私が今日、作り手としてあるのは、多くの先達の作品を貪るように観て、真綿が水を吸い込むように、そのエッセンスを学んだことが大きいと思っているが、映画だけではなくテレビの作品もまた刺激的なテキストであった。ドキュメンタリーに限らず、フィクションもまた、本気で学ぼうと企図したのだ。
「CINEMA塾」を立ち上げた最大の目的は映画表現をもっと深く勉強したい、ということに尽きる。その志に沿って、萩、東京、大阪、山口、高崎と各地で「CINEMA塾」講座を展開してきた。学ぶテーマを様々考えていくうちに当然、テレビを取り上げたいという欲求が強くなり、OSAKA「CINEMA塾」において、1998年、「テレビの青春」とテーマを設定して開講を実現した。
テレビは国家の免許を受けなければ放送という事業が成立しないという事情が何よりも映画というメディアと性格が異なる。私見だが、テレビ誕生(1953)以後、一気にメジャーになったが、国家の関与も早かった。そんな中で、“テレビにおける青春の時期”も、あっという間に駆け抜けていってしまったように思う。
束の間の短期間ではあったが、その間に生み出された作品は、自由で、エネルギッシュで、実験精神溢れるシュールな作品が数多く誕生した。TBSから後にテレビマンユニオンを立ち上げた故・村木良彦さんもその担い手のひとりだ。我が「CINEMA塾」においても是非とも取り上げたかったのである。(原一男)
第二回OSAKA 「CINEMA塾」〜ニッポン人は21世紀に向けてどう生きる?PartⅡ
〜テレビドキュメンタリーの青春〜
塾長:原一男、ゲスト:村木良彦(メディアプロデューサー)、芹沢俊介(評論家)
本稿構成=原一男 構成協力=長岡野亜、金子遊、佐藤寛朗
※本稿で扱う1960年代のテレビドキュメンタリーの制作状況に関しては、現在発売中の雑誌『neoneo』04号にも詳しい記述があります。あわせてご参照ください。
萩元晴彦『あなたは・・・』(1965)の制作プロセス
原 さっそく本題に入りたいと思います。1966年。著書(「お前はただの現在にすぎない テレビになにが可能か」※1)の中で「秋、萩元晴彦(※2)を知る。『あなたは・・・』の企画に共鳴して制作に参加。試行錯誤の制作プロセスの中でテレビジョンの方法について、衝撃的な転回点をつかんだことを意識する」というふうにあります。私も当時、この一節は、こんなふうにこの作品と出会ったことが、村木さんにとってとても大きな意味を持つんだっていうふうに記憶の中に鮮明に残っております。ここから入りたいんですが、萩元さんを知る、「『あなたは・・・』の企画に共鳴して」とありますが、どんな出会い方をなさったんでしょうか?『あなたは・・・』っていうこの企画に対して。
村木 私はもともとドラマを作るセクションにいて、テレビドラマを作ってたんですね。それで、たまたま66年の初めに報道局というところに移って、しばらくしてからある日報道局の偉い人が、一応一つの企画書を持ってきて、これ読んでみてくれと。萩元さんが書いた『あなたは・・・』というのは、『ある日』というタイトルの企画だったんですね。OneDayの『ある日』です。寺山修司と一緒に書いたタイトルの企画書だったんですけども、それを非常に面白いと私は言ったんですね。
だけど、その萩元晴彦さんの書いた企画書がTBSの中ではみんな、何だこれは、と。これはドキュメンタリーの芸術大賞のドキュメンタリー部門に参加する作品ということで企画を集めたわけですから、こんなものはできない、とみんながそう言ったんですね。どうも面白いと言ったのは、私ともうひとりのカメラマンと二人しかいなかったようなんですよ。それで、おまえ面白いと思うんなら一緒にやれ、と。そのときまだ萩元晴彦さんという人と会ったことなかったんですが…。
原 同じTBSの中にいても?
村木 同じTBSの中でも。というのは彼はラジオをずっと。ラジオのディレクターでテレビに来てあんまり間がない頃でしたから。で、作ったドキュメンタリーは何本か見て知ってたんですね。知ってたんですけども会ったことはなかったんで、初めて会ったんです。それで、何か話をしているうちに一緒にやろうということになって、それで寺山修司さんに会いに行って、それから始まったと。
原 そうですか。ちょっと今のお話の中で二、三確認しておきたいことがあるんですが、その企画書『ある日』、OneDayっていう企画書の中に、今この作品の中であります質問の項目まで書かれてたんですか? その段階で。
村木 質問の項目は書かれてたかどうかはちょっと、今は記憶が定かではないんですが、書かれてなかったように思います。
原 そうですか。じゃあ面白いと思ったとおっしゃった。どんなふうに面白いって思ったか? 本当に昔の話で恐縮なんですけど、覚えてらっしゃいますか?
