500mlのペットボトルの重さくらいの
暴力を内包して
みな、何かを伝えたがっている
――「現状」
宮城県南三陸町在住の詩人・須藤洋平。2011年3月11日以降、彼が七ヶ月に渡って書いた詩をもとに編まれたのが、詩集『あなたが最期の最期まで生きようと、むき出しで立ち向かったから』である。
実兄が記した「あとがき」には、こう書かれている。
三月十一日、弟は仙台にいた。主治医から「トゥレット症候群」の診断書
を受け取るため南三陸町を離れ、仙台駅前で被災した。その後の約一週間、
故郷の悲惨な情報に耳を傾け、家族の安否を気遣いながら、大勢の避難民
と県庁や市役所を転々とした。ようやくたどり着いた生まれ故郷は、数々
の報道をはるかに上回る惨状だった。
冒頭に挙げた詩は、端的に「現状」と題され、地震と津波によって、まちを、愛する人を失った彼(女)らの腹の底にうずまく、名状しがたい感情を「500mlのペットボトル」という詩句で物質化する。彼(女)らは、その誰にも向けることのできない感情によって、身体を軋ませる。わたしたちはその音を聴き、感情の動きを制し、安直な言葉を差し出すまえに、身体を軋ませるその佇まいを見遣る。須藤の詩句が伝えるひとのすがた。彼(女)らが抱え、その身を内側から突き破る暴力性。それを「500mlのペットボトル」と須藤が明示したことで、わたしたちはその不可視の暴力性の一端を、手でつかみ、握る、その可能性に目を開かされる。
それがなんなのか誰にもわからない
内蔵でもぶちまけてやりたいほどの何かを
さがしている、ガレキの中、まどろんだまなこで
――「現状」
身体にぶらさげ、抱え、埋めこまれた「500mlのペットボトル」は、飲み干すこともできない。いっそ内蔵を吐きだし、自らの肉を突き破り、抉りとってやりたい。それを伝えなければならない、その人がいない。
理解や共感との結びつきを避ける須藤の詩句は、彼(女)らの感情がなぜ暴力性を帯びるのか、という問いを、その佇まいで一息に跳躍する。
「500mlのペットボトルの重さ」。何気なく、日常的に手にするそれは、けっして重い物ではないが、須藤の詩句と出会い、わたしたちは改めて問う。それは、日々を営むうえで、絶えず持ち続けることのできる重さだろうか。須藤の身体的直感は、保持できるぎりぎりの重さを詩句に刻んだ。彼(女)らを縛り、身体を軋ませ、そして歩ませる、たしかな重さ。彼(女)らはこの重さを抱え、斃れてしまいそうになる生を、持ちこたえてゆく。
詩「現状」の最終連、仮設住宅のなかで酒をあおり、酔いに身をゆだねた彼(女)らは、それぞれに「潔く腹を決め」、そして「また、しらじらしく夜が明ける」のを迎える。須藤は、ここでもまた、毎夜、夜を越えていくという、たしかな行為を詩句に刻んでいる。
なぜ生き残ったかなんて、私に知るすべはない。
死んでいった者たちと自分との間に、
明瞭な境界線などどうやって引けるものか
頭脳で追いつくものなら、吐瀉物だって語りだすだろう
――「岩礁」
夜を越え、目を覚ますと同時に「なぜ生き残ったか」と自問する。なにを伝えるべきか、それがわからないのと同様、この問いの答えも「知るすべはない」。わたしたちはただそれを知るだけだ。引くことのできる境界線などどこにもなく、彼(女)らの裡にのみ、境界線が存在する。目を覚ました彼(女)らのまなこは、境界線のうえを漂い、自らの、そして愛するひとの、身体の軋みを聴く。そこでは、「頭脳で追いつくものなら、吐瀉物だって語りだすだろう」という一節が、二重に響き渡る。
頭脳だけで考えられた言葉によって語れるならば、吐瀉物だろうとなんだろうと語ることができるはずだ、と自嘲も兼ねた忸怩たる想いを聴く一方、胃が痙攣によって拒絶した吐瀉物の言葉は、頭脳を通さず、直接彼(女)らの身体に、隅々にいたる神経細胞に、語りかける。須藤は吐瀉物を通し、彼(女)らの身体が、土地のどこにいても、絶えず訴えかけられていることを提示する。訴える声は、彼(女)らの「私」という明瞭な境界線をばらばらし、身体の神経や細胞それぞれが放つ声を、「まどろんだまなこ」が見ている。
「ばらばらでねくていがったな」
漁師たちが口々に言い煙草をふかした
――「岩礁」
このむき出しの言葉は、吐瀉物の声だ。身体を軋ませる暴力的な感情を抱え、ひとつひとつの夜を越える彼(女)らの身体は、神経細胞それぞれが放つ声にも軋む。彼(女)らはつねに無数の声を内在させ、吐瀉物であり、土地そのものである声が、その身を突き破るさまを曝けだすことで、その想いを共有する。彼(女)ら自身の記憶、愛するひととの思い出、愛する彼(女)らの声、そして土地に生を歩んだひとびとの声、土地の記憶、土地の声……、彼(女)らはそれらの声たちとともに日々を越える。全身が、それぞれの声に満ち、ばらばらにされた彼(女)らの口をつく言葉は、死者を覆い隠そうとしない。
波が引いて行ったあと、
むき出された岩礁のたまりに
なにか息づいているかも知れない
そしてその水はきっと、塩からいだろう
――「岩礁」
「なぜ生き残ったか」。伝えたいことは何か。その叫びを、わたしたちが共有できるとは思わない。声をあげる者、心中で呟く者、誰ひとりとして同じ叫びをあげる者はいないだろう。波が引き、むき出された土地は、言葉になどできるものではなかっただろう。だが死者を覆い隠さずに、須藤が、むき出しの岩礁に息づくものを言葉にしたことで、わたしたちは、ここから歩みゆく者たちを感じとることができる。「あなたが最期の最期まで生きようと/むき出しで立ち向かったから」、「500mlのペットボトルの重さ」を抱え、身体を軋ませて歩む彼(女)らと、わたしたちは出会う。
須藤洋平(すとう・ようへい)
1977年生まれ。詩人。2007年、私家版詩集『みちのく鉄砲店』で中原中也賞を受賞。
【書誌情報】
『あなたが最期の最期まで生きようと、むき出しで立ち向かったから』
須藤洋平 著
河出書房新社
単行本 46変形 ● 72ページ 1470円
ISBN:978-4-309-02077-8
発売日:2011.11.28
第27回詩歌記念館賞受賞
【執筆者プロフィール】
中里勇太(なかさと・ゆうた)
編集業・文筆業。『佐藤泰志 生の輝きを求めつづけた作家』(福間健二監修)、『KAWADE道の手帖 深沢七郎』、『文藝別冊 太宰治』、『文藝別冊 寺山修司』(以上、河出書房新社)、現代詩文庫『岸田将幸詩集』(思潮社)、『寺山修司の迷宮世界』(洋泉社)などに寄稿。Zine「砂漠」。
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