【特別掲載/追悼 大津幸四郎さん】「対極のドキュメンタリー 小川紳介と土本典昭」オリジナル版第1部・講演篇 text 大津幸四郎 

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11月28日に逝去されたドキュメンタリーキャメラマン・大津幸四郎さん(享年80)。neoneoでは哀悼の意を込めて、大津さんの講演録「対極のドキュメンタリー —小川紳介と土本典昭—」を、2回にわたって特別に掲載する。

講演は2003年3月15日、東京・アテネフランセ文化センターで催された『映画美学校公開講座』で、『圧殺の森』(67、監督:小川紳介)『パルチザン前史』(69、監督:土本典昭)の上映に続き、第1部が大津さんの講演、第2部が筒井武史さん(映像作家)との対談、という形式で行われた。その後、大津さんの加筆・修正をへて、メールマガジン時代のneoneoに9回に渡って連載された(2004年8月15日〜12月15日号)。

この講演は、さらに2013年、大津さん自身によって手が加えられ、著作「撮影術 映画キャメラマン大津幸四郎の全仕事」(13、以文社刊)に採録されることになったが、neoneoでは2004年に連載された、オリジナル版を掲載することとした。生涯現役のキャメラマン・映像作家だった大津さんの、2003年時点での仕事や関心、講演当時の時代の空気などを感じ取っていただければ幸いです。(neoneo編集室・佐藤寛朗)

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はじめに

この記録は、小川紳介さんの初期のドキュメンタリー作品『圧殺の森』と土本典昭さんの『パルチザン前史』の上映後(2003年3月15日、アテネフランセ文化センター)、催されたセミナーで、レジメのつもりで話した、その記録に加筆したものです。小川紳介と土本典昭を対比して何か話して欲しい、そんな主催の側の要望でしたが、小川紳介さんの死と土本典昭さんの身体の不調のすぐ後で、そのショックの影をいまだ引きずりながらの話だった為か、分析に甘さが出てしまったかと思いますが、そのまま提出しておきます。

土本典昭、小川紳介、リアリティを追求する映像作家の双巨樹と言ってよいと思うが、二人の作風を比べてみると、そのベクトルの方向は正反対とも言えるのではないか、その辺りやや具体性を欠いてしまったが、自分なりに考えてみました。両者の映画に対する姿勢・方法のより明確な対比は、両者の映画制作の或る時点でカメラマンとして両監督と時間を共有した者に課せられた宿題かもしれない。
(2004年7月記)


『圧殺の森』と『パルチザン前史』の時代背景

 『圧殺の森』と『パルチザン前史』2本の制作は、ちょうどこれは1960年代の後半ですよね。『圧殺の森』が67年夏、『パルチザン前史』が69年夏、両者にはさまれて『三里塚の夏』があるわけです。60年代の後半というのは非常に面白い時代、若者たちの体制的権威に対する反逆の時代です。『圧殺の森』は67年ですね。67年の夏です。4月の入学式から撮影に入りまして、夏の間に、9月まで撮影するわけです。

これは、高崎経済大学という田舎の大学というか、そういうふうに言われていた高崎のわりあい新しい大学―ちょうどこの頃が、確か6回か7回目ぐらいの卒業生を出した、当時は新しい大学です―その中でこの年、更にもう少し前からも含めまして、大学に対する国家の干渉というか、それまで当たり前と認識されていた“大学の自治”を反古にして、国家が大学そのものをどのように管理していくか、産業界の要望にどう応えていくかを含めて、国家的統制の動きが非常に大きくなるわけですね。

今では当り前のことと考えられているかもしれないけど、例えば大学内で何か事が起こった場合、すぐに機動隊というか警察が大学の中にワッと入ってきちゃって、しかも簡単に、ほとんど大学の許可も取らないぐらいの形で入ってくる。そういう段階なんですけど、この『圧殺の森』の少し前までというのは、特に50年代には、私服を含めて警官が大学の構内に入るということは全くできなかった。それだけ大学というのは、ある一つの聖域という形での、権力からは全く独立した形で、きちっと学生と大学で管理されていたところなんです。いわゆる「大学の自治」というやつですね。

 

 前兆・三井三池闘争

ちょっと話がそれるかもしれませんけど、私が今撮影している九州、大牟田の三井三池炭坑の話をさせてもらいますが、1960年代の初め、いわゆる60年安保闘争、それと同時に産業経済的な部分において闘われたのが「三井三池闘争」です。僕はこの炭鉱の闘争をずっとここ1年半ぐらい、資本の側の動きも含めて、いろいろな証言を撮りながら複数の作品にしようと思って、それにずうっと関わっているんですけど。

三井三池闘争というのは、ちょうどエネルギー革命の時期なんですね。石炭産業は、1950年代までエネルギーの基幹産業でした。1960年代以前、特に1945年の太平洋戦争が終わった直後は、できるだけ多くの人間を炭鉱に呼び寄せようとした。そこでものすごい膨大な数の従業員に膨れてしまい、例えば三井三池の場合は労働組合員だけで2万人、という大きな労働組合になる。

石炭産業の歴史は国家と資本との関係、国家権力と産業資本との関係の歴史として見ると非常に面白いんですね。最初、明治の頃は国家権力が囚人を使って炭を掘らせるわけです。明治の中頃、炭坑は三井に払い下げられますが、囚人の使役付きでした。囚人労働は昭和の10年くらいまで続きます。同時に一番安い労働力、例えば婦人労働、女性の労働者を使っていくという形で、完全に国家権力といわゆる炭鉱資本が共同して、エネルギー支配をやっていくんですね。その中で資本はますます膨らみ、独占資本、国家独占資本へと成長していくのです。囚人労働から朝鮮人労働、中国人捕虜・白人捕虜の労働、国家との共謀の下に、次々とこれらの労働の上に築かれていく王国としての石炭産業があったわけです。

ところが、ちょうど60年頃を境にしまして、いわゆるエネルギー革命が起こってくる。石油という使用価値のより高いエネルギー資源が起こってきますね。そうすると石炭がどんどん衰退していく、その境目が60年なんです。「首切り」、最近はリストラなどと聞こえの良い言葉に置き換えられてしまいましたが、過剰な労働者を整理して、企業のリストラクション=再建を計ろうと、大量の労働者を解雇してしまいます。

企業の労働者支配の拠り所、解雇という暴力を振り回す企業・三井鉱山と、労働者の団結権、抵抗権を掲げて闘う労働組合。三井鉱山をバックアップする日本の総資本と炭坑労働組合を主体とする労働者達の闘い…総資本と総労働の対決と呼ばれたのですが、政治の局面での安保闘争、産業と労働の分野での三井三池闘争、この二つの大きな闘いが日本の戦後の社会を根底から変えてしまうのです。1年近い大々的な闘争になるわけです。この中で、結局、最終的には労働組合が負けてしまいます。中労委の仲裁で、最後に負けて、和解しちゃいます。

 同時に、その時今まで炭労という一つに結集していた労働組合が、闘争の中でいわゆる会社側の切り崩しに会い、新労働組合、新労組という第2労組を作っていくわけですね。これはほとんどの労働抗争における二つの動き、経済と労働条件をめぐって資本の側とぶつかり、その結果、労働組合側が負ける。そして労働組合が変質してしまう。同時に資本の側は労働組合を手なずけることでどんどん大きくなっていく、そしてその二大闘争で労働者の敗北した4~5年後には「もはや戦後ではない」と池田勇人(首相)なんかが言う形で、どんどん経済的に突っ走っていく。そして資本の要求のみが肥大化し、今のように政治的には無風状態になっていくというわけです。それが、ちょうど67年、まあ65年ぐらいからどんどん顕著に現れてくるわけです。

『三池』(05 監督:熊谷博子) ©2005 オフィス熊谷

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