【特別掲載/追悼 大津幸四郎さん】「対極のドキュメンタリー 小川紳介と土本典昭」オリジナル版第1部・講演篇 text 大津幸四郎 

『圧殺の森』©特定非営利活動法人 映画美学校

『圧殺の森』(67 監督:小川紳介) ©特定非営利活動法人 映画美学校

小川紳介の表現方法

僕も小川紳介の『圧殺の森』と土本典昭の『パルチザン前史』と両方を並べて見る機会が今までなかったので、丁度いい機会なので、二人の作家の体質というか、表現方法の違いみたいなのを考えてみたいと思います。

小川紳介という作家は、『圧殺の森』の中で見る限りは、状況ということもあるかもしれませんが、かなり精神的な傾向が強いですね。対象の心の状態、それから自分の諸々の精神活動、それらをどうやったら表現できるかというジレンマがずっとあったと思うんです。これは僕の見たところですが、小川紳介はその後、自分の中に生起する映画的なイメージというか映画的な表現というか、そういうものを自分の中に溜め込んじゃって、それを表現するにはどうしたらいいかとあがいているように見受けられます。

彼は『圧殺の森』『現認報告書』の後、三里塚に入ります(1968年)。その後、山形に移って行きます(1974年)。特に三里塚の場合ですと、農民の闘いの経過をニュース的な形で撮り上げていく作品と、自分のイメージをじっくり熟成させて、ある精神的な高まりのところまで持っていって映像を紡ぎ出していく作品があります。そのためにはどうしたらいいかという仕掛けを自分で考えざるをえない。何年も寝かして、その現場に入り込んで考えてしまうんですね。特に、三里塚の6作目『三里塚 辺田部落』(73)にその傾向は顕著に現れていると思います。

彼はもともとどちらかと言えば、現場に現れて現場を束ねるというタイプの演出家ではないわけです。現場ではほとんど何もしない、特に『三里塚の夏』あたりでは、闘争の場面、農民と空港公団の職員、機動隊が激しくぶつかり合うわけですね。三里塚の場合だとぶつかり合うわけです。農民と機動隊がぶつかったり、農民同士のぶつかり合いもあったかもしれません。だからそういう闘争があるということは、具体的なアクションの連続があるわけです、目の前で。.

闘争の局面は、演出家の手を離れてしまうわけです。そうするとジィーっと横で見ているしかない。だから「僕は行かないよ。それを撮ってくるのはカメラマンの目で撮ってくればよい、それはそこで任したんだから頼む」と。彼は退いて、いわゆる現場の最前線からは退いてしまうわけです。で、少し離れた後ろの方で見ている。思考している。あるいは、遠く離れた所で見ている。彼はどちらかというと非常に細心な男だったんです。ナイーブなんですね。ナイーブなというのは、ある意味では、臆病なんです。非常に荒れた現場、ぶつかり合いが多い現場、特に機動隊の暴力が支配しているような現場っていうのは、どちらかと言えば、苦手、避けていた、ということがありました。

現場に行ってじっと物を見ながら、どうやって撮るかというよりも、それをもう一回そこで起こったことを含めて自分のフイルターの中に溜め込んで、そのフイルターを通して培養して、じゃあそれを映像化するにはどうしたらいいかと考える、そんなタイプの人間ではなかったかな、と思うんです。ですから山形に移ってから、その傾向がはっきり現れてきます。山形には十何年居座るわけですね。最後の作品を作り上げるまでにね。で、その間にいろいろ溜め込んできたもの、それから、そこでかつて起こったもので、非常に自分のイメージを触発したもの、状況、そういうものをどうやったら再現とまでは言わないですけど、もう一回その状況を発酵させるにはどうしたらいいか、どういうふうに自分のイメージの中に取り込んで、表現のファクター、表現の力を、表現の場に放り込めるか、ということで悩んでたんじゃないかと思うわけです。.

現実を在りのまま撮るのではなく、その現実と向き合う自分、自分の趣向、自分の立っている位置などを確かめながら、小川固有の映画イメージを作り上げていく。彼固有のイメージが漠としてであれ、作り上げないと次に進めない。そんな思考の枠が小川にはあったようです。そして彼はある種の完全主義者でした。探し出したイメージをどう表現したらいいのだろう―—イメージの熟成の長い旅が続いたようです。

小川紳介さんは、僕より2年若いから1936年生まれ。土本さんの場合は1928年生まれのはずです。土本さんが岩波映画で働き始めるのが1956年、小川さんが契約助監督として岩波に現れるのは、確か1960年。岩波映画は既に若い映画人を育てるという若さも情熱も失い始めていた頃でした。8歳の年齢差があって、岩波に入るのも土本さんは小川さんより数年早い。岩波映画の中で、その頃ドキュメンタリーという言葉がやっと散見され始めた頃で、まだ記録映画と呼ばれていたのですが、土本さんは記録映画の方法論を体で学んでいったんじゃないかなと思うんです。ですから編集も含めて岩波の周りの仲間からいろいろ学ぶ機会が多かったと思います。

小川紳介の編集方法

小川さんの方はどちらかというと、編集を学ぶ機会に余り恵まれていなかった。作品を作るという機会にあまり恵まれていなかった。編集に多少携わることはあったかと思いますが、土本さんと比べると編集のベテランではないわけです。小川さんの場合は、自分のイメージに映画的な形の表現を与えるために、カメラに入っているだけのフイルム、たとえば最初は200フイートという撮影時間6分の16ミリフイルムを収容できるボルボというキャメラを使うわけですが、それを1ショットで廻しきるまで廻してしまう。後には撮影時間11分のエクレールなんかを使って11分フイルムを廻しきるまで廻す、という形になっていきます。彼の言によれば、「次に何が生起するかわからないので、結局、キャメラにフィルムが入っているだけ廻しきってしまう。」

それを今度は編集でもそのまま使おうとする。例えば11分なら11分というものを鋏をいれないで、彼は持続性ということを表現しようと意図して、その11分なら11分をそのままの形でボーンと放り出す。この11分とこの11分を繋げたらどうなるか、という思考方法をしていく。自分の映画的思考を表現するに、「適当な他の方法が見つからないんだよな」と、小川はよくこぼしていました。カットを短く切ってどうやって繋げていくかという思考方法は彼の中には初めから希薄だったようです。『圧殺の森』の段階ではまだカットを切っていく。カットとカットを繋げていくことをしている。割合、編集はされています。カットの長さも彼の後期の作品から比べてみると、かなり短くなっているということですね。それでも人間の生きる呼吸の間を生かすには、カットを長めに使うことを意識していたようです。カットとカットを編集して新たな意味を見出していくという、それまでの編集の常道を破っていくわけです。

画面と音を切り繋いで編集して作り上げるという方法は、『三里塚の夏』の頃までは続きますが、『三里塚の夏』を最後に、持続する時間、ショットの持続を表現の中心に据える方向を模索し始めるわけです。

▼page4 土本典昭の方法 に続く