【連載】原一男の「CINEMA塾」傑作選〜 テレビ・ドキュメンタリーの青春①〜 原一男×村木良彦×芹沢俊介


60年代のテレビドキュメンタリーの制作状況

   テレビって放送して、番組とか見た人が、視聴者が電話かけてくるでしょ。僕は田原さんとちょっとおつき合いありますけど、必ず放送直後に電話かかってくるんですよね。で今、お聞きしますと、その釜本選手の番組、今日はないんですが、視聴者の反応っていいますか、批判っていうんですか、分からないっていうような反応は?

村木   いっぱいありました(笑)。

   そっちのほうが多かった?

村木   そうですね。企画ものはだいたいほとんですね。

   ほとんど?

村木   ええ。釜本の足を何で撮らないかとかね。

原   つまり、スポーツとして撮ってないことに対する不満?

村木   ええ。そうです。そこは、単純に宣伝ぐらいのときは、やっぱりあの釜本が出ますっていうふうな宣伝をすべきでしょ?

   うんうん(笑)。

村木   私は、全編、本当は釜本のアップでいきたかったんですが。だけどサッカー場って広いもんですから、望遠レンズを使って最前線まで行って撮ってもなかなか撮りきれない。追いきれない。で足を何で撮らないかっていう…。

   ああ、そうですか。そういう作りに対する非難も、もちろんあった?

村木  もちろんありました。

    非難の言葉ってどういう言い方ですか? 分からないっていう言葉に大体集約されますか?

村木    普段は、だいたい局にいて、電話を取るんですけど。たまたま釜本の放送日は労働組合がストライキをやってましてね。ベースアップか何かありまして。それで、放送のときに実際自分ができなかったんですよ。ほかの人に任せざるを得なかったんで。放送のときに字幕を入れたりとか、いろんな、放送のときにやんなきゃない作業があるんですよ。で、それを自分でやらなかったんです。誰か、部長さんか誰かがやったんでしょうね。だから、仕事場にも行けなかったから…。だから直接電話、そのときは受けてないです。

原    あ、そうですか。で、さっき聞きそびれましたけど、『あなたは・・・』のときの反応はどうだったんですか。賞をもらったっていうのは別にして、視聴者の人たちの?

村木  概して面白かったという反応をもらいました、そのときは。はい。

   へえ。これは、面白いですもんね。

村木 そうですね。これは、武満さんの音楽が、あんまり表に出なくて、音楽つって前に来てないんですけども、非常によかったと思うんですね。武満さんの、何かおかげでというか。うまく集約してくれたっていうか、そういう…。

 そうですか。それで、そのあとの『私のトゥイギー』、『フーテン・ピロ』と続いていきますね。それから、このあとのトークのあとに『クール・トウキョウ』と続いていきます。で今改めて連続して見ますと、観客として見たときに、非常に、私っていうことが執拗に問われてる、問うてるっていいますかね。もちろん被写体になっているのは、いろんなトゥイギーでありフーテンの女の子であり、それぞれの主人公たちを画としては追ってはいてもですね。観客として私なら私に迫ってくるのが、私っていう、私って何なんだっていう問いが、どの作品も皆、これはけっして悪い意味じゃないんですが、ワンパターンっていうか連続した作品のように迫ってくるんですね。で、その辺の村木さんのこの67年、68年ですかね、作られたのは。『わたしの火山』が68年になりますか。本当にこの67年は多作ですよね。一気に村木さんの作品の、傑作が全部ここに、短かい期間の間に作られてるんですよね。そこまで私にこだわられたっていうのは、いったいなぜなのかっていう…。

村木 ご承知のようにテレビのドキュメンタリーっていうのは、大体NHKの『日本の素顔』から始まって、牛山純一さんの『ノンフィクション劇場』とかにつながってというか、そういうふうに語られることが多いんですけど。『日本の素顔』は50年代の、59年の暮れから60年にかけて、羽仁進さんと吉田直哉さんということで『日本の素顔』やってた。吉田直哉さんと羽仁進さんの大論争ありまして。それは羽仁さんが批判したわけですね、『日本の素顔』を。で、それに吉田さんが答えるという『中央公論』という雑誌で論争がありまして。そのあとNHKが『日本の素顔』の制作を報道局の制作に移したんですね。

で、それまで教養局社会部というところで作ってたんです。吉田直哉さんはそこの教養局の人だったわけですね。で、それを報道局に移すと。つまりそれはなぜかっていうと、『日本の素顔』のようなドキュメンタリーが、客観性を欠く、主観的なドキュメンタリーが多くなってくるのは問題であると。つまり報道局の中に置いて、ある種の客観的なニュースを作ってる人たちの、その延長上のかたちでドキュメンタリーを作るべきだというふうな考え方で。ちょうど63年頃に、報道局に移るのは62年か1年かに、何か正確な年代を忘れましたけど。60年代の初めなんですけど。で報道局に移る。それで、吉田直哉さんはそこでドキュメンタリー作るのをやめるわけです。つまりドラマのほうに移るわけですね、フィクションのほうに移るわけです。それで『太閤記』とかね。

  大型ドラマ。

村木 大型ドラマをやるようになるわけですね。で、当時のわれわれとしてはそれも一つの事件だったし、それから『ノンフィクション劇場』が63年に始まるんですけども、牛山さんってのは、もともとニュースをやってた人なんです、ずっとね。逆にこの人は、この『ノンフィクション劇場』で、映画的な手法を使ったドキュメントをよう作るようになっていく。その2人の先輩の、違うテレビを作る方法…考え方が分かれるわけですけども、それに非常に影響されてたですね。一方では、今やってるらしいですけども、黒木和雄さんなんかが、記録映画というジャンルで…。多分私もずっとその頃通って見てたという感じが…。

  あ、そうですか。

村木 
ありますけども。そういう中でドキュメンタリーって、客観的にということは、つまり表現するなっていうことですから(笑)。言うなればね。

  ああ。

村木 つまり私というものを切ってくってことですから。だけど、人に何かを伝えるときには、表現しなきゃ伝えられないわけです。表現なしに、そりゃ映像に限らず、言葉でも、口でも、表現なしに人にものを伝えられるかっていうふうなことがありますよね。それで、いかに私というものを作り手の中にも復権させるかというか、それがやっぱりその頃やろうと。で、それは必然的にテレビの番組の中では異端になってくわけです、どんどんとね。ただテレビの作品ってのはこういう一つの作品っていうんじゃなくて、テレビの作品っていうのは、朝から晩まで放送されている24時間の時間の流れが一つの作品というふうに、その頃思ってたんですね。

で、いわば一つの番組はそこにはめ込まれた一つの部分であると。少しかっこいい言い方をすれば部分であるというふうに考えてて。それでこの24時間の流れの一つの作品が持っている一つの価値観に拮抗する何かを部分が持たないと、全体がそのまま全体として、どんどん流されていくというか。で、そのことに多少なりとも抵抗する、すんなりいかないものを入れるべきだというふうに(笑)思ってたもんですから。それから、なるべく異端でありたいと、むしろね、というふうに思ってたんですね。つまり絶対の価値観に拮抗する価値観、30分なり1、時間の中で出すことによってっていう、ね、そのことで、ある種自分自身の精神的バランスも多少それでとらないと、それはもう辞表たたきつけて辞めてくしかないわけで。それが私の、もう1人私の先輩で言えば、岡本愛彦さんっていう『私は貝になりたい』っていう…。あの人が辞めたのも63年。

   ああ。

村木    だから63年っていうのは、そういう意味で、吉田直哉さんがドキュメンタリーやめちゃって、牛山純一さんが『ノンフィクション劇場』を始めて、映画的手法に入っていくと。で岡本さんは辞めていくと。ひとり寂しく辞めてくわけですけども。私は岡本さんの最後のドラマのアシスタントやってたんですよ。それで彼は終わってからひとり、お疲れさんっつって、廊下をひとり歩いていくのを見ててね。局を離れるってことは、映画監督になったり舞台の演出家にはなれるだろうけど、テレビは作れないってわけですね。で、作れなくなるわと思ってたわけですね。だから最後まで反対したんですけども、岡本さん辞めないでくださいというふうに言ったんですけども。そういうのも見てて…。

▼page5  コラージュの手法、やがてTBS論争へ に続く