【連載①】原一男の「CINEMA塾」’95 深作欣二×原一男「ヴァイオレンス篇」

 
●現代日本の衰弱と活動屋

 そろそろ時間ですが、アクション映画がですね、成立するにはですね、観客もまたそのことを受け止める土壌がないとね、言語が通用しない、つらいってことを仰ってましたよね。そいで、すでにですね、『仁義なき戦い』っていうのは、70年代の僕が『極私的エロス』を作っている頃ですね。その頃にはすでにもうそれがですね、他の日本映画が丸くなっているというふうに仰っている。その頃から、まあ言ってみれば、戦後の変質みたいなものがそっから始まったというのでは決してないでしょうけれども、そのあたりからですね、段々顕著になってきて、観客がですね、アクション映画から離れていくっていうんでしょうかね。通じなくなっていく、そのいら立ちっていうんでしょうか。僕は論点をずらしますけれども、深作監督はですね、日本映画の、今の日本映画をいろいろご覧になって、必ずしも悲観的になることはないんじゃないかっていうふうな基本的なお考えをあちこちで述べてらっしゃいますが、僕は根っこのところではですね、ものすごく悲観的なんですね。日本映画が本当にダメになっていると。で、よくまあ、いろんな人にインタビューされます。日本映画は本当にダメだと僕は思いますけれどもどうですかって聞かれたときに、僕の答えはですね、たしかにそうです。しかしそれは、日本映画だけがダメになったんじゃなくて、あらゆるものがダメになったから、結果として映画人がつくるその映画もダメになったんであって、つまり、映画人もいろいろと魅力ある人物を描こうとしてるんだけれども、肝心要の日本人そのものがですね、魅力的でなくなった、で、描きようがないんだと。その結果として日本映画もダメになったというふうに、最近僕は反論するっていうか、説明するというか。つまり、僕らがアクション映画、アクションにこだわる。さっきから狂気といい、アクションといい、暴力といい、そういうものにこだわって、これからもこだわりたいと思ってる。しかし、それは何かこう残念ながら通用しなくなった。それを受け入れがたくなった。時代がどうもずれてきている。その辺の思いっていいますか、いらだちというか、そのあたりはどうでしょう。

深作 ええ。なんていうか、今の映画はまた別、つまりこれはそう信じたいということもあるわけですが、映画を撮りたいんだという衝動みたいなものは、どっから来るのか。つまり、名誉欲とかね、つまりそれがかっこいいからとかね、そういうことではない、なんかもうちょっと同じ表現、まあ表現にはいろいろ、絵が描きたいとか文章が書きたいとか音楽だとか、いろいろあるわけですけど、やはり映画の場合にこれほど報われない表現。銭がかかりすぎる。この表現のメディアっていうのはないですよね。8ミリ、つまり原さんの悪戦苦闘とか、いろんなことを見ていても、また若い人たちのね、自主映画見ていてもそれは感じる。ただやっぱりそれに惹かれ続ける人間はいるということだけは、これは疑いはないんで、そういうところでは、別に絶望するのは早すぎるんじゃないか。ただ、状況が悪くなっているのというのは仰ったように、日本という状況がどんどん悪くなっていくというのは、具体的に何かといえば、みんな個人個人みんな悪くなって、みんな安全な人生しか歩かなくなっている。歩こうとしない。これはね、一番基本的に悲しいことというか、映画的にならざることなのであって。やっぱりこれだけ、我々のときには本当に必要なというかね、明日食う米にも困ったようなことあるけど、今そんなことないですよね。かっこさえつけなければ、まずは米、つまり食うご飯には事欠かないわけでしょう。それだったらね、そういう状況を利用して、自分の好きなことをコツコツコツコツやり続けていくと。どっちみち自分の一生ってのは、棒に振るつもりがないと、これはいつの時代でも映画なんかできてたわけじゃないんで。たまたま映画の全盛期みたいなもの、昭和30年代ですか、高度成長の時代と同じようにね、非常にいい思いをしすぎたし、またそれに対して日本の文化そのものがですね、異常に文化はお金になるんだとかね、そんなべらぼうなことをね、幻想をさせてしまった、そういう幻想を植えつけてしまった。またそれに乗っかって政府がですね、なんとかかんとか言って、ひとつの権威とか格式をですね、くれるのは勝手だけれども、それがまあ唯一の表現に対する報酬かといえば、こんな衰弱した形はないんであって。そういう意味では時代が悪いといってもですね、やっぱりまずはやろうとする人間がね、あとを絶たなければいんだという気が僕はするんですよね。

 しかし、今回集めた資料のなかにですね、焼け跡ですか、にもう一回戻ってみたい。つまり、あらゆる今のですね、日本のあらゆるぶっ壊してですね、もう一回闇市、焼け跡ですか、に還ってみたいということも仰ってます。

