ツービートの漫才を吟味する(Ⅱ)
ただ、いずれにしても、漫才のメインストリームを行くことは、当時のたけしにとってはキツかった。たけしが後々になっても繰り返す、東京の言葉で漫才をする不利という壁があった。
「(東京で漫才がなかなか定着しない理由に)大阪弁と東京語の大きな違いがあった。東京語でしゃべると、どこか間が抜けそこなうのである」
(森秀人・前掲書より)
そこでたけしは、落語家のまくらの話し方を参考にしている。「ですな」「なんですな」の多用。これは、古今亭志ん生の口グセだ。
それが、3ヶ月後に収録の『PART2』では「ですな」はかなり姿を消している。東京の漫才とは……などと悩まず、キーワードの体言止めや、「ね」「ですから」で十分と掴んでいる。さらに、
たけし「ファッション見るとそいつの性格分かりますからね」
きよし「なるほど」
たけし「うちの兄貴の弟なんか凄いぜ。頭なんか角刈りにしてんの」
きよし「角刈りィ? 何がファッションセンス、」
たけし「お前、兄貴の弟っつったらツッコんでくれよたまに」
と、反復に慣れたきよしを逆にやりこめてアドリブ的な笑いをこさえる余裕。ボケながら全体の進行を掌握する、僕らが散々見知った1980年代のビートたけしがもう完成されている。一方で、こんな80年代のたけしらしさも。
たけし「あ、頭いてえ」
きよし「どうした」
たけし「あんまり客が遅くて」
さらに2ヶ月後、1980年の12月30日に収録の『PART3』では、
たけし「漫才も最近はブームになりましてね」
きよし「おかげさまで嬉しいですよ」
たけし「忙しくなってくとホント私なんか最近漫才やりたくなくなっちゃってね」
きよし「あ、こりゃそうでしょう」
たけし「漫才師やめちゃってね、こいつと二人、二人でね、客の前でバカなこと言って遊んでたほうがよっぽど楽しいですよ」
きよし「そそ、それが漫才じゃないかお前、何を言ってるんだお前は」
たけし「それが漫才なんですか」
きよし「それが漫才なんだ」
たけし「ああそうですか」
番組収録で漫才をやっても、何を言おうと笑う女の子達ばかり。早々に見切ってしまった倦怠を経て、きよしの相変わらずの平板なツッコミを「そうですか」と静かに吸収するに至る、寂しさを含んだ、新たな次元のおかしみ。
「いつの日にか作り話でもいいから売れた話がしてみたい、せめて作り話の種でもいいからさ、ちょこっと売れないかなあ」(『漫才病棟』1993・文藝春秋)
と浅草時代にもがいていたのに、ゴールデンタイムのテレビの風景はそれほど輝くものでは無かった。この、そんなものだったのか、という諦観が、芸能界・放送界の頂点に立とうと追われるようになぜか勉強し続ける、この人の原点なのだろう。
ニッポン放送の深夜ラジオ『ビートたけしのオールナイトニッポン』がスタートしたのは、『PART3』収録の2日後、1981年1月1日。
ビートたけしがお客の違う活動の場を増やすことで「万才」師としてのバランスを取る日々は、ここから始まった。
※盤情報
『THE MANZAI』
1980
キャニオン・レコード
MONO/2,000円(当時の価格)
若木康輔(わかきこうすけ)
1968年北海道生まれ。フリーランスの番組・ビデオの構成作家、ライター。
今回は長々とすみませんでした。ただ、おかげで「漫才ブームは何だったのか」考える宿題に一つ取り組めました。漫才ブーム以降のビートたけしの活動については、キネマ旬報・編『現代日本映画人名事典・男優篇』(2012)で書かせてもらっています。図書館などで見かけましたら。
ところが。『THE MANZAI』シリーズ3枚を今聴いて、実は一番面白かったのは、のりおよしおとザ・ぼんちでした。ツービートとやすしきよしを真剣に聴き取っている合間に、話の脈絡に全く関係なく「誰が石田三成やねん!」と急に怒り出すのりお、「僕のお母さん、蒸発してしまったんです。僕がヤカンに火をかけたせいで……消えてしまったお母さん!」と涙声で叫ぶおさむちゃんに、アハハハと声に出して笑ってしまった。即興性が少なく、筋立てがナンセンスなりにきっちりしていると、 ネタの風化が一番少ない。ひょうきん族では脇だったのに玄人には正統派と評価される、両コンビの実力を初めて思い知られた気が……新しい宿題が生まれてしまいました。
http://blog.goo.ne.jp/wakaki_1968
12月17日19:00開催!
定例イベント ワカキコースケのDIG!聴くメンタリー atポレポレ坐 Vol.6
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