【Interview】ドキュメンタリー・フォトグラファーの肖像 #01 友となり、隣人となり、暮らしのなかでシャッターを切る――藤元敬二さん

「ドキュメンタリー写真」という領域がある。いずれもその境界線はあいまいなものながら、報道写真でもアート写真でもなく、そのはざまに身に置きながら、状況のなかにあるさまざまな人間を、あるいは人間がつくり出すさまざまな状況を、撮りつづける写真家たちがいる。

「neoneo web」では、これまで亀山亮氏(『AFRIKA WAR JOURNAL』)、田代一倫氏(『はまゆりの頃に』)にインタビューをおこない、写真家たちのそれぞれのドキュメンタリズムにせまってきた。今回は、本誌「neoneo」03号の巻頭にフォトストーリー『Instant Gamble』を寄せてくださった藤元敬二氏に、あらためてお話をうかがう機会をえた。

藤元氏はこれまで、ネパール、中国、北朝鮮、タイなどを渡り歩き、苛烈な状況のなかにある人間のすがたを、つとめて冷静な距離で、おもにモノクロームの写真におさめてきた。今回の取材では、これまでの作品歴をふりかえりながら、その距離の意識の根幹にあるものについてお話しくださった。

なお奇しくもこの取材後、本文中でもふれている『Missing Half~ネパールの少女売買』で、藤元氏は第15回上野彦馬賞グランプリを受賞された。よろこびとともにここに記しておきたい。

(取材・文=萩野亮/neoneo編集室)

『Instant Gamble』より © Keiji Fujimoto.

|なぜ自分はこの人を撮りたいのか

――アメリカで写真を学ばれたと伺いました。カメラを持たれたのはいつごろなのでしょうか。

藤元 そんなに昔からカメラに馴れ親しんでいたわけではないんですよ。始めたのはアメリカに行った21のころです。写真を始める前には、絵を描くのが好きで、若者にありがちな一人旅をしながら絵を描いていたようなタイプだったんです。アメリカに行ったらジャーナリズムをやりたいと思っていて、ただ書くだけでいいのか、と考えたときに、日本人だからことばの壁もあるし、映像で表現することには兼ねてから興味があったので、写真を選びました。

――アメリカでジャーナリズムを学ぼうと思われたのは?

藤元 当時、日本の暮らしに息苦しさを感じていました。思春期を過ぎた頃から自分が同性愛者であることに気がつき、周囲の雰囲気に染まれない自分を自覚しながら生きていました。当然周りにも秘密にしていました。同期生達が楽しそうにボーイフレンドやガールフレンドと休日を過ごしているのを横目に、ひたすら海外を旅していたのは、そんな厳しい現実からの逃避の意味を含んでいたように思います。

もちろん海外に出たからといって、すぐに居場所がみつかるということではないのですが、当時のオレは、リベラル、コンサーバティブを含めた世界にある多様な価値観にたくさん触れることで、自分の存在を正当化する理由を必死に見つけようとしていたように思います。ジャーナリズムを選んだのは、オレのように社会と自分の間にギャップを感じている人々にあえて目を向けることにより、自分が常々世の中へ感じている不満の代弁者となってもらいたいと考えていた節もあったと思います。あと、元々トラブルが好きな性格もその事を後押ししていたかもしれませんね。

――「トラブルが好き」というのは、たとえば火事が起きたら見に行くような?

藤元 いえ、他人のトラブルを見るんじゃなくて、自分がトラブルに巻き込まれるのが好きなんです。不良グループにあえてケンカを売ったりだとか、山で遭難したりだとか、そういうトラブルが自分に起きるとわくわくしてくるんです(笑)。学生時代に遭難して下山した後、警察所に連れていかれたことがあって、その日は電車もないしどうしようと思っていたら「泊まってっていいよ」っていってくれて。意外にそこで警官と仲良くなって「またね!」みたいな(笑)。ふだんはなかなか警察署に泊まったりする経験ができないじゃない ですか。

――遭難されたんですか!?

藤元 恥ずかしいんですけど、奥多摩なんですよ(笑)。登山家の人たちに怒られそうですけど、2月にジャージとジーパンにニューバランスのスニーカーで行ったんです(笑)。1400メーターくらいある山だったんですけど、「奥多摩だし大丈夫でしょ」って午後から登り始めたんです。頂上に着いて、同じ道から戻ればいいのに、違う道のほうが楽しそうだと思って反対側を下っていったら、雪がぜんぜん溶けていなくて。スニーカーだから滑るし、早く降りないとと思っていたら真っ暗になって、道を見失って林のなかに取り残されました。携帯の電波が一本立ってたんで警察に電話したんですけど、2時間経っても3時間経っても誰も来なくて。寒さに震えて諦めかけていたら、夜中の12時近くになってようやく遠くのほうから声が聞こえてきました。

――そういう経験を自分から積極的にされてきた

藤元 あえてするつもりはないんですけど、物事をあまく見るから、すぐそういうことになるんです(笑)。人生で何度も経験していますね。トラブルに出会うと、普段垣間見れない世界に入り込むことができ、日常を違った視点から捉えることができるようになります。そういうのが好きだから、あえて直さないんだと思います。

――カメラをもつと、そうした「トラブル」への見え方も違ってきたんじゃないでしょうか。

藤元 カメラを持つようになって、撮影対象の方が抱える内的なトラブル状態にどこまで踏み込んで共有していけるか、ということにも強い興味を感じるようになりました。

――いわゆる報道写真でもなく、アート写真でもなく、というスタイルは、当初からあったものなのでしょうか。

藤元 ネパールの新聞社でインターンとして働かせていただいていた頃、新聞社のアサイメントだけでは退屈しているオレがいました。お祭りを撮ることも、交通事故を撮ることにも自分をのめり込ませることができなかったからだと思います。自分自身のプロジェクトに取り組む時には「何故この人に興味があるのか」という問いかけなしではプロジェクトを始めることができません。そこを掘り下げていった結果、それがたまたま社会の影で暮らす人達の姿につながり、報道写真とアート写真の間の子のような姿として育っていったのかもしれません。

――報道写真とご自身の写真とは何が違うとお考えですか。

藤元 オレ自身の個人的な思いがどれだけ入り込んでいるか、ということだと思います。報道写真と呼ばれるものの多くは、「客観性」を主体としていることに対し、オレが撮るものは、「主観」や撮影対象の方々との「距離」を大切にするように心がけています。

――取材期間にも差が出てくるのではないですか。映画監督のかたによく伺うのは、まず現地に入って、地域の方がたと関係性を作ってから初めてカメラをまわす、と。

藤元 それはドキュメンタリー写真でも同じですね。最初は何ももたずにただ友だちになって、そのうちにカメラを肩に掛けて「写真撮る人なんだよ」ということを主張し始めて(笑)、ようやく撮る、という感じですね。オレならば、あかの他人がやってきていきなり写真を撮り始めたら嫌な気分になると思うので。当然のことですが、自分がされて嫌なことは他人にもしないことにしています。

 

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