【連載】原一男の「CINEMA塾」傑作選〜 テレビ・ドキュメンタリーの青春①〜 原一男×村木良彦×芹沢俊介


コラージュの手法、やがてTBS論争へ

原 
今、伺ってますと、やっぱりテレビに敗れてっていう、そういう感じがやっぱりあるわけですから、岡本愛彦さんの場合は。ちょっと言い過ぎですかね、そうまで言い切っちゃ。

村木 そうですね、彼は、その頃、その1年あとかな、東京12チャンネルもできるし、テレビの場ができるんじゃないかというふうに思ったんでしょうね。フリーの演出家としてやってけるだろうというつもりがあったんでしょうね。

原 そうか。それで、さっきもちょっとおっしゃったんですが、連作、多作といいますか、67年から68年にかけて。この中でコラージュって言葉を、かなりあちこちで、方法論についての文章の中で使われてます。このコラージュっていう言葉の説明を、ちょっと若い人たち教えてあげてほしいんですが。

村木 断片を集めてきて、ある種、台本っていうね。つまり赤軍みたいなもんで(笑)。どんどん切ってって、コップならコップ、どんどん切ってって、ちっちゃなものになってって、それを重ねあわせたときに、一見元のコップのようだけど何か違ってくる、そういうコラージュって、断片を積み合わせて、ですよね。つまり分かりやすい番組を作るってのは、この頃から始まったわけですね。テレビって…。

  締めつけがその頃から始まったっていう意味ですよね、要するに。

村木 ええ。60年代半ばぐらいからなんですよ、つまり、分かりにくいと言って怒られるようになったのは。それまでは実験とか冒険とか、表現の実験とか冒険とかが、かなり大目に見てもらえた時代だったんですけど。で、今はもうともかく小学校5年生に分かんないものはテレビの番組として成立しないわけですけども。今は違いますけど、少し前まで子どもがチャンネル権を握ってたから、子どもに分からないものは視聴率が取れないと。だから子どもにも分かるように作んないといけない。だからニュースドキュメンタリーみたいなことがあると、小学生が分かるように作るっていう絶対条件になり始めたのがちょうどその頃だったんですね。

で、その頃PTAのおばさんたちが、テレビ俗悪論争ってのもありまして、ポルノ雑誌と同じようにテレビの番組も、子どもに害悪を与えてると。捨ててしまえと、やってしまえというふうな議論がどうっと起こったのが、最初が60年代なんですね。それで、私なんかはむしろ逆で、テレビの害から子どもを守れというんじゃなくて、子どもからテレビを守れというね(笑)。守りたいと。大人の見るテレビを作りたいと逆に思ってたもんですから、そういうこともあって、いろんな方法的な実験をあえて試みたっていう。この67年ってのは、最後にそういう実験が、多少ゲリラ的な要素はあったにしても許された最後の時代だったんじゃないでしょうか。68年に全部なくなるわけです、それは。

  テレビで…。

村木  ええ。

『私の火山』が最後に、村木さんの作品ペースで言うと、そのあとにTBS論争って、つまり成田の事件のことですかね。TBS論争っていうのは。

村木  たまたま三つのことが…。

  事件が起きるという。

村木  ええ。私と萩元さんが配置転換で出られるということが一つと、それからもう一つは、成田で角材を運んだという事件が起こったと。

ですよね。

村木  と、それからもう一つは、田英夫さんというニュースキャスターが解任されるという、その三つの事件がたまたま…。

  ですよね。しかし今、許されたっておっしゃったけど、それはそうなんですか?
その都度、その都度、1本ずつの作品が、やっぱりテレビ局の中で緊張感をはらんで、戦い取っていくというような状況もあったんですか?

村木 そうですね、ええ。

  そんなに簡単に、次から次へとその方法を認めるというような空気があったようには思えないんですが(笑)。

村木 そうです、一つ一つ戦争をやって。『私の火山』のときは、放送が始まってから、まだ放送してる、出してる途中で、見てもらうとわかるんですが、ある音楽を差し替えろっていう別な音楽にね。そういうプロデューサー命令があったんです。それで…。

原 プロデューサー命令?

