【連載】「視線の病」としての認知症 第17回 社会が動くとき text 川村雄次

オーストラリア連邦議会議事堂(2009年 キャンベラ)

「視線の病」としての認知症
第17回 社会が動くとき

(前回第16回はこちら)

クリスティーンが声をあげたことでオーストラリア社会は変わっただろうか?

そんな問いを投げかけたのは、「クローズアップ現代」のプロデューサーだった。彼は私と同期入局なのだが、それまでおそらく一度も話をしたことがなかった。偶然、2008年の「楽団FUKU」のオーストラリアへの旅の番組を見て関心を持ち、連絡してくれたのだ。日本ではクリスティーンの発信により、特に「認知症ケア」の進展に大きな影響があったようだが、本国オーストラリアではどうだっただろうか?番組を見ると、変化があったように見えるが、何がどう変わったのか、もっと知りたい。もう少し取材を進めて、そういう関心にこたえる番組を作ってはどうだろうか、と。

それは、「たった一人があげた声を社会はどう聴くのか?」という問いでもあった。私たちはクリスティーンの側に立って、「聴くべきだ」という立場で取材してきたが、「聴かない」という選択肢も当然ある。何しろ数が少ないから、無視することだってできるのだ。そして、聴くか聴かないかでどんな違いが生まれるのか?そもそも「社会が声を聴く」とはどういうことなのか?認知症を、医療やケアという「個人の問題」としてではなく、「社会の問題」として考えることを促されたのだった。

今考えると、プロデューサーに投げかけられたこの問いに答えることが、認知症についてさらに10年以上にわたって私たちが番組を作り続ける動機になった。「是非!」と即座に答えたことは言うまでもない。

私たちは、2009年1月31日、再びオーストラリアにロケに向かった。撮影 南波友紀子、音声 吉川学という、2004年のロケ以来の同じ顔ぶれでの4度目の旅。目的地は、首都キャンベラに絞った。オーストラリアの政治・行政の中心であり、連邦政府の官僚だったクリスティーンが、診断当時暮らしていた土地でもあった。

クリスティーンに会うことを予定に含まない初めてのロケだった。かわって私たちが訪ねたのは、1年前に認知症と診断されたばかりの55歳の男性が妻と暮らす一軒家だった。男性は30年間、高校で数学を教えていたが、数年前から少しずつ記憶などに異常を感じるようになり、教室に入った時、生徒たちの顔や名前を全く思い出せず、パニック状態に陥ることもあった。自分の身に何が起きているのかわからず、恐ろしくてならなかったという。自分の職場に行って、そこにいる人全員が見知らぬ人に見えたとしたら、確かに恐ろしくてならないだろう、ということは容易に想像できる。

行動を起こしたのは妻だった。彼女は夫の身に何が起きているのか情報を求めてインターネットで検索し、アルツハイマー病協会のホームページにたどりついた。トップページは3つの入り口に分かれていた。1つ目は、認知症の本人のための情報。2つ目は、介護者のための情報。3つ目は、その他の人のための情報。まるで銭湯の入り口が男湯と女湯に分かれているみたいだった。本人向けのページには、認知症とはどういう病気かをはじめ、診断された後に本人がするべきことは何か、どんな支援が受けられるのか、様々なサービスのメニューが示されていた。

3つの入り口のどこから入っても、24時間利用できる無料の電話相談の番号を紹介していた。妻はそこに電話して医師を紹介された。男性が認知症と診断されたところでもう一度相談。今度は、診断された人と家族のために協会が行っている「記憶障害とともに生きるプログラム」という勉強会を紹介され、夫婦それぞれに参加した。さらに男性は、週に一度、本人同士の「お茶の会」にも出席するようになった。私たちはその取材を許された。

私のインタビューに対し男性は、「原因が認知症だとわかり、怖くなくなりました。原因がわかれば、それに対処すればいいのです」と現在の心境を語った。

協会が行う「記憶障害とともに生きるプログラム」の案内(2004年 キャンベラ)