村木 この作品のテーマは、日本人の孤独感というか、何を幸せだと思うかっていうことを聞いてみたいということだったんですね。だから一種のテレビアンケートみたいなものだった。それで、66年というのがちょうど、もはや戦後ではないといわれたのが、これは経済白書のタイトルだったんですけども56年なんですね。で、もはや戦後ではないというのは、単にさまざまな経済上の統計の数値が戦前の最高の数値を上回ったと、国民総所得とかいろんな政策のデータとかが、というだけのことを経済白書で記述したに過ぎないんですけども、やはりもはや戦後ではないという言葉が非常にインパクトがある言葉だったわけですね。それで1年もたたないうちにそれは一種の流行語みたい、つまり、もはや戦後ではない、もう戦後は終わったんだっていうのが当時の日本人の時代の気分みたいなもんだったんですね。
それで、ちょうど高度成長が始まってくると。その中で本当にどうも豊かになり始めたとはいうものの、実際の暮らしはあんまり、そんなに豊かになってきたのかなあといういろんな問題がでてきます、公害とか60年代と。そん中で幸福っていうことをいったいどういうふうに考えてんだろうかと。たまたまアニエス・ヴァルダという人が『幸福』という映画を作る…。
原 その頃でしたかね。
村木 ちょうどそのちょっと前ぐらいだったと思うんですが、それにも触発されたりして。その、幸福観を問うというか、そのことに引かれたんですね。
原 今、テレビアンケートって言葉を使われましたが、そういう言葉は企画書の中でもう提起なされてたんですか?
村木 ええ、提起されておりました。
原 方法論の問題としてね。
村木 そのときは方法としてはそこまで…。この本(?)を作ったときのように。これ早稲田の学生さん(インタビュアー)なんですけども、ここまで無機的に機関銃のように質問を連射するという方法も、あとで考えた方法なんですけども。ただ街頭でさまざまな人に、つまり無作為に、あなたにとって幸せとは何ですかっていうことを聞いてみようという…。そういう段階だったんですね。
原 で、萩元さんに会われたと。で、そんなに間をおかずに寺山修司さんとも会ったと。その段階で具体的な中身の、こう…。
村木 ええ、だんだん詰めてったわけですね。
原 その模様を少し、覚えてらっしゃるところを。どんなふうにこのかたちができあがっていったかを知りたいんですが。
村木 3人で集まって、寺山が書いた企画書の案ってのはもう何百っていう…質問が。
原 何百もあったんですか?
村木 山のようにあって、そっから萩元さんとそぎ落としてって整理して、それでまた彼と会うと。だいたい会う場所は新宿の汚い喫茶店か、彼の当時住んでた汚いアパートみたいなとこで。彼がちょうど天井桟敷という劇団を作る、これをやったあとに作ったのかな、ちょうど作る準備をやってる頃だったんです。ですから、彼んところに若い人たちが出はいりしてて、何かわいわいやっている雰囲気。
原 今さっきおっしゃった、機関銃のようにというような手法も、その3人で話す中でかたちとして決まっていくわけですか?
村木 ええ。最初はテストをやってみようっつうんでアナウンサーの人にやってもらったり、それから劇団の女優さんの卵みたいな、今で言えばタレントみたいな人です、をひとり街頭でやってみたり、みたくテストをやってみたんですね。で、どうも面白くないというかいまひとつ…。
原 そのときは何が面白くなかったんでしょう?
村木 何が面白くなかったんでしょうかね。何か普通のインタビュー、ご意見を伺うというそういうインタビューでね。もちろんカメラで撮りながらテストをしたんですけども、テストのフイルムで撮ったわけですから、そのフイルムを見てて思ったのは、これは質問の答えよりも質問を受けたときのその反応といいますか…。
原 戸惑いだったりとか、反感だったりとか…。
村木 そのほうが面白いし、それで十分わかると。言ったことがどんな言葉であれね。こっちの質問以前にね。で、そのことのほうが大事だと。それで、だんだんその聞き方を、もう素人の人でいこうと。一切職業的訓練をしてない、となって。高木くんっていうショートカットの女性、と男性は大学3年生か4年生だったと思うんですけども。それからもうひとりは、あの英語をしゃべってた人は大学院に入ったばっかりぐらいの人だったと思うんですが、今この人はたまたま私と同じ名字で村木っていうんですが、村木真寿美っていうんです、親戚でも何でもないんですけど。これ終わったあとベルイマンの勉強のために留学しまして、その後ずうっと。今ドイツ人と結婚してミュンヘンにいます。本も2冊ぐらい出してる、活躍してるんですが。この人たちに、ともかく相手の答えに惑わされないで機関銃のように質問をともかく撃ち込めという。それでも何度かテストをやったあとで撮影に入った。
原 じゃあ、1回目なんかのテストのときには機関銃のように、あるいは相手の質問をちゃんと聞かないまでに次の質問を重ねちゃえというようなことは、多分職業的アナウンサーがもし聞いたとすれば丁寧に丁寧に間をおきながら聞いてたわけですよね。多分つまらなかった…。
村木 そうですね。
原 それを試行錯誤する中で…。
村木 そうですね。
原 何回目ぐらいで、この手法、これでいけるっていうふうに思われましたか?