村木 ええ。プロデューサーは管理職ですから。関係する責任者ですから。実際の創作っていう作るほうには、もともとタッチしてないんですが。できたものを見て、意見を言うだけのことなんですが。たまたまそのときに言われて、結局それは業務命令だと言うんで、一応二つ用意して、で、放送始まっちゃったんですよ(笑)、もう時間がないから。それで放送の途中で、もう業務命令って言われると、つまり従わなければクビ、即クビですから。クビにできるわけですから。これはやむを得ず変えたところもあるんですが。つまりそれほどの戦いが、そうしょっちゅう花火じゃないんですけども(笑)、と言ってもそういう意味では戦いだったと思いますね。

原 ああ。戦いだったと思いますね…っておっしゃる。僕は組織の中でそういう戦いをしたことがないんでわからないですが(笑)、かなりしんどいんでしょうね。その組織の中のそういう戦い方、龍村さんもテレビでそういう戦い方をね…。

村木  そうですね。

  なさってますけどね。

村木  龍村が、キャロルは、キャロル何年でしたっけ?

 あれ何年?

女性A 73年。

村木 73年ですか。少しあとですね。

 例えば、局の中での戦い方って、具体的な、日常的な言葉での攻撃とかいうこと、まさかそんなことはないでしょ? どんなかたちで出てくるんですか?
企画がすんなり通らないとか?

村木 ええ。当時私がいたテレビ報道部というドキュメンタリーを作るセクションがあって、そこに10人ぐらいいたんですけど。萩元さんもそこにいた。いろんな人がいたんですが、そこは非常にフリーにディスカッションというか、それこそテレビは画だと思ってる人たちもいるわけで。本当にそこでは怒鳴り合いのような、そういう会議を毎週やってたわけですね。でも会議が終わると飲みに行ったり、飯食いに行ったりとか、それはそういう雰囲気だったんですね。

  そうですか。

村木  憎み合ってというそういうことではなくて(笑)。

 そうですか、なるほど。で、まだ『私のトゥイギー』と『フーテン・ピロ』しか上映してないんですよ。『あなたは・・・』と『クール・トウキョウ』と『われらの時代』『わたしの火山』、というふうに上映していきますね。ということで、あとは芹沢さんお願いしますね。問題提起を受けて、時代との関係を引き継いで論じていただくというふうにしたいと思います。じゃあ村木さん、この第1ラウンドはこれで締めます。とりあえずありがとうございました。

村木 どうもありがとうございました。

(つづく)


【プロフィール】

村木良彦 (むらき・よしひこ)
1935年、宮城県仙台市生まれ。東京大学文学部卒業後、ラジオ東京(現・TBS)に入社。テレビドラマ『陽のあたる坂道』(1965)などを演出後、報道部へ。『わたしのトゥイギー』(1967)『フーテン・ピロ』(1967)『わたしの火山』(1968)など、斬新な番組を数多く手掛ける。1970年、萩元晴彦、今野勉らと共にテレビマンユニオンを設立。後年はメディア・プロデューサーとして「地方の時代映像祭」「東京メトロポリタンテレビジョン(MXテレビ)」などの設立にも携わった。2008年没。

 【作品紹介】

ドキュメント『あなたは・・・』

プロデューサー 萩元晴彦   脚本 寺山修司
TBSオンデマンドで配信中

サラリーマン、ボクサー、モデル、子供、主婦、アメリカ兵・・・。東京の街で出会った老若男女829人に同じことを質問し、その答えによって構成したテレビドキュメンタリー。寺山修司が構成を担当。意表を突く場所で意表を突く質問をするという画期的な手法は、当時大変なブームを呼んだ。テレビドキュメンタリーの原点とも言える伝説的番組。昭和41年度(第21回)芸術祭奨励賞受賞。

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