【連載】原一男の「CINEMA塾」傑作選〜 テレビ・ドキュメンタリーの青春①〜 原一男×村木良彦×芹沢俊介

『あなたは・・・』(1965)©TBS 

『私は・・・』でみられた 方法論の深化

原 
で、そのあとにさらに方法的な模索というか深化っていう作業が続いていきますよね。今回残念ながら借りられなかったんですが、次は『私は・・・』っていうふうに視点を引っくり返したっていうふうに捉えていいんでしょうか。『あなたは・・・』『私は・・・』は、本質的に問題意識はおんなじだと思うんですが。緑魔子を使って『私は・・・』というシリーズを新宿編、赤坂編と。これは方法として生中継によるテレビドキュメンタリーという、これは今回上映できないんですが、若い観客たちにその次の段階での作業を話してやっていただきたいんですが…。


村木
 『あなたは・・・』をやったあと、私は三つのことをやったんですね。やったというか、試みたというのか。一つは生放送でドキュメンタリーを作る。それは、『私は・・・』というのを、これは寺山修司と萩元晴彦さんと一緒にやったんですけど。これは生放送なんです。で、緑魔子さんという女優さんが1回目は新宿、2回目は赤坂、街頭でカメラを持って立つと。それで質問ではなくて1分間しゃべってくださいということを通行人に聞いたわけですね。聞いたというか、どうぞ今から1分、これは放送されてますということ。1回目はものすごい人が集まってきちゃって、新宿の歌舞伎町だったもんですから、放送できなくなるかもしれないという恐怖感があったんですけど。カメラは1台しか用意しなかったんです、30分ワンカメラでいくというつもりで。で、生中継のドキュメンタリーの方法を探りたいっていう。これが一つですね。

それからもう一つは、これは寺山修司に非常に触発されたことも大きいんですが、フィクション・ルポルタージュというふうにその頃は言ってたんですけれども、つまりフィクション、現実の中にあるフィクションのくくりを投げ込んでみるっていう。で、ごっちゃにしたところで、しかしある種の時代の気分をつかまえていくと。これは『わたしのトウィギー』とか、あとで見ていただく『クール・トウキョウ』もそうなんですけども、そういう手法ですね。それからもう一つはトークといいますか、これも今日やるのかな…?

『われらの時代』ですね。

村木
そうなんですが、つまりしゃべり。その三つの実験をいろいろやろうということでやってたんですね。

原 
それで、緑魔子『私は・・・』のシリーズの新宿編、これは要するにさっきおっしゃった時間といいますか、持続という意味の時間、それが、生中継でワンキャメでっていう場では、結果としてどう展開したんでしょうかね。そしてそのことを村木さんご本人はどう当時受け止められたんですか?

村木
うーん、難しい質問ですね(笑)。

すいません(笑)。

村木 
当時のテレビの状況から言うと、こんなこと考えるのは、もう、ばかかきちがいかというような感じですから(笑)。何をやるかって、たまたま前の年に賞をもらったということで許されたんだと思うんですが、実はその生中継にも寺山修司がかんでるわけですから、いろんなフィクションが実は作られてましてね。例えば1分あげますと。1分しゃべる人たちの何人かは用意されていたわけですね。で、これはほとんどが天井桟敷の劇団員だったと思うんですが、天井桟敷は全然世の中に知られてない頃だから、誰も顔も名前も知らないという人たちが多かったんですが。

それで、しゃべることも決めてたんですよ、こういうことをしゃべれ、こういうことをしゃべれ、と。いろんな、バラエティ。で、寺山は順番まで考えてたんですね。こいつのあとにこいつがしゃべったほうが面白い。ところが本番が始まったら人がぶわーっとカメラの前に来ちゃったんで、もう順番も何もないわけですよ。放送を中止させないで出すのが精いっぱい、カメラをガードするとかで精いっぱいで、結局用意した人も満足にしゃべれないと。つまりそういう意味では、作ったものと現実にそこにいる人がしゃべったこととがごっちゃになっちゃったわけです、結果的には。だから、われわれの意図は完全にぶち壊されたんだけど、だけどぶち壊されたことがまた一つの作品になってくという、そういう…。何しろ30年前ですから。今から言えばあんまり珍しいことではないんですけども…。

原 
…そういう作品があって。実は今おっしゃったやつは僕は見てないもんですから何とも言いようがないんですが…。それから村木さんの作品系列で言うと、今回の上映の中に入ってないんですが、これがあるんですよね、釜本選手の。皆さん、こういう作品があるんですよ、村木さんに。これは当時見てて、ああ、そういう方法ってあり得るのか!と思って記憶に残ってる作品があるんですが。たしか釜本選手、当時サッカーで一流プレーヤーというか有名スターでしたね。で、カメラはそのプレーを追ってるんですよ。そして、音はそれを見てる観客の、男女でしたか、1組でしたかね、ちょっと僕も記憶が定かじゃないんですが、それをずっと写してる。

村木
3組撮ってます。

 あ、3組ですか。それはたしか映像としては、なかった…。

村木
  映像は撮ってないです。

原 
ないですよね。音だけなんです。今おっしゃった3組の観客席のやり取りの音だけ会話だけを全部流してるんです。画はプレーをずっと流してる…で間違いないですね?

村木  
そうですね。

原 
そういう手法なわけ。話し戻しますが『あなたは・・・』あるいは『私は・・・』っていうシリーズのあとの仕事ですよね。方法論的な深まりとしては、今説明した手法に移行するっていいますか、じゃあこういうことやってみようって思った、そのつながりは…?

村木  
いや『私は・・・』のちょっと前なんですよね。

原  
前ですか? 逆ですか?

村木 
ええ。『あなたは・・・』の次。『私は・・・』は6月ですから。

原  
そうでしたか。

村木 
これ、たしか4月。こちらが先で4月末ぐらいの放送、5月初めぐらいかな、放送だったと思うんですね。これは今はサッカーくじなんかやってますけども、釜本邦茂という人が早稲田の超エースで、エースストライカーで。彼が早稲田を出て、当時Jリーグはなくて日本リーグと言ったんですけども、ヤンマーディーゼルに入って社会人として初めてやる試合を、初めて東京でやる試合です、正確に言うと社会人として二つ目の試合なんですけど、それを撮った。で、観客席に3組のアベック、男女の観客の声を試合中録音させてくださいと言って録音して、それでそれを切ったりしたりしながら、それは関係ない「昨日のあそこのラーメンおいしかったね」とかいうのも含めて流したというふうな…。

原  
その発想の、アイデアの基になった何かあるんですか? きっかけとか何かがヒントになってとか? どういうことでそういう手法を生み出したんですか?昔の話で恐縮ですが。

村木  
これは本当は『現代の主役』というシリーズなんですけども、2月に萩元晴彦さんが『日の丸』という日の丸をテーマにした、2月の建国記念日の前後にやると。これやっていろいろ問題になって、閣議で問題にされたという、そういうことがあったんですが。私はそのあと5月の憲法記念日の前後に、憲法第9条…、『現代の主役』でやろうというふうに思ってたんですが、それでその準備をしてたんですが、その『日の丸』が問題になって偏向放送だということで自民党や政府の郵政大臣か何かがいろいろ言い出して問題になったもんですから、私がやり遂げたかった憲法第9条、お蔵っていうか作ってないんですけども、作る前に企画中止になっちゃったんですね。それでじゃあスポーツものならって、まあ当たり障りなく企画が通るからということで。企画の発想はそもそもそういうとこから発想している。

で、サッカー好きでしたから、大阪まで行って、当時の釜本選手にも延々インタビューさせてもらったんですけども、それは全く使わなかったんですけど。本当は試合中に彼にワイヤレスマイクをつけてもらって、試合中の声を取りたいと思ってたんですね。思ったんですけど、これはサッカー協会が、さすがにこれはルール違反であると(笑)。つまり規約の違反になるからそれはできないと。それでできなかったんですけども、その代わり、ライン30センチぐらいのところに移動車を100メートルぐらいで引きまして、そこにカメラを乗っけてね。で、そこに集音マイクを何台か置いて、ワイヤレスがなくっても声が何とか入るように。怒鳴る声は入るんです、つぶいたりする声も録れてるんですけども。

原  
観客の声はどの段階で? つまり、選手の音、声ではなくて観客の声でいこうと決めたんですか?

村木  
観客の2組は当日お願いして取らせてもらった。それから1組は、これは作った観客ですね。作った観客っていうのは、これは実は…、俳優の卵みたいな…。

原  
天井桟敷じゃないですね、今回は。

村木
 天井桟敷じゃなくて…ええ。某有名劇団の(笑)。

原  
ああ、そうですか。

村木   
実際にこの録音とってくれたのは、今は有名な大作家になったんですけども。シチュエーションだけ決めて、どっから出てきて、男と女とそれぞれどういうふうにして知り合って、今どういう関係にあってっていうシチュエーションを作って。それでテストまでやってですね。

原  
へえ、そうですか。

村木  
で、しゃべりは一切自由と。そこはちょっと寺山の流れをくんでっていうところですね(笑)、

 なるほどね。

村木   ってなとこなんですけど。でも実際には、作ったのはほとんど使いませんでした。それは、その場で頼んだ若いアベックの人のほうが何か生々しくてね、

原  面白かった?

村木   面白かったんで(笑)。ほとんどそっちのほうを使った。

▼page4 60年代のテレビドキュメンタリーの制作状況 に続く