深作 ええ。それを見たときというのはね、考えて見たら15歳でね、直接にお腹は空いてましたけど、直接に自分の生活を自分の家族を自分の手で面倒見る必要がまったくなかったわけですよね。今までの権威の象徴とか、そういうものが全部焼野原になってしまって、みんな大人どもがですね、その頃われわれを支配していた大人どもがみんな茫然としていた。軍人も教授も全部ひっくるめて。という状況というのはですね、決して悪い体験ではなかったんですよね。

 とっても自由だったって言っておりますね。

深作 とっても、ある自由を感じた。で、空襲もなくなるから、なくなったから、焼け跡に爆弾を落っことしはしませんからね。いくらアメリカでも。まだ降参する前だったけど、すごく平穏というか安らかだったんですよね。

 ということは、今はえらく不自由だということになりますね?

深作 不自由だと思いますね。もう本当にきれいすぎますよ。

 で、そのときにね、なんていいますか、さっき深作監督はですね、自殺しようとは自分は思わなかった。つまりその自分の狂気といいますか、怒りという感じを外へ向けていくという心持ですよね。ところが、最近の若い子っていうか、おおざっぱな言い方すれば、自殺しちゃうっていうか、自分を滅ぼしちゃう。自分を消していくっていうか。そういうふうに内へむかっていきますよね。それはとてもヤバいことだろうと基本的には思うんですよね。

深作 また違いすぎるというか、自分の肉体の強さをね、われわれのときと比べ物にならないくらいね、強く受け止めてしまうんじゃないか。今の子どもたちはね。というのは、同情すれば、そういうことがあるような気がしますね。どっちみち衰弱してるということはあると思うんですが。教育にしろ、家庭にしろね。

 じゃあ、その衰弱したですね、若い子たちを、ここに何人かきてます。それで「CINEMA塾」やろうと始めたんですよ。そいで、今朝も実は怒った。いろいろ怒ることが、まだ付き合い始めたばっかりなんだけど、頭に来ることがいろいろありましてですね、怒りたくないんだけれども、ついつい怒ってしまうんですよ。こういう彼らとですね、まあ10年かけて付き合ってみようかと。どこまで彼らが、僕らがこうやって、いろんな思いをですね、ひっくるめて分かってもらいたくて、しゃべったことをわかってくれるかどうか、まだ自信はないんですが。それでもちょっと、いろいろやってみようかということで、「CINEMA塾」をはじめてみたんですね。

深作 非常にいいことだ、無責任な意味ではなくてね、いいことだと思います。それでも、なんていいますかね、活動屋の魅力って何だと先ほど若い方から、質問されたことがあるんですが、そのときは別の答え方をしたように思いますけれども、まあ、みなさんにも事のついでだから言っておきますけれど、やっぱりある組織のせーので動き出したときは、いろんな不手際がおこるのは当たり前で、そんときにいいよいいよ、じゃ、組織運動にならないから誰かが「このボケ、カス、なにさらしとんねん!」と言うやつがいてですね、それにある種抵抗感覚を感じながらですね、またやっていくとある種の人間関係が変なとこから始まってくる。私自身もそうやって怒鳴られ怒鳴られながらですね、あほらしい辞めたろうかと何度も何度も思ったんですけれども、それを通過するとですね、なんかすごく外の世界にはない、ある種の平穏、平安といいますかね。非常に泥まみれ汗まみれのところはあるんですけど、いいものだというところありますね。あの重労働したあとにふっと感じられる満足感みたいなものがね。だから、ぜひ長続きさせて物にして頂きたいと思いますね。

 なんとなく、しめくくりふうになりましたけど、もうひとつだけ、お聞きして今日は終りたいんですが。いま活動屋という言葉を仰いました。まさに深作監督は映画屋という言葉よりも活動屋という言葉がぴったりする感じがしますね。僕も映画屋っていうよりも活動屋って言葉が好きなんですよね。それで、ちょっと話は戻りますが、奥崎さんと付き合っているときにですね、奥崎さんはいろいろ僕に要求してくるときにですね。できることとできないことがある。映画というものは全部が全部撮るわけにはいかないと、奥崎さんの要求どおりね。映画としてはこれが必要であるとか、映画としてはこうなんですよとか、いろいろ僕が映画映画というもんだから、あるとき奥崎さんがですね、頭にきたんですよね。で、原さんは映画屋、映画映画と仰いますがって、そういう言い合いになったんですよ。そのときにですね、自分はバッテリー屋を商売にしてるけれども、原さんは映画屋っていうふうに自分のことを仰いますと。自分はバッテリー屋だけれども、何かことを起こそうとするときには、私は人間屋なんですよと。映画屋というよりも人間屋の方がはるかに素晴らしいんですよと、その私が人間屋としていろいろ行動するときにですね、黙って俺についてこいと。ケンカしたことがあるんですよ。いま私は映画屋ということよりも活動屋という言葉を僕は使いたいし、奥崎さんにそういうふうに映画屋よりも人間屋っていうふうな論理にですね、必ずしも僕は組しない。むしろ人間屋としてですね、機能するためには、活動屋として具体的にこだわるべきだろうと思っていますから、奥崎さんとの論争はどうでもいいんですが。映画屋という言葉よりも活動屋という言葉にこだわって、若い人とこれから付き合っていこうと思ってます。活動屋っていうのはつまり、活動ってのはちょっと屁理屈になりますが、活動。生き生きと動くと、屋っていうのはやっぱりプロフェッショナルっていうふうに考えてですね。だから、生き生きと動いていく、そういうプロフェッショナルに俺たちこれからますますね、時代が悪くなっていくときにですね、意識的に自分をそういうふうにですね、鍛えてあげていこうじゃないかって、若い人たちに僕は呼びかけたいんですよね。そういう意味で活動屋ばんざいというふうに考えてるんですが。

深作 実は活動屋ってのは活動写真というところから来たわけですけども、活動写真ってのはもう私の子どもの頃からすでに死語になってしまってですね。しかも活動屋ってのも当然、死語に属する用語になっているわけですが、そこがまたいいんですよね。つまり、ひと時代前にね、死滅してしまったような人種がまだ生きて、まだしがみついていてですね、ある意味では愚にもつかぬ、馬鹿馬鹿しいようなことに血道をあげて、何もかも放り投げて、全身をすり減らしているというような、このバカげたふるまいをしている人種、そういうことを含めて活動屋ってのは僕はね、好きだったわけですけれども、今仰るようにね、映画屋というよりははるかにダイナミックな活力には溢れてますわね。そういう意味では、ぜひ活動屋の復権といいますかね、そういうことを、やっぱり実現していただきたいし、またそういう、ひと頃自分でヤクザ映画にのめり込んでいたときには、ヤクザもまた高度成長の流れのなかで、それまで利用されていた権力から置き去りを食らってですね、港湾荷役労働とかそういううまみのあるところから全部締めだされて、かわいそうに、美空ひばりのショーまでできなくなっていって、というふうなことがあったわけですけど。おんなじように映画屋もですな、どんどんどんどん落ち目になっていって、これはまったくその頃中小企業というのはね、同じ道筋をたどったと。ヤクザも映画屋も同じなんだ、そういう状況のなかでは、僕は映画屋などというよりは、映画人などというよりは、この活動屋ってのがふさわしい。自分の仕事に照らし合わせてもふさわしいなという感じ、愛着を持った覚えがありましたね。だから今、いいんじゃないですかね、これから皆さんと一緒で。活動屋、おおいに賛成ですね。

 今日はこれで1時間半、いろいろお話しをうかがいました。1回目はこれで終わります。明日はですね、虚構をテーマにですね、引き続きいろんな話を監督にうかがっていこうと思います。深作監督に拍手で御礼を。どうもありがとうございました。

 

 【執筆者プロフィール】

原一男(はら・かずお)
1945年、山口県生まれ。東京綜合写真専門学校中退。60年代後半~70年代初頭にかけて田原総一朗が東京12チャンネル(現・テレビ東京)で手がけていた過激なTVドキュメンタリーに大きな影響を受ける。71年、知己を得て、田原作品「日本の花嫁」に、最初の妻である武田美由紀、二人の子である零とともに出演。72年、小林佐智子(現夫人)と共に疾走プロダクションを設立、同年ドキュメンタリー映画「さようならCP」で監督デビュー。次作「極私的エロス・恋歌1974」(74)を発表後、撮影助手、助監督を経て、87年、日本ドキュメンタリー史に燦然と輝く傑作「ゆきゆきて、神軍」を発表。日本映画監督協会新人賞、ベルリン映画祭カリガリ賞、パリ国際ドキュメンタリー映画祭グランプリ受賞。94年の「全身小説家」もキネマ旬報ベストテン日本映画第1位など高い評価を受ける。著書に、95『踏み越えるキャメラ』。

06年から大阪芸術大学映像学科教授に就任。14年2月、大阪・泉南のアスベスト被害者に6年間にわたって密着した20年ぶりのドキュメンタリー映画監督作「命て なんぼなん? 泉南アスベスト禍を闘う」を発表。また同年4月から、東京・アテネフランセで、セルフドキュメンタリーの魅力を深く掘り下げるセミナー、new「CINEMA塾」を開講中。映画「トキワ荘の青春」には、親しい間柄だった故・市川準監督にキャラクターを買われ、学童社編集長・加藤謙一役として出演している。

new「CINEMA塾」ホームページhttp://newcinemajuku.net