こうしたことは、今ではそれほど驚くことではないかもしれないが、当時の日本では想像を絶していて、にわかに信じがたいほどだった。そもそも日本の認知症医療の現場では、本人に対する病名告知はほとんどなされていなかったのだ。本人に言ってもわからないか、たとえわかっても残酷なだけだから、家族とだけ話をする、というのが、一般的な診療スタイルだった。「認知症と診断される」ということは「人生の終わり」を意味する、とほとんどの人が考えていた。「診断された本人をどう支援するのか」という問題意識は生まれようがなかったのである。クリスティーンが診断された1995年当時のオーストラリアも同じで、「本人に対する支援は何もなかった」のである。

男性を取材して私がとりわけ驚いたのは、現在の妻と結婚したのは診断された後だ、と話してくれたことだった。男性と妻とは、いわば「もう1組のクリスティーンとポール」だったのだ。妻とは以前から交際しており、クリスティーンが診断後に新しい結婚相手を探したのとは異なるけれど、診断後に「新たな人生」に向けて踏み出したことは同じだった。クリスティーンの診断時には存在していた、認知症を「人生の終わり」と直結させる思考回路は既に断ち切られていた。また、男性が通う「お茶の会」では、初期認知症という一点でつながる、年齢、職業、性別の異なる人びとが、基本的には「普通の世間話」を楽しみながら、自分の病気について話し、時に涙ぐみ、時に冗談を言って笑い合っていた。それはもともとクリスティーンの要望で始まったものだが、今やオーストラリア各地で行われるようになっていた。「人生の続き」を生きようとしている人たちが男性以外にもたくさんいて、その受け皿になっていた。

クリスティーンが診断された1995年からの10数年で、オーストラリアで「変化」が起きたことは明らかだった。

では、たった1人が声をあげたことがどのようにして「変化」につながったのか?私たちは、「クリスティーンの声を聞いた人たち」の話を聞いて回った。浮かび上がってきたのは2つの種類の人びとのグループだった。

1つは政治家である。2020年の今、新型コロナウイルスの感染拡大で、政治というものには多くの人びとの生死を決定づける力があるということを、世界中の人たちが強く認識したと思うが、実は平時においても、政治には、その地に暮らす人の人生の長さや質に影響を与える大きな力がある。どういう制度を作るか、どこにどれだけお金を使うかによって、人々の人生の大枠を決めると言っても過言ではない。(その力がいちばんはっきりと表れるのが戦争である。その国の為政者が国民の命をどう見て、どう扱うかによって、戦死者の数や死に方に大きな違いが生まれる。)

オーストラリアは日本よりずっと若い国である。日本の高齢化率が世界一で、30%に迫る勢いであるのに対し、半分程度。ところが、認知症の問題に政治が目を向けたのは、世界的に見ても早かった。2005年には認知症を「保健における最重要課題」の一つに位置づけて大幅に予算を増やし、翌年には認知症国家戦略をうちだしているのだ。認知症と診断された人たちを支援するしくみが整えられたのは、そうした政策の一環だった。

その流れを作るのに大きな役割を果たしたのは、連邦議会内の超党派の議員連盟「認知症の友(Parliamentary Friends of Dementia)」である。2003年に、当時の首相と野党党首の支持を得て発足した、認知症を政争の具にせず、中立・純粋に向き合おうとする議員のグループである。オーストラリアには、その他の病気やスポーツ、ユニセフなど様々なテーマについて、こうした議員グループが作られている。(それは日本でも同様だろう。)

ではなぜこの時期に認知症の議員連盟が作られたのか?そこに関わるのが、もう1つの人びとのグループである、チャリティー団体の「アルツハイマー病協会」である。(その当時はAlzheimer’s Australia、それ以前はAlzheimer’s Association、現在は、Dementia Australiaと刻々と名称が変わるのだが、同じ一つの団体である。)この「アルツハイマー病協会」とは一体何か?取材を始めた当時、私にはいま一つピンと来ていなかった。

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