村木 割と早かったと思います。
原 へえ。これはシンクロですよね。
村木 シンクロです。
原 シンクロで、そして3人で話をしているシチュエーションの場合は?
村木 これ、複数のカメラ、だいたい3台ぐらい。当時白黒のフイルムで、同時録音のカメラってのは、同時録音すること自体が大変だったんですけど。
原 そうですよね。
村木 今は想像もできないでしょうけども、フイルムで撮る、特にテレビの映像を撮るってのは、音のない、サイレントで撮って、音は音で別に撮って後でそうなんでsか合わせるっていうのが普通のやり方でした。同時録音で撮るってのが大変なことだったんですが、萩元晴彦ってのはラジオで録音構成のような仕事をやってきた人ですから、彼がテレビに来て、テレビは画だという概念というかそういうふうにみんな思ってたわけですがね、普通の人たちは。で、彼は、テレビは画じゃないと。
原 へえー。そうなんですか?(笑)。
村木 (笑)ということを言い出してたんですよ。画じゃないってことは、つまり画になるとか画にならないとか。われわれ、私なんかもドラマやってましたから、ああ画になるなと、この風景は画になるとかって普通にそう思いますよ。ただ、萩元さんはちょっと発想が違ってたんですね。最初はいろいろ編集してたんですが、だんだん編集しないで、できるだけワンカットでやったほうが時間が伝えられるっていうか、いいってことにだんだん気がついてきたんですね。それはラッシュを見ながら、見てるうちに気がついてきたことなんですね。
それが一つと、それから毎日、撮影に行っては帰ってくるとその前の日の上がったラッシュを見て。すると撮影しているときに、これはいいのが撮れたと思ったりするじゃないですか。音がついててね。ところが帰ってきてラッシュを見ると、必ずしもそれは一致しないんですね。現場でいいのが撮れたと思ったものと、失敗したなこれはと思ったものと、そのラッシュを見たときの良しあしとが。良しあしいうか、むしろ面白くない。で、次の日になると、また違うんですよ。それで毎日どんどんどんどん変わってくんですね。
それで撮り終わって編集に入り始めた頃から、最初にこういう構成でいこうと決めたものと最後にできあがったものと全然違うんですよ、ほとんどね。入れ代わり入れ代わりしてって。それでそんときに私はドラマやってましたから、ドラマってのはシナリオがあってこうなってこうなってっていう、いわば入り口と出口が決まってるようなもんですよね。それでいかに盛り上げていくかとかそういう計算をするっていう、そういう作り方に慣れてたわけですから。そうではなくて毎日毎日のプロセスだっていうか、プロセスがそのまま番組になってくというか、ということに気がついたわけですね。そのことも非常に大きかったっていうか。
▼page2 テレビは「画」ではなくて 「音」である に続く
※1『お前はただの現在にすぎない–テレビになにが可能か』萩元晴彦・村木良彦・今野勉著(1969年初版)
TBS闘争に端を発した、テレビの可能性を巡る議論の記録。テレビの本質をもっとも深く問う本として、現代に至るまで読み継がれている名著。(2008年朝日文庫より再販、現在品切れ中)
※2 萩元晴彦 はぎもと・はるひこ
1930年、長野県生まれ。早稲田大学文学部卒業後、ラジオ東京(現・TBS)に入社。ラジオの録音構成を経てテレビ報道部へ。『あなたは…』(1966、村木良彦と共同演出)『現代の主役・日の丸』(1967)などの異色作で注目を集める。村木、今野勉らと共にテレビマンユニオンを創設(1970)後は『オーケストラがやってきた』(1972)などの音楽番組を多く手掛け、1998年の長野オリンピックでは開会式・閉会式の総合プロデューサーをつとめた。2001年没。