関係っていうことで、キャメラワークを成立させていくその関係を知りたいです。監督とキャメラマンの。

深作 結局は話し合い。あれこそ感覚的な問題で、話し合いというよりも、ここんとこはこういって、口頭でいうようなことでしかないわけですけれども。ちょっと話がそれますけれどもね、原さんの『さようならCP』ってのは1972年ですよね?

 72年です、完成が。

深作 封切られたのもそうですか?

 撮影したのは71年です。

深作 71年ですか。えーと、『仁義の墓場』『軍旗』が71年だと思います。作ったのがね。封切られたのは72年。それから『仁義の墓場』はもっと後ですが、『仁義なき戦い』が72年ごろだったわけです。そいで、あなたの『さようならCP』見ていてね、あの手持ちの映像を見ていて、ああと思ったのはね、自分が一番手持ちに打ち込んでいった…あの、打ちこんでいた時代が同じだなあと。つまり、期せずしてですね、そういう映像をね、原さんが良しとし、私がそれにのめり込んでいくという時代はね、やはり時代のひとつの欲求だったんじゃないか。それでもそんな手持ちなんて嫌いだっていう監督さんもキャメラの方もね、随分多かったわけですけど。たまたまそうなったというのがね、これは偶然じゃないなあと。そっから先にね、80年代から90年代に入るにしがたって、だんだん手持ちのアレが僕の中でも減っていく。というのは、僕の年齢なのか。必ずしも、そうではなさそうだなと思えるのは、原さん自身の一つの変貌がありますわな。『全身小説家』あたり。だから、それとね、まったく似てるんですよね。そうすると、やっぱりあれは時代の感覚だったんじゃないか、というような手前味噌ですけれどもね、思えて仕方がない。きっと、この木村大作はいち早く手持ちに拒絶反応を起こし始めましたけれども。まあ、東北育ちということもあったし、その後、日本映画の観客の主流がね、女性中心になってきてしまってね、女性はやっぱりああいう手持ちカメラの映像っていうのはあまり好きじゃないようで。やっぱり大作みたいなきれいな画面とかね、そういうのに惹かれる部分もあるんだろう。やっぱりしかし、時代の問題だったんだろう。大作とかね、『四谷怪談』を一緒にやった京都映画のあれ誰だっけ、また度忘れしちゃった。あのキャメラマンとか。やっぱりこれは同じ年代なんですね。仲沢半次郎さんなんかはずっと先輩ですけども、やっぱり一つの戦争体験と戦後体験はやっぱりどこか重なりあう部分はあるので、やっぱり手持ちの感覚はすごく、これはニュース映画のニュース・キャメラマンがやる感覚なんだというとすごくわかってくれましたね。

 そうですか。あの『いつかギラギラする日』ですか。あれでまた久しぶりに手持ちのキャメラワークが…。

深作 そうなんですが、やっぱり違いますよね。これもやっぱり若いキャメラマンだし。それともう一つね、シネマスコープですとね、手持ちのぶれの度合いがすごく激しいから、こっちも気がいくんですけどね、ビスタサイズってのはどうも中途半端で。

 効果が薄い。

深作 ひん曲げても、曲げた感じがどうもしないという。

【次ページへ